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私の「北越雪譜」半世紀 1 「雪と人生」

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その1 雪と人生

     雪地獄父祖の地なれば住み継げり 阿部子の日

 この句には、雪国を「雪地獄」と呼んでいる。十日町市で昭和十三年に起きた雪の災害で亡くなった人を弔う観音堂に掲げられた句である。この年正月、映画館いっぱいの観客が入っていたとき、突然雪の重みで屋根が崩壊し、死者六十九名、重傷者二十七名、軽傷者六十五名の大惨事が起こったのである。この句には父祖の地であれば、たとえそれが地獄のような場所でも住み継いでゆくというあきらめとも捨て鉢ともいうべき心情が吐露されている。この事故の後、雪国十日町が全国的に有名となり、小学校の教科書にも雪国十日町の名前が知られるようになったと聞く。
 其の十日町市と隣接する長岡市小国町に住み続けて、平成二十七年には、とうとう七十五歳の後期高齢者となった。新しく長岡市となった旧刈羽郡小国町は新潟県の中央よりやや南西部に位置する。周りをぐるりと低い山脈に囲まれた山里。ここに生を受けて住み続けて七十五年が過ぎた。冬になるとどさりと重たい雪に埋もれて、半年間を雪の中で生活する生活。この雪国の雪がわが体の隅々まで入り込んで骨となり、肉や血液となって長い人生を生き抜いてきた。
    温き土知らず雪虫雪に死す 蛙声
 これは私の俳句である。雪虫は雪の中に生まれ、雪どけの時期にその生を終える。その雪虫と自らの人生を重ねて詠んだ句である。

我が家の雪下ろし
 雪の中で思い出される場面はいくつもある。昭和四十一年四月から四十三年三月まで私は松代町立清水小中学校に勤務していた。東頸城郡と刈羽郡の郡境に位置する学校だった。今は廃校になってしまったが、小国の家から父親の運転するバイクの尻に乗せてもらい、山を越えて鯖石壕にはいり、今は柏崎市に編入されているが、柏崎市大沢から岡之町・栃ヶ原を通って初めて勤務する学校まで雪道を歩いた。三時間の行程は、春先で雪は固く締まっていたが、山の尾根を歩く雪道は足元がザクザクしてつらかった。
 昭和四十四年の冬は大雪だった。冬休みが終わって勤務校に戻るときは、信越線安田駅で降りると、バスがストップして高柳に向かって歩き出した。途中で日没となり、近くの親戚の家に頼み込んで泊めてもらうことにした。翌日また学校へ向かって歩き出して、吹雪の中を山の尾根伝いに歩いて夕方漸く住宅に着いた。一日中歩いて汗びっしょりになった。その時、雪は上から降ってくるのではなく、下から吹き上げてきた。勤務校に戻ると、四月雪消えまで、自動車の音は聞こえず、荷物は中心地松代から人の背で運び上げた。日曜日には、同僚と連れ立って松代まで歩き、散髪したり、肉を買ったりして学校の近くの住宅に戻った。
 こうしたつらい経験に反して、春先の雪解けの時期は、心弾んで、うきうきする毎日だった。天気の良い日は雪原の表面が固く凍り、シミワタリといって、田圃の上でも、林の中でも自由に歩くことができた。雪解けの山々にはマンサクの花が咲き、木々の緑が一斉に芽吹き、たちまち山が緑に染まる。俳句に「山笑う」という語があるが、春の山の草木が一斉に若芽を吹いて、明るい感じになるようすをいう季語である。
 魚沼出身の池田恒雄氏に次のような一文がある。

 四月の声を聞くと、黒い土がところどころに顔をだし、雪どけの水を集めて、小川は声高く流れ、雪国に春の訪れをつげてくれる。やがて、梅も桃も桜も、いっせいに咲き出し、新緑の粧いが山野をつつむのだ。このときほど、シェリーの詩「春よ、かえってきたのか」という一句に、強く胸を打たれることはない。
 きっと永い吹雪の夜が続くと、花の咲く春が、もうやって来ないのではないか、というような不安が、人々の心を支配したのではないだろうか。それだけに冬籠りの生活の中に、家族のものが親しみあいながら、平和な天地を作り出そうと努めたのではないだろうか。

 まさに長い間雪に閉じ込められているからこそやってくる春の喜びは大きい。この筆者の文に共感するところが多い。
    雪国を捨てず雪解けあるかぎり 他石


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