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私の「北越雪譜」半世紀 19 古風の残る秋山郷

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その19 古風の残る秋山郷

 鈴木牧之は文政十一年九月八日桶屋団蔵を案内人として秋山郷を訪れ、九月十四日に帰郷している。この時の記行の一端が『北越雪譜』初編巻の中にある「秋山の古風」である。今回はここで見た秋山の様子を紹介してみよう。
 九月八日、この日は秋山の入り口見玉村の不動院に一泊した。
 次の日「桃源を尋ぬる心地して」秋山に足を踏み入れた。
 清水川原の入り口に丸木の柱が立っており、その中央に高札が立っていた。なんだと思って近寄ってみると、「庖瘡のあるむらかたのものは、ここから中へ入ってはいけない」と書いてあった。庖瘡は今の天然痘である。今ではワクチン接種でこの病気は絶滅されたといわれているが、当時の人々が最も恐れていた伝染病である。案内がいうには、秋山の人は庖瘡の病を恐れること死をおそれると同じである。この病気では十人中九人までも死んでしまうほど恐ろしい病である。もし庖瘡を病むものがあればたとえわが子であろうとも、家に入らせず、山に仮小屋を作って入れ、食べ物を運んで来るだけである。少しお金に余裕がある人は、山伏を頼んで、祈らせるものもある。秋山の人はよそへ出て庖瘡があると聞くと、どんな重要な用事でも捨てて逃げて帰る。そのためこの地で庖瘡を患うものは希である。
 さて清水川原に着くと家が二軒あった。それからしばらく歩くと中津川の岸に到着した。向かいの岸に逆巻村があった。その両岸を結ぶ橋が猿飛橋というものだった。両岸は、屏風を立てたような絶壁で、岸から一丈ほど下に、両岸から差し向かいの岩の鼻先に橋を架けたところがあった。橋はまっすぐな丸太を二本並べて細木を藤綱で岸の大木に括りつけただけのものである。これに纏って上り下りする。見るさえ危なげに見えて、かつて芭蕉が「蝶も居直る笠の上」と読んだ俳句木曽の懸け橋と劣るところが少しもない。案内がいうには、「今日はこの橋を渡らず、東の村々をみて小赤沢村にいくならもっといい道がある。小赤沢に知っている人がいるので、そこで宿を求めるがいい」という。橋を渡らないと聞いて心が落ち着き、岩に腰かけて矢立を取り出して橋を写生してあたりを見回した。そごに叺(かます)を背負った農夫が二人やっできて、身の毛のよだつような橋をすいすいと渡ってゆく様子は猿のようだった。そこから三倉村に着いた。三倉村は今では見倉と呼ぶ。ここで会った老女が着ていたのが「アンギン」であった。アンギン袖なし羽織のようなものであった。山野に自生するイラという草を糸にして織ったものであった。このアンギンを昭和に入って再発見したのが民俗学者の小林存翁であった。今年の春、県立歴史博物館で「すてきな布」と題してアンギンの企画展があり、様々なアンギンが展示されていた。この織物は「織る」という技法が伝わる前に「編む」という方法で、俵を編むようなやり方で編む古代織物だった。縄文土器の表面にもこの網目模様が発見されて、古代織物として注目された。
 さて、この家の作り方を見ると、土台は据えず、土の中に柱を埋め建てただけのもので、貫は藤弦で柱に巻き付けてある。菅草をまわして壁替りとし、入り口は大木の皮を下げてある。家の中心にある囲炉裏は五尺もあるばかり大きい。五尺と言えば、一・五メートル四方の囲炉裏、深さは六〇センチもあった。家具と言えば、木鉢の大きなものが三、四個あるだけで、他のものは見当たらない。秋山は米を作らず、粟稗を主食とし、栃の実を拾って食料としているという。そして、中の平村、天酒村を経て小赤沢に着いた。ここは二八軒あり、秋山の中で二番目に大きい村であった。牧之が訪ねたときあった天酒村はその後天保の飢饉で全村離散して現在は神社の跡のみ残している。
 小赤沢の宿を求めて、部屋との仕切りを見ると、藁蓆(わらむしろ)を垂れただけになっている。ここの大きな囲炉裏には、足を灰の中に踏み込み、柱になるような大木を惜しげもなく、炉にくべる。この家には、娘三人おり、顔立ちが大変美人だった。その炉の周りでこの宿の主に村の風俗を聞いた。
 ここで雪の季節に死者が出た時には、寺が遠いので、村に持ち伝えた黒駒太子の画軸を死人の上にかざしてこれを引導として、葬る。太子の画像は、他の人に見せない。秋山の人は冬も着たまま


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