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私の「北越雪譜」半世紀 3 卒論「北越雪譜」と初めての塩沢

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その3 卒論「北越雪譜」と初めての塩沢

 昭和三十六年四月、私は新潟大学三年生として新潟に移った。その頃新潟大学教育学部は高田と長岡に分校があり、三年になると後期課程就学のために新潟本校で学ぶことになっていた。その時、すでに私の卒論は「北越雪譜」に決めていた。岩波文庫「北越雪譜」の手元に置いて何回か読みこなしていた。
 大学三年になったばかりの、昭和三十六年五月に、初めて上越線の塩沢駅に降り立った。その年塩沢では、牧之没後百二十年忌祭が行われたのである。この人物を二年後の卒業論文にまとめようとするためには、どうしても現地を訪れておく必要があった。塩沢の駅前から望む雪をいただいた金城山や巻機山はなんとも形容しがたい美しさであった。私の故郷小国町を代表する山は五一七メートルの八石山でしかない。県境のこの千メートル級の山を美しいと思った。それから現在まで五十年もの間この地とつながりをもつとは想像もできなかった。この塩沢行きが私の牧之研究をいよいよ決定的なものにしてしまった。
 駅を出て町の中に入り、牧之の菩提寺になっている長恩寺を訪ねた。ここで入り口にある経蔵を改装した鈴木牧之記念館を見学した。牧之は文章だけでなく、絵にも堪能だったことを知った。午後から塩沢小学校を会場に講演会が開かれ、高柳町貞観園の村山騏嶺氏の「娥嵋山道標後日談」と学習院大学児玉幸多氏の「鈴木牧之と近世庶民文化」を聞いた。児玉氏は、日本歴史は中央文化だけしか目を向けなかったが、これからは地方文化の研究が一層重要性を増すであろうと強調された。北越雪譜はその地方文化の代表的産物である。これを卒論に選ぼうとする私にとってはなにより心強いサポートになった。高柳町貞観園村山家は牧之の妻うたの実家であり、婿勘右衛門も高柳村山家からきている。今手元に「鈴木牧之百二十年祭行事報告書」があるが、そこには、県教育員会の序や「百二十年祭行事報告」「牧之顕彰会役員名簿」「俳句大会報告」「牧之翁を讃える歌」「川柳大会報告」「書道展報告」「遺墨展目録」「年譜表」「会計報告協賛者芳名簿」などが載っている。この時魚沼出身でベースボールマガジン社社長の池田恒雄氏の援助で「北越雪譜と鈴木牧之」という小冊子の出版がなされ、町内の小中学校に寄贈された。
 ちょうどその頃県教育員会で『鈴木牧之資料集』の編集中であることを新聞で知った。すぐさま担当だった社会教育課の宮栄二氏に手紙を出して、この仕事を手伝わせてほしいと頼んだ。その頃、牧之の資料は「北越雪譜」のほかに越佐叢書の「秋山記行」の二冊しか活字化されていなかった。宮栄二氏の新潟市松波町のお宅にもお邪魔した。牧之の句集「秋月庵発句集」の翻刻を手伝うことになった。といっても牧之の原文を読めるわけがない。
 それでも牧之の句で「竿名月」と読んでいた字句を「芋名月」と読むのではないかと提言し、宮氏に感謝されたりした。「芋名月」とは旧暦八月十五日の中秋の名月のことで、里芋をお供えする風習からよばれた言葉のようである。

塩沢町長恩寺
 この年の夏、私は塩沢の長恩寺に泊めてもらって牧之の未活字本小説「広大寺躍」を移すことにした。写すといってもカメラを持たない私は、原本の上にセロファンを載せてその上から薄い和紙をかぶせて透き写しする方法だった。この作業に五日間かかった。この小説は十日町市下条にある広大寺の僧と門前の娘お市との恋愛を基にしている。今も十日町地方に伝わる「新保広大寺」の民謡として歌い継がれている。これがのちの「鈴木牧之全集」に活字化された。
 塩沢ではこれがきっかけになって長恩寺の人達や牧之関係の井口修治さん、平賀馨さんなどの人達とも交流するようになった。この後。昭和四十四年牧之生誕二百年祭が行われ、役場前に「北越雪譜之碑」が建てられた。この時にも塩沢を訪れた。そして平成元年、元塩沢小学校跡地に新しい「鈴木牧之記念館」ができた時にも、訪れた。牧之の記念行事が行われた節目毎に塩沢を訪ねた。その後、平成二十一年、牧之通りが町中にでき、観光産業の中心に置かれるようになった。


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