本文へスキップ

私の「北越雪譜」半世紀 6 鈴木牧之の生涯

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その6 鈴木牧之の生涯

 「北越雪譜」の著者鈴木牧之は、十八世紀後半から十九世紀にかけて、現在の南魚沼市塩沢で生を受け、そこで生涯を終わった人である。牧之が没した天保十三(一八四二)年、その二十五年後には、日本は明治維新を迎えるのである。
 鈴木牧之は、俳号で幼名は弥太郎 元服後は義三治と呼ばれる。生れは明和七年(一七七〇)年。父恒右衛門、母とよの長男だった。鈴木家は父の代に分家し、縮中買い商を営み、後に質店を営む。母は塩沢姥島村出身で、縮織の名手だった。父はまた周月庵という俳号をもつ俳句の師匠格であった。後の牧之の文章への才能はこうした父のDNAを受け継いでいるかもしれない。十二歳の時近くの大運寺の快運和尚から手習いを受け、姉の嫁ぎ先六日町の今成家に泊まり込み、商売のノウハウを身に付ける。また江戸からやってきた画家狩野梅笑に絵の手ほどきを受ける。漢詩は 雲洞庵の僧虎班から手ほどきを受ける。こうした文学的素養が後に「北越雪譜」として花開く。

法螺貝を耳にあてた牧之
 十九歳の時、仕事関係で江戸に出かける。初めて見た華やかな江戸の町が印象的で「東遊記行」を書く。恐らくこれが文章の初めであろう。二十七歳の上方参り。伊勢参宮、西国巡拝した後「西遊記神都詣西国巡礼」を執筆する。そしてこのころ、江戸の戯作者山東京伝と文通を始める。戯作とは、近世後期、十八世紀後半頃から江戸で興った通俗小説などの読み物の総称。戯れに書かれたものの意味で、明治初期まで書かれた。戯作の著者を戯作者という。江戸ではこのころこうした戯作者による出版文化が花開いたときである。牧之はここで越後の豪雪を江戸の戯作者山東京伝によって紹介してもらう意図があったと思われる。しかし、雪の書の出版計画は、挫折する。経費がかりすぎるというのである。江戸の著名な戯作者の書なら出版しても元が取れる。しかし、越後の無名の文人の書に版元が躊躇したのであろう。してみれば、牧之は京伝の書で紹介してもらうのでなく、自らの名前を冠した書を出版しようともくろんでいたのであろう。この書の校訂出版に関わった戯作者は、大阪の岡田玉山、画家鈴木芙蓉、滝沢馬琴、そして京伝の弟山東京山と人が変わり、最後は京山によって出版される。初編、二編合わせて七巻すべてが出版されたのは天保十三年牧之の死後であった。牧之はこの書の出版に実に四十年を費やした。これはまさに執念の書ともいえる。
 牧之は生涯をかけた北越雪譜のほかにも、苗場山に登り、信越国境の秘境秋山郷を訪ね、それぞれ文章をまとめている。好奇心旺盛な性格の一端を垣間見ることができる。ここにも一つの書物にしぶとくこだわり、完成させる越後人の魂のようなものを感じる。こうした越後人魂は。後の「地名辞書」吉田東吾、「越佐史料」の高橋義彦、「大漢和辞典」の諸橋轍次などの人物に受け継がれている。この間この書の出版にかかわった人物岡田玉山、鈴木芙蓉、山東京伝など次々に没してゆく。馬琴は一旦引き受けながらなかなか仕事に掛からず、とうとう牧之が六十歳を超えたのに、雪譜出版事業は進まず、牧之は馬琴を断り、京山に鞍替えすることになった。そのため、馬琴の怒りを買い、馬琴に送った原稿は一枚さえも帰って来なかった。京山の手で作業が進み、牧之六十七歳天保七年五月、京山は挿絵を担当する息子京水を伴って越後にやってくるが、好事魔多し江戸のお客が来ている最中に中風の病を発し、お客を置いたまま湯沢温泉に行h治療に出かけざるを得なかった。
 家庭的には牧之は二十三歳で結婚するが、結婚運に恵まれず、妻の離縁や死没など繰り返して、生涯六人の妻を迎えることになった。また四十四歳で長男伝之助を結核で失い、同じ年に母とよがなくなる。家庭的には決して恵まれた生活を送ったわけではない。
 牧之の晩年は娘くわの婿勘右衛門と対立し、婿への恨みつらみを八万字の「遺書」として書き継いだ。稼業は縮仲買商から質商に変わるが、父から受け継いだ資産を増やし、鈴木家中興の祖と言われて尊敬されたが、天保十三年五月七十三歳の生涯を閉じた。


「校註北越雪譜」の執筆← [目次] →越後人のねばり

 
★★★鈴木牧之著『校註北越雪譜』のご購入は★★★