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私の「北越雪譜」半世紀 4 小説「雪残る村」の執筆

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その4 小説「雪残る村」の執筆

 昭和三十八年四月新卒教員として十日町市立水沢中学校に赴任した。
 そこではしだいに『北越雪譜』からも離れてゆくことになる。十日町には『文学北都』という同人雑誌が出ていた。私は、この仲間に入れてもらい、小説を書いた。かつては、新潟日報の読者文芸投稿者を中心とした同人雑誌『笛』に加わっていたこともあったが、本格的な小説を書いたのは、この『文学北都』にはいってからだった。今まで、小説らしい小説も読まず、そのころどんな小説が話題になっているかも知らず、小説については、全く素人だった。ここにはじめて書いた小説は「竜の住む池」というもので、民話を集めたころの自分のことを書いた。二作目が「雪残る村」だった。
 ここには、私は、なぜ北越雪譜を卒論にとりあげたか、当時私の持っていた悩みをありのままに書いた。下宿に帰ってから、ペンを執った。昭和三十九年四月から九月にかけて四百字詰原稿用紙五十五枚の短い小説だった。この作品は三十九年十月の『文学北都』十八号に載せられた。そして、全く思いがけないことに、これが四十年『文学界』の新年号に転載されることになった。その年十一月二十日に、私のところへ電報がきた。

ユキノコルムラ テンサイイタシタクゴキョカコウ リレキスグオクレ」ブンガク カイ

 という電文だった。私は、そのころ『文学界』という雑誌のことも知らなかった。それが何を意味しているものかわからなかった。さっそく本屋にいって、この雑誌を開くと、ここに「同人雑誌推薦作」というものが載っているので、ようやく納得した。
 十二月十日、この文芸春秋社から出ている『文学界』昭和四十年新年号を手にしたときの興奮は今も忘れることができない。その最後に久保田正文氏の次のような批評が載っていて、感激した。

「人生に怖れとうたがいをいだきながらも、江戸時代の不遇な研究者鈴木牧之の生き方にはげまされ、一種の諦めのような勇気をもって、僻地の中学教師として赴任してゆくまでの、ナイーヴな青年の生き方をたどっている。夏休みに、資料を求めて東京へ出てきた時の心躍りなども、いきいきととらえているし、西鶴や近松のような一流作家を卒業論文として選んだほうがトクだったのではないかと迷いながらも、牧之のねばりづよさに同郷者としての親近感から魅せられつつ執してゆく姿にもリアリティがある。出版元への斡旋を依頼された流行作家馬琴が、永年原稿を預かり放しですっぽかす姿などには、巧まずして現代への風刺も反映しているかもしれぬ。教師になることへも迷いを抱いている主人公が、冬の休暇になって郷里の家に帰り、雪に閉じこめられた沈欝の中ですすんでその雪の中へ深く自分の人生を埋没させてゆこうとこころきめる過程も、素直に納得される。
 それだから、明日はいよいよ赴任地へ出発しようとする夜、質流れ品を安く手に入れたはじめての背広を身につけ、ネクタイの結び方を練習しながら就任演説の稽古を父や母や兄弟の前でしてにぎやかに笑い声をひびかせている結末シーンが、雪明かりのようにほのぼのと、春のことぶれのようにひそやかに、よくできた戯曲の幕切れのように自然に、読者のこころにしみてくるのである。(久保田正文) 

「雪残る村」が載った文学界と文芸春秋
 この作品が「文学界」にのると、次々と新聞社の取材申し込みがあり、テレビの出演依頼があり、一夜明けたら有名人になっていたという始末だった。しかし、この年第五十二回の芥川賞は該当なしときまった。その審査委員の評が『文藝春秋』昭和四十年三月号にのるが、その中で「へっぽこ小説を書くことを考える前に牧之でもイワシのあたまでも、これはと思うものについてしっかりベンキョーしなさい」という石川淳の酷評には衝撃を受けた。この批評に対して久保田正文氏は「新潟県の山奥で中学の教師をしながら、地味な私小説風な作品を、一年に一件くらいずつ、こつこつ書き継いでいる二〇代なかばの若い作家に、これではまるで青虫をヒネリつぶすような暴力ではないかと思った」(「労働者文学の条件」現代書房 昭和四〇年)と弁護してくれた。
 この「雪残る村」は昭和四十八年新潟日報事業社から自費出版した。そしてその後「紙の匂い」「さつきの花」そして平成二十七年の「枝雪弾く」と四冊の小説集を出版することになった。


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