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私の「北越雪譜」半世紀 7 越後人のねばり

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その7 越後人のねばり

 平成二十八年五月十四日、新潟日報メディアシップ内の「にいがた文化の記憶館」で開かれている企画展示「越後人のねばり」を見学してきた。ここには三十年かけて「大漢和辞典」を編んだ諸橋轍次、二十一年かけて独力で「大トルストイ全集」を漢訳した原久一郎、十三年かけて独力で「大日本地名辞書」を作った吉田東伍とともに四十年かけて「北越雪譜」を完成した鈴木牧之が取り上げられている。その趣意書の中で館長の神林恒道氏は次のようにいう。

 越後人、つまり新潟県人は勤勉で、ねばリ強いといわれています。この県民性をつちかって来たのが、一年の大半を低くたれ込めた灰色の空のもとで、暮らすことを余儀なくさせられる厳しい自然風土です。とりわけ世界でも豪雪地帯として知られた山間部の人たちの生活は、想像を絶するものがありました。新潟人のすごさは、ただ耐えるだけでなく、やがて来る時がいたれば、内にこもったエネルギーを、爆発的な創造力へと転化させるすべを心得ていたことです。

越後人のねばり展ポスター
 いつか必ずおとずれる春を待ちながら、こつこつと努力を積み重ね、前人未到の偉業をなし遂げた4人の越後人を紹介するのが、今回の企画展のねらいです。とうてい一人では不可能と思われる仕事を、くじけることなく最後までやリ遂げた先人たちの足跡をヴィジュアルにたどってみました。若い世代の人たちには、何ごとも人間はやろうと思えばやれるのだという教訓を、これからの人生の指針として読み取ってもらいたいと思います。

 ここでも氏は越後人のねばりが一年の大半を低く垂れこめた厳しい自然風土の中で培われたと述べている。『大漢和辞典』は漢和辞典の最高峰だ。1925年に大修館書店の鈴木一平に構想され、漢学者の諸橋轍次に依頼されてから、戦争をはさんで、1960年に初版13巻が完結するまで、実に35年の年月をかけた大事業だった。親字数約5万、熟語数約53万。出版当時は世界最大の漢字辞典だった。
 吉田東伍は、1864年現在の阿賀野市生まれ,日本の地名の変遷を記した研究がないことに気付き、13年かけて『大日本地名辞書』11冊を完成した。
 原久一郎は1890年現在の阿賀野市生まれ。トルストイに傾倒し、作品の翻訳につとめ、昭和8年自宅にトルストイ普及会を設置した。11年から刊行の「大トルストイ全集」22巻個人訳は国際的にもたかく評価された。
 この四人の中で、一番早く、その豪雪と向き合って、「北越雪譜」という雪の書を出版したのが鈴木牧之である。まさに「内にこもったエネルギーを、爆発的な創造力へと転化した」人物である。
 ここで思い出すのは、江戸末期柏崎市南条に藍沢南城が開いた「三餘塾」である。三餘とは、年のあまりの冬、日のあまりの夜、時のあまりの雨という意味で学問に集中できる時間という言葉である。牧之は昼間明るいうちには書物を開かず、雪や雨の時間を有効に使って筆を執った。越後の雪は、内にエネルギーを蓄える術を教えた。そしてそれが越後人の体の中までしみ込んで、季節が巡って春が来ると同時にエネルギーが爆発する。
 企画展が挙げた四人のほかに吉田東伍の弟高橋義彦の「越佐史料」もその類に入れられる。ネットではこの本を次のように解説する「越後,佐渡両国の編年史料集。新潟市大形の地主高橋義彦が兄の吉田東伍の志を継ぎ,東京帝国大学史料編纂掛の渡辺世祐,花見朔巳,布施秀治らの協力を得て編纂。《大日本史料》に範をとり,綱文をたて史料を配する。第1巻(神代から)は1925年刊。31年第6巻(天正12年6月まで)を刊行したが,高橋の死により中絶した」
 こうして新潟県には、長い時間をかけて、一つのことに向き合って、自らの学業の完成を成し遂げた人物を多く生み出した。雪国の風土が生み出した珠玉の人物である。


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