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私の「北越雪譜」半世紀 18 秋山郷の旅と『秋山記行』の出版

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その18 秋山郷の旅と『秋山記行』の出版

 新潟県中魚沼郡津南町は長野県と県境を接している。この中心部を流れる中津川渓谷上流に沿った十二の集落は秘境秋山郷と呼ばれていて、観光スポットの一つになっている。
 北越雪譜初編中之巻に「秋山の古風」という項目があり、次のように書かれている。

信濃と越後の国境に秋山といふ処あり。大秋山村といふ根元として十五ケ村をなべて秋山とよぶ也。秋山の中央に中津川といふありてすゑは妻有の庄を流れて千曲川に入る川也。川の東西に十五ケ村あり。…秋山記行二巻を編して家に蔵む

 ここは、平家の落人伝説を持つ。かつては、行政、経済、文化あらゆる面から隔絶された秘境であった秋山郷は新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村にまたがり、中津川両岸に点々と集落が点在する。鈴木牧之は文政十一年九月八日桶屋団蔵を案内人としてこの地を訪れ、九月十四日に帰郷している。その時のコースは次のとおりである。
 塩沢・十二峠・葎沢・小出・田代・所平・太田新田・見玉(泊)・清水河原・三倉・中ノ平・大赤沢・甘酒・小赤沢(泊)・上ノ原・切明(二泊)・屋敷・前倉・上結束(泊)・逆巻・小出(泊)・塩沢
 この時書かれた文章が『秋山記行』である。江戸時代こうした秘境を訪ねた文章は珍しく、菅江真澄の東北記行『真澄遊覧記』と双壁をなしている。江戸時代、知られていない辺境の旅として、紀行文『秋山記行』の意義は大きい。今の秘境のブームの元を作った。
 牧之が秋山への旅を思い立ったのは、江戸の戯作者十返舎一九に勧められたからである。十返舎一九は文化十五年(一八一八)、牧之宅を訪問。牧之の話す秋山郷の話から秋山記行の執筆を勧められる。人は、いつも外からやってきた人に教えられて、初めて自らの身の回りの価値を再認識させられる。牧之は一九の勧めから十年後、文政十一年(一八二八)秋山郷を旅する。この十年間、長年連れ添った妻うたの死、後添えとのごたごたなど身辺があわただしかった。
秋山記行  牧之はこの旅の後、早速この紀行文の執筆に取り掛かった。天保二年(一八三一)牧之は『秋山記行』(いわゆる実録本)上下二冊とそれにフィクションを交えた『一九牧山秋山記行』(いわゆる戯作本)を送った。しかし、その年一九はなくなり、この書は日の目を見ることができなかった。牧之は「此両冊、十返舎一九へ贈り、開板を急がんとせしが、鳴呼、悲しいかな、一九子、此晩秋帰らぬ旅に赴きしよし海内に轟く」とその無念を述べている。その後、この『秋山記行』が世に出たのは、それから百年も経った昭和七年今泉木舌編『越佐叢書』の一冊だった。そして、戯作本はそれから三十年も経った昭和三十七年、「信濃教育会」によって出版された。そのとき、戯作本の原本は行方がわからず、写本を底本に使った。実録本は、小千谷の山本清氏が所持しておられる草書本のみが、いま伝わり、『越佐叢書』原本になった訂正本は今もって行方がわからない。
 古本屋から送られてきた「古書市」カタログをめくっていた。そこに『信越境秋山記行』の写真が載っていた。それは、かつて見たことのある表紙だった。
 拙著『北越雪譜の思想』口絵写真に転載した鈴木牧之百年祭祈念集『六花集』に載っていた未見の本だった。これは本物だろうか。それにしても解説に「一九牧山記行」と書かれているのが気になる。
 本屋の目録を見て、この訂正本『秋山記行』ではないかと思った。それにしても「一九牧山記行」の文字が気にかかる。早速、ファックスでこの本を注文し、原本を見せてもらいに急行する。それは、紛れもなく牧之の筆跡で、なんと「戯作本」原本だった。表紙の裏に小さく「十返舎一九鈴木牧山記行」と書かれている。「鈴木屋」の判が押された所を見れば、長らく鈴木家に伝わってきたものであろう。昭和三十七年鈴木牧之顕彰会発行の「鈴木牧之と北越雪譜」のグラビアにこの表紙の写真が載っている。この頃までこの本は塩沢町にあったことは確かだ。それならば、同じころ発刊の信濃教育会本になぜこの本を底本としなかったのだろうか。この原本の存在を編集者は知らなかったのか。謎が深まるばかりである。
 この本はこうして私の手に入ることとなった。この本を手にして私は暫く興奮が止まらなかった。一生の間にこんな興奮を味わうことは恐らくこれからもないだろう。この瞬間から戯作本原本の所蔵者になったからである。
 持ち帰ってこの本をじっくり読む。信濃教育会本に載っていない「後書き」があることが判明する。この宛先は、十返舎一九に違いない。しきりに出版の懇請をしている。この原稿が一九の眼鏡にかなうなら、画もあとから送ると書かれている。そしてこの原稿を「此両巻ハ譬ハ家作ノ材木ヲ只集めたと思召被下、斧打ちかんな仕揚げハ君可然奉願上候」といっている。牧之は、一九に材料を提供し、一九の名前で本にしてもらおうと思っていたらしい。そして「飽事をサッザ」「其侭ヲソンマ」などと七十一語の方言を解説している。ここで、疑問が湧く。この後書きで牧之は六十三歳になったと言っている。牧之六十三歳は、天保三年にあたる。一九は前年天保二年に死んでいるのである。実録本の後書きでは、一九の死に触れているのに、これはどうしたことか。この後書きは、実録と同じ天保二年に書かれたものであろうか。この後書きの実録本との不整合の解明がこれからの課題である。
 この書は、後に南魚沼市の「鈴木牧之記念館」に寄贈することになった。


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