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第一小説集『雪残る村』 | 著書紹介

著書紹介book

第一小説集『雪残る村』を紹介します。

雪残る村  高橋 実/著

第一小説集『雪残る村』
重い雪の底から

久保田 正文 

 文学も、とくに小説については、私は目も絢にきらびやかなもの、多彩に変り身の速いようなもの、手練てくだでひとを娯しませるようなものがそれほど珍重すべき要素であるとはおもっていない。むしろ人間と人生、その歴史や現実に触れつつ、重い実感をつたえるものこそがなによりもたいせつではないかとおもっている。明治の自然主義文学や白樺派文学以来のリアリズムや私小説の方法が、さまざまに批判をうけつつも、なお命脈をたもちながら今日にかなりつよく生きていることを、理由のあることと私はかんがえている。
 田山花袋や島崎藤村の小説を、いまよみかえし、現代の若い作家たちの小説とならべてその形や技法の幼なさというか無器用さというかは誰の目にも明らかである。しかも、生活の実感にひびき、底ごもった人生の感動ともいうべきものにこたえてくるのは、私たちの同時代の若い作家たちのテンポの速い作品であるよりは、半世紀以上も前のあの古い作家たちの作品であることはしばしば実感する。
 足どり深い小説については、そのことを私はたいせつにおもいたい。技術的に巧いとか下手くそとかいうことではなく、作者においてうったえたいこと、主張したいことがあって、それを基にして技術が生かされるのでなくては、小説などというものはほんとうにむなしいいとなみに陥るよりほかにないだろう。
 高橋実の「雪残る村」を、はじめて私がよんだのはちょうど十年前、昭和三十九年の冬であった。その作品の発表された『文学北都』十八号は、当時新潟県十日町市から発行されていた。同人雑誌としては全国的に言っても目立つ大雑誌の部類で、達者な話術を展開する、いわゆる巧い作家の幾人かはいて、それらの作家たちの才能は感じたが、小説としての感動をうけとることのできる作品はなかなか見出せないままに、何号かをつぎつぎに私はよみ送っていた。
「雪残る村」を発見したのは、そういう過程においてであった。同人雑誌編集にも一種の技術のようなものがあって、いわばメダマ商品ともいうべき作品は巻頭にそれと目立つようにして掲げられることがよく行なわれるが、「雪残る村」は、そういうふうに目立って飾られた作品ではなかった。むしろ巻末の方にひっそりと刷られていた。はじめの一、二ページをいそいでよんだだけで、私はたちまちひきこまれた。手織木綿の手ざわりのようなその感触にたんのうしながらよみすすんだ。その時の感想を私は、『文学界』昭和四十年一月号の「同人雑誌評」にしるしているから、すこし長くなるけれどもここに写しておきたい。

 高橋実「雪残る村」は、地味な昨品[ママ]であるが、文学の魂とでもいうべきものがここに、確実に息づいているという感がする。卒業論文に『北越雪譜』の研究をテーマにえらんだ新潟県の大学生が自分の学問や人生に怖れと不安とをいただき[ママ]ながらも、江戸時代の不遇な研究者鈴木牧之の生きかたにはげまされ一種の諦めのような勇気をもって、僻地の中学教師として赴任してゆくまでの、ナイーヴな青年の生きかたをたどっている。夏休みに、資料を求めて東京へ出てきたときの心躍りなどもいきいきととらえられているし、西鶴や近松のような一流作家を論文題目としてえらんだ方がトクだったのではないかと迷いながらも、牧之のねばりつよさに同郷者としての親近感からも魅せられつつ執してゆく姿にもリアリィティ[ママ]がある。出版元への斡旋を依頼された流行作家馬琴が、永年原稿をあずかり放しですっぽかしてしまう姿などには、巧まずして現代への諷刺も反映しているかもしれぬ。
 教師になることにも迷いをいだいている主人公が、冬の休暇になって郷里の家に皈り、雪に閉じ籠められた沈鬱のなかで、すすんでその雪のなかへ深くじぶの[ママ]人生を埋没させてゆこうとこころきめる過程も、素直になっとくされる。それだから、明日はいよいよ赴任地へ出発しようという夜、質流れ品を安く手にいれたはじめての背広服を身につけ、ネクタイの結びかたを練習しながら就任挨拶の稽古を、父や母や兄弟の前でして賑やかな笑い声をひびかせている結末シーンが、雪明りのようにほのぼのと、春のことぶれのようにひそやかに、よくできた戯曲の幕切れのように自然に、読者のこころにしみてくるのである。

 十年をへだててこんど、あらためて「雪残る村」をよみかえして、もういちどあのときの感動がしみじみとよみがえってくるのを感じた。ひとつの作品が、ひとりの読者に、永い時間をへだてておなじ質の感動を与えるということは、なによりも作品そのものが本物であるということのあかしである。
 この作品集には、すべて六篇の作品があつめられていて、それらのいずれをも私は『文学北都』や『北方文学』に発表されたときに読み、それぞれに良い印象を残している。
 学生生活でのコムミュニストのグループにも、ダンスに耽ける享楽派のグループにも組しえない主人公をあつかった「竜の住む池」や、現代版『北越雪譜』とみたいような「雪ごもり」などもいかにもこの作者らしい人間観を反映した作品であるが、そういう作者はまた「道徳教育研究指定校」においては息ぐるしくなるほどまでに主人公の姿勢を低く保つことによって、官僚的な教育支配がいかに非人間的・非教育的なものであるかの実態を、結果として剰すところなく描き出しているのである。高い声ひとつ出さず、アグレッシヴな姿勢をまったく拒否して、退きさがれるだけ退きさがったぎりぎりのところでの作者の底ごもった表現は、いかなるアジテーション、プロパガンダの姿勢から発する叫びよりもつよく、非人間的なものへのプロテストの声となりえているのである。
 ここに集められた六篇の作品のすべては、作者の郷里の新潟県を舞台にした作品であることにおいて共通し、さらにすべての作品が教育あるいは教育者の問題を材料にしている点でも共通している。いずれの作品もその色調において明るくもなく軽やかでもない。つまりそれらはむしろ暗く重いことにおいても共通している。人間も人生も現実も、依然として暗く重いものであることをそれらは反映している。国木田独歩や、田山花袋や、島崎藤村やが、暗く重い人間や人生や現実やから目を外らすことなくそれぞれの小説の世界をつくって行った姿勢が、当然の望ましい姿において高橋実の小説の世界へ、あたらしくうけつがれたことを、意義あることとしてかんがえたい。

久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2001年6月6日)
 小説家、評論家
 長野県飯田生まれ。東京帝国大学美学科卒。日本大学藝術学部教授を経て、大正大学文学部教授。戦前から文学活動を始め、1946年、上京、短歌雑誌『八雲』を編集、1947年、新日本文学会に入会、『近代文学』に発表した「しづかな甍」でデビュー、以後、民主主義文学者として小説や評論を発表。石川啄木、芥川龍之介、石川達三についての論、正岡子規評伝や短歌論がある。また文庫解説を数多く執筆した。『毎日新聞』紙上で同人雑誌評を長く担当していた。(ウィキペディアより)


 
■ 目次 ■ カッコ内は発表誌

 竜の住む池   (「文学北都」十七号 三十九年三月十日)
 雪残る村    (「文学北都」十八号 三十九年十月十日)
         (「文学界」四十年一月号転載)
 いかのぼり   (「文学北都」二十号 四十二年四月一日)
 道徳教育研究指定校 (「文学北都」二十一号 四十三年四月十日)
 雪ごもり    (「北方文学」十二号 四十七年五月二十日)
 喜左衛門家の柿 (「北方文学」十五号 四十八年十二月一日)

 

本書で紹介されている著者略歴

一九四〇年 新潟県刈羽郡小国町に生まる。
一九六三年 新潟大学教育学部卒業、以後十日町市立水沢中学校、東頚城郡松代町立清水中学校、三島郡与板中学校教諭を経て、現在県立十日町高等学校田沢分校教諭。「笛」「文学北都」同人を経て、現在「北方文学」同人。
その間に「文学北都」に発表した「雪残る村」が第五十二回芥川賞候補作となる。

 

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