本文へスキップ

私の「北越雪譜」半世紀 24 老残鈴木牧之の怨嗟

鈴木牧之suzuki bokusi

鈴木牧之

その24 老残鈴木牧之の怨嗟

「さべる」という方言
 新潟県の魚沼地方に「さべる」という方言がある。「しゃべる」と似ているので、「話す」意味と間違えられる。しかし「さべる」は「しゃべる」と微妙な違いがある。『新潟県方言辞典』(大橋勝男編)には、「サベクル」の項に「@話す。しゃべるA叱る」の二つの意味をあげている。「先生にさべられた」というのは、話しかけられたのではなく、叱られたということである。「しゃべる」との違いは、そこに、相手への批判的な感情が色濃く込められていることである。だから、仲良しの二人は「しゃべる」ことはあっても、「さべる」「さべくる」ことはない。
 天保八年、売り出された『北越雪譜』初編は、越後の大雪の有様があますことなく書かれていて、評判が良く、雪の少ない西国で、大きな評判になっていた。出版元丁字屋文溪堂は、しきりに続編の執筆を促してきた。
 しかし、天保十年の正月を迎えて牧之の心は、少しも晴れ晴れとせず、憂欝だった。七十歳古希を迎えた牧之の体は三年前に中風の病を発し、手足も思うように動かず、目もかすんできて、確実に老残といってもよい状態だった。ただ、精神だけは研ぎ澄まされていた。その憂欝の一番の原因は、娘婿、勘右衛門の牧之に対する態度である。二階に、とじ込められた状態の牧之が、退屈して階下に下りてみると、ことごとく目に付くこと、目障りなことの連続だった。当時、鈴木家は、こつこつと稼業を積み上げ、質業を営んでいたが、勘右衛門は記帳が嫌いだった。出入帳を何日も放っておいたままにしておいた。店に来た書状を見ようとすると、勘右衛門が横から鳶が攫うように引っ手(た)繰ってしまう。何を聞いても年寄りが出る幕でないと言って、話そうとしない。牧之の心の中には、婿勘右衛門への怨嗟ともいう感情が煮えたぎっていた。にも関わらず、それは、牧之の心の奥深くしまいこまれた。言いたいことを口に出して言えば、勘右衛門が何を言い出すかわからない。キレて怒鳴りだすのをじっと我慢していなければならなかった。「それでもさべらず」「右もさべらず」「腹立つべきもさべらず」「少しもさべらず」牧之の遺書には、この言葉がしきりに出てくる。 勘右衛門のやり方を批判したいのをじっと耐えている。「前条にさべらず、さべらずと認めたり、如此さべる事ハ車ニ摘むほどなれ共、百にして一ツも申すと心に応ぜず、怒腹立事のいやさに、ここが忍々と朝夕信心仕候て過ごせり」、耐えて耐えて耐えぬいた牧之であったが、それを「遣書」に書き付けた。遺書こそが牧之の「怨み」の世界だった。

遺書に込められた牧之の怨嗟
 天・地・人の三巻に分けられているが、その字数七万字、ことごとく家族への恨みと父母への追懐の情で貫かれている。

 此の随筆ハ予が生涯之気質荒増傍の筆紙に思ひ出す事、日頃の癖にて後にとせず、大ニ前後混乱して、無為之時ハ燈火に認れど、白昼に眼病を厭ひ、胸に有るを包まず、餝らず、文字や仮名遣も改めず、伏字数日かゝりて死後の遺筆教訓の端にも成らんと、雪譜後編もさし置き、今春別て何処も彼こも埋木の朽腐れたる如く、日々蓮台に乗るを待ち、明日をも難斗き露命、取急ぎ遅筆の走るに任せ、震手ニて、尋常ヨリハ大ニ手間かゝれ共、処々わからぬ勝御はんじ御覧可被下候。只恥ずかしくハ例の自讃多けれど、御免被下候。乍然虚言ハ少しも不書、恐らく半ならずして退屈せん事あらんと、吉野家、岩木屋に置き、予が死後一年ニ一度宛御覧被下候ニ於ゐてハ、千部万部の経陀羅尼よ嬉しく、成仏仕候。決て御名当の外他見御無用、必々反古ニ被成候得者、永久草葉の陰ニて御怨可申候。必々無御失念、中々一朝一夕之随筆ニ無之、目を厭ひ。そもゝゝ春中かゝり候筆之跡、必々分失無之様ニ大切ニ被成下度、一世一代之直筆ニ御座候。

 この文章の裏に籠る牧之の並々ならぬ執念が読み取れるであろう。老残の身を二階に押し籠められるようにして横たえている牧之には、『雪譜』後編の筆を措いても、書かねばならなかった。この後書きには、牧之の執念、怨念が鬼気迫るように漂ってくる。

この頃の鈴木家
 この頃、牧之の家族はどうであろう。牧之七十歳、六番目の妻りたは四十六歳、娘クワは四十二歳、勘右衛門は四十歳だった。牧之の末子弥八は十七歳、弥八の母は、離別した牧之四番目の妻である。孫大蔵も十九歳だった。弥八と大蔵は、弥八が叔父、大蔵は、甥でありながら二つしか違わない。牧之には、家の後継ぎに期待を掛けでいた長男伝之助がいたのだが、伝之助は文化十年二十一歳の若さでなくなってしまった。鈴木家の悲劇は、このことがきっかけになっていた。この遺書を書いた翌年、娘くわは四十一歳で死亡している。勘右衛門は牧之にとって歓迎すべき婿ではなかった。牧之は勘右衛門を分家させるつもりであった。ところがいざ結婚話が煮詰まってきたら、跡目相続でなくては嫌だと言ってきて、やむなくこの勘右衛門の望みを聞かざるを得なくなった。そして、二人はそのライフスタイルがすべて正反対だった。牧之は「忍」をもって信条として、勤勉実直、倹約を守り、稼業のために粉骨砕身して働きづめだった。それに対して、勘右衛門は派手好み、店のことは、子供や手代に任せ、ぬくぬくと炬燵にあたっている。思いつけば、稼業を措いても旅に出かけ、自家用の駕籠まで購入する。それでも、酒造りを始めるなど、起業精神旺盛のところもあった。二人のライフスタイルがまるで違うのである。勘右衛門から見れば、牧之は口うるさい頑固爺だったに違いない。

勘右衛門の怒り爆発
 孫大蔵がまだ子供の頃だった。牧之はこの大蔵に絵を教えようとして、絵皿を並べていたら、そこへ勘右衛門が来て、あのせわしい爺からどうして絵を習うのかと大蔵の首を叩いて、大蔵は泣き喚く。舅牧之への勘右衛門のあてつけである。その朝、二階に隠居の牧之が勘右衛門に仕事をしないと意見したところが、勘右衛門が二階に上がってきて、ものすごい形相をして、「さあ、それならこれからお前がこの家の亭主になれ。俺は、二階に隠居して暮らす」と怒鳴り散らす。その声は、隣近所まで響いた。すさまじいばかりの家庭内戦争である。
 こうして牧之は、天保十三年(一八四二)の五月、七十三歳の生涯を全うした。


俳人牧之← [目次] →雪と人生(最初に戻る)

 
★★★鈴木牧之著『校註北越雪譜』のご購入は★★★