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昔話の語り【昔話の語り活動】

昔話の語り【昔話の語り活動】mukasi

昔話の語り(『越後山襞の語りと方言』より)

高橋 実 

 
昔話の語り

 私の昔話とのつきあいも随分長くなった。遡れば昭和三十年代前半の高校生の頃になる。そのころ昔話研究家の水沢謙一氏は休みになると、しきりに村を訪ねて昔話を採集していた。それが新潟放送局からアナウンサーの語りでラジオから流れていた。
 私の昔話体験は祖母から聞いた「猿婿話」である。爺さんが山で草取りしていると、あんまり疲れて「この草を取ってくれる者があったら娘三人居るが誰か一人嫁に出してもよいが」と思わず独り言を言ってしまう。すると、それを聞いていた猿が木から降りてきてたちまち草取りをおやしてしまう。そして何日か後に嫁を貰いに行くという。帰宅した爺さんは猿との約束が心配で病気になってしまう。そこへ三人の娘が次々にやってきて様子を聞く。二人の姉達は猿の嫁になるのを拒否するが、三番目の娘が承知して、嫁に行く。嫁の実家に婿と共に戻る時、お土産に餅を搗いてゆくことになるが、里の爺さんは弁当やどんぶりに入れてゆくことを嫌う。 猿が臼を背負って後ろから嫁が杵で搗きながら行くことになる。途中に桜の花が咲いていて、それを土産に持ってゆくことにする。ところが、嫁は、婿の猿が背中から臼を下ろすことを拒否し、猿は、やむなく臼を背負ったまま木に登り、枝先の高いところに登った時に、担いでいる臼の重みで川へ転落して、流されて行く。その時の唄が「さるは猿川へ流れども後に残る嫁女が恋し、恋し」というものだった。
 高校三年の夏、私は初めて親戚のお婆さんを訪ね、昔話を聞かせて貰った。それから暇を見ては村のお年寄りを訪ねて昔話を聞いて回った。学生服を着た高校生が昔話を聞かせて欲しいと訪ねてゆくと、みな一様に驚きをもって迎えた。ノートと鉛筆が唯一の採集用具だった。仲間もおらず、孤独な作業が続いた。この頃、昔話へ興味と関心を示す人は、誰もいなかった。 あの時、もっとたくさんの人から昔話を聞いていたら、私の昔話の森ももっと豊かなものになっていただろうにと思い、後悔の念が残る。
 高校三年の昭和三十三年、過去の古い物への興味や関心がこの年、一気にわきあがってその世界にしゃにむに突き進んでいった年でもあった。それが、昔話、民俗、歴史、古い書物へと繋がっていった。友達が、彼女と一緒に歩いて、青春を謳歌していたのに、それをよそに村に住む老人を訪ね歩いた。詰入学生服のままで。テープレコーダーもない、カメラもない。あるのは、ノートと鉛筆だけだった。まず初めに本家のおばあさん高橋ノブさん(明治十三年生れ)を訪ねた。今、年齢を逆算してみると、昭和三十三年頃は、七十八歳だったのだ。そのノブさんから聴いた話は「ばばっけ着た娘」といわれるものだった。若い娘が「ばばっけ」という着物を着ることで、老人に変身して、男達の難を逃れて、金持ちの若者の嫁におさまる話だった。現実世界では、いくら変装しても考えられないことである。その後、五十嵐石三さん(明治二十四年生れ)、高橋篤太郎さん(明治二十三年生れ)などにお会いした。五十嵐さんで印象に残る話は、「兄とおじの鉄砲打ち」で、兄弟の猟師が山中で、サルの妖怪に会い、兄は食われてしまうが、弟は、妖怪の持っていた苧績桶めがけて撃つと、妖怪は叫び声をあげて死ぬ場面である。篤太郎さんの話で印象的なのは、村の神社の主が人身御供を要求して、困っていると、六部が村を回っていて、娘の身代わりになり、その妖怪を退治する、それはムジナだったという話である。
 昭和三十四年春、私は新潟大学の高田分校に入学した。その年「小国の昔話その一」をガリ版刷りで五〇部発行して、小国町内の小学校に配布した。表紙は、兄が色刷りの絵を描いてくれた。兄が勤める横沢小学校の謄写版印刷機でこの本を作った。この本には、二十八話の昔話が載っている。 この本がどんな反響を与えたのか知らない。その後まもなく、私の昔話への関心は薄れ、童話創作へ移っていった。その頃、新潟日報の「おかあさんの童話」の常連投稿者になって、盛んに童話を書いていた。昭和三十四年童話集「あまがき」を発刊すると、選者だった与田準一氏からは、

 「創作童話の開拓者小川未明先生を生み、また民話の発掘者水沢謙一氏を生んだ新潟の地に、あまがきの作者が育ったのも、偶然ではないように思われます。童話文学の創造には、作者個のめぐまれた素質とともに、それをとりまく民族の理想と夢が不可決です。高橋君の少年の日のそぼくで純真な記念碑によろこびを送り、君のこれからの新しく力強い仕事に期待しています」

という、序文を頂いて大変感激した。それから私の昔話への関心は暫く休眠状態が続いた。
 私が再び昔話に向き合うようになったのは、それから二十五年後の、昭和六十一年からである。その三年前、小国に、東京の芸術家達がやってきて、小国芸術村運動が起こっていた。小国芸術村運動は、水上勉の劇「越前紙漉き唄」が上演されることになって、関係者が古いやり方で和紙を漉いている小国町に見学に来たことが発端である。小国町内の西側山系の麓にある山野田地区は、古くから紙漉きの村だった。そこに、過疎地で空き家になった家が目立っていたので、東京の芸術たちが、芸術創造の場として、セカンドハウスにしたいと申し出て来たことからであった。その中に、切絵作家で舞台芸術家の西山三郎氏、放送作家の若林一郎氏がいた。氏は、昔話は、語り手と聞き手が一体になって話を進めてゆくところに魅力があることを強調された。我が小国町では、聞き手は話の合間に必ず「サース」と相槌をいれる。相槌を入れないと語ってくれなかった。テレビのように相手が聞いていようといまいと一方的に語るのではなく、語り手の一語一語を聞き手がかみしめて聞く。そこに昔話のよさがあるというのである。
 西山氏や若林氏は、日本民話の会の人達とも交流があって、小国町で日本民話の会主催の民話学校を開きたいと申し出があったのである。昭和六十一年四月、民話の会実行委員七人が小国にやってきて、地元からは昔話に関係していた、役場の大久保重嗣さん、私、永見恒太、山崎正治さんが呼ばれて話し合いがもたれた。西山さん、若林さんも実行委員として、出てきた。童話作家の松谷みよこさんもやってきた。その席で山崎正治さんが私の二十五年前のガリ版刷り「小国の昔話」を持ってきて、みんなの前で披露したのである。この本は後に、日本民話の会編集の『民話の手帖』に越後小国昔話特集(昭和六十二年)に収録された。またその頃、原稿のまま残っていたその後の昔話も一緒に収録された。
 昭和六十一年夏、日本民話学校が小国で開かれるのを機会に、二十五年ぶりに町内を回ってみて、改めてその昔話伝承の衰退を体験させられることとなった。二十五年前の話者はもちろんだれも生存せず、明治四十年代の生まれの老人たちは、誰一人、昔話を語れなかった。いろいろな伝てをたどって電話してみても、昔話を語ってみようという人は見つからなかった。集落の老人会長に頼んでみても、なかなかうまくいかなかった。その中でも、町内苔野島に粕川クラさん、悦さんのような語り手もわずかにいたが。この時やってきた民話の会のメンバーは、渋谷勲さん、会長の吉沢和夫さん、水谷章三さん、米谷陽一さん、樋口淳さんといった人たちだった。猿ヶ京ホテルの持谷靖子さんもいた。この会に参加した若い女性から民話は、絵本で読むものだと思っていたら、田舎のおばあさんの口から昔話が出てきたのに驚いたという感想を述べる人も居た。また都会と違って夜になると、街灯もなく、真の闇夜で、真っ暗な夜というものをはじめて経験したという感想を述べる人もいた。
 昭和六十二年五月に小国芸術村では「小国芸術村フェスティバル」を催した。このイベントの中で、芸術村友の会では、山野田の若林一郎氏購入の館を会場に「小国のとんとむかし」を主催した。この会で永見恒太さん、山崎正治さん、粕川クラさん、中村クニさんが話者として出演した。
 こうして昔話は、炉辺で語る昔話から舞台で語る昔話へと形を変えて語り継がれることになった。日本民話の会発行の雑誌「民話の手帖」で昭和六十二年夏号では、「越後小国の昔話」特集が組まれた。ここには、二十五年前の私の編集した「小国の昔話」二十八話がそっくり収載され、更に、ノートに残っていた残りの部分二十話も加えて合計四十八話が収載された。この編集は、若林一郎氏の編集になっていた。方言などには、脚注も付けられた。この昔話を読んだ西山三郎さんが、「笠地蔵」はよく知られた話だが、ここでは、笠ではなくて、縮の切れを地蔵さんにかぶせる話に変わっているという感想を漏らされた。昔話が地元の産物に置き換えられている。この雑誌には、小国の人たちが出て、昔話の思い出を語る「民話とむらおこし」の座談会も載せられた。この座談会の中で、昔話は、筋は忘れても、部分部分の言葉は、大きくなっても忘れないという話を片桐三郎さんがした。松田薫さんが、ご主人とお寺付近を車で走行中に人魂とも思われるものにあった話など印象に残っている。
 こうして、二十五年ぶりに私は、昔話に戻ってきた。昔話があまりに身近すぎてその価値に気づかなかったし、近親憎悪みたいにこの世界から意識的に遠ざかろうとしていた。それに反して都会の人がその素晴らしさを教えてくれたのである。私は、改めてこの昔話の世界の中に踏み込んでゆくのである。 日本民話の会のおかげで昔話の話者で小国町苔野島に住む粕川クラさん(明治三十五年生まれ)を知ることが出来た。またクラさんの近所の粕川悦さんも昔話の話者である。クラさんの話の「鬼の笑い」は、今でも、私の語りのオハコになっている。話好きのおじいさんが、一度も笑ったことがない鬼に「来年の話」をすることで笑わせ、極楽に行くことが出来た話である。
 その頃、小国の雪祭りで「瞽女唄と昔話の会」が開かれ、昔話の語りが喜ばれていた。長らく小学校の教師をやっていた山崎正治氏の語りは絶妙だった。そして私もまた昔話の語りをやってみたくなった。私が初めて昔話の語りの舞台に上がったのは、平成五年だった。その時、緊張感からかいざ立とうとすると足がつって立てなかったことが印象に残っている。以来語りの面白さに取り付かれてしまった。
 昔話はある特定の形式のもとに成り立っている。「むかしあったてんがな」(昔あったということだ)で始まり、聞き手である子供は「さーす」(左様でございます)と相槌をいれ、語り終いは「これでいきがぽーんと切れた」(幸福な一生を終えました)となっている。これらの言葉は全国各地それぞれ違っているが形式は共通している。「竹取物語」などに出てくる「今は昔」が今まで続いているのである。こうして昔話は語り手だけでなく、聞き手もまた語りの場に参加しているのである。つまり語り手と聞き手が共に昔話の世界を作り上げている。
 これは、人の話を聞く基本を見事に言い当てている。現在、人が聞いていようと居まいと、一方的に話が空回りしている。その為、人の話をじっと聞けない人達が育ってきているのではないだろうか。昔話語りはその聞き方の訓練でもある。これからも昔話の語りがますます盛んになるだろう。
 昭和六十二年から十日町市史民俗部会で水沢謙一氏と同じグループで仕事することになったが、水沢氏も集まってきた話者から昔話を聞けず、かつて録音した昔話のテープを聴いてもらうことが多かった。そのときの会議で、しきりに「この先いつ死ぬか先がないから」といいつつ、原稿用紙を所望していた水沢氏も平成六年七月、八十四歳で他界された。水沢氏によって発見され、長岡市の文化財となった話者下条登美さんが、葬儀の席で「赤い聞耳ずきん」を語ったと聞いた。

 
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<本の事項>
越後山襞の語りと方言
著者名 高橋 実/著
出版社 雑草出版
出版地 長岡
出版年 2007年
定 価 2200円+税
ISBN 4-903854-00-7

越後山襞の語りと方言
 

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