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語りつくし越後の昔話【語りつくし越後の昔話活動】

語りつくし越後の昔話【語りつくし越後の昔話活動】mukasi

語りつくし越後の昔話(『越後山襞の語りと方言』より)

高橋 実 

 
語りつくし越後の昔話

 昔話は文字で残すことも大切であるが、もともと語り伝えてゆくものである。日本民話の会の「民話学校」が小国で開かれた時、若い女の人が「昔話は本やテレビで見るものと思っていた。こんなお婆さんから本やテレビで見たものを聞けるとは驚きだ」と言っていたのが印象に残っている。語りを聞く機会がいかになくなっているか、この一言が象徴的に物語っている。
 平成三年、長岡で瞽女唄ネットワークが発足した。翌年私は、小千谷高校に転勤し、長岡がぐっと近くなった。その翌々年平成六年、長岡中央公民館で第一回「語りつくし越後の昔話」が瞽女唄ネットワーク主催で開かれた。
 そのチラシに私は次のような文を書いた。このネーミングは、私がつけた。

 雪深い山懐に囲まれた村々に昔話は伝えられた。子供たちは婆々さの語る昔話に目を輝かせて何度も何度も同じ話をせがんだ。「湯も茶もいらんが山の猿のどこへ嫁に行ってくれや」と繰り返し聞いて、話の筋は忘れても、猿婿話のこの部分だけは覚えている。あの昔話はどこへ消えてしまったのか。子供達はファミコンゲームに夢中になってこんな話に耳を傾けることもしなくなった。村の語り部達は語りの機会を失ってむなしく時を過している。その間にたくさんの昔話を懐に詰め込んであの世に旅立っていった。昔話は我らの心の財産である。どんなにお金を積んでも買うことのできない貴重な宝物である。今、その語り部に思いきり語ってもらおうではないか。かつての郷愁の世界に浸り次の子供たちに我らの財産を語り伝えてゆこうではないか。

 この日の出演者は、栃尾の林ヤスさん、守門村の馬場マスノさん、越路町の高橋ハナさん、小国町の山崎正治さんの四人だった。この昔話の話者達の思い出はつきない。
 馬場マスノさんとの縁も偶然からだった。小国町山野田に来た守門村役場の山之内さんから「馬場マスノ昔話集」を贈られたのが縁であった。その馬場マスノさんとの出会いは、なんと岩手県遠野市であった。遠野市は、柳田國男の「遠野物語」で知られる民話の里である。平成四年八月、岩手県遠野市の世界民話博に一人で出かけていった。ここで日本中から来た民話の語り手が昔話を語っていた。新潟県からは、馬場マスノさんと佐渡の小山さんが語っていた。馬場さんは「馬場マスノ昔話集」(平成三年 民話と文学の会発行)の本にまとまっている。マスノさんは、翌平成五年二月『おぐに雪まつり 瞽女唄と昔話の会』に出演していただいた。この『おぐに雪まつり瞽女唄と昔話の会』は、平成二年三月十日、小国町青少年の家が第一回だった。
 第三回の雪まつり出演依頼に、家の人が小国は遠いし、夜なので無理なのではないかと言うのに、マスノさん自身はどうしても出たいと言う事だった。平成六年五月、守門村福山までマスノさんを訪ねて「七月に長岡での会(語りつくし越後の昔話)に出てもらいたい」と頼んだ。マスノさんはこのとき八十六歳、私が訪ねたとき、マスノさんは、四月まで入院していて、家で寝ていた。それなのに、起き出してきて「七月には、まだ日もあるし、それまでには、体もしゃんとするので、どうしても出る」と言われた。帰り際に家の人に「七月には無理かもしれない」などと言われたので、私も半分は諦めていたところだった。そのマスノさんが、元気に会場に現れたのである。そこでは「鶴の恩返し」や「聞耳頭巾」を語っていただいた。そしてマスノさんは、その年十一月他界された。長岡の出演が最後の語りとなった。
 栃尾市の昔話伝承者として市の無形文化財になっている林ヤスさんを知ったのは、いつだったか。平成六年、マスノさんを訪ねた折、足を延ばして、栃尾市新山(あらやま)のヤスさんを訪ねた。ヤスさんは、明治四十四年生まれ、「林ヤス百物語」の著書もある。ヤスさんは、ご主人が焼き物をやっていて、二匹の蛙の焼き物を作っておられた。これはヤスさん十八番「広瀬の蛙栗山の蛙」の昔話をモデルにした焼物であった。広瀬は旧入広瀬村の地名、栗山は栃尾市の広瀬の隣接する地名で、その間に「石峠」という峠がある。栗山と広瀬に住んでいた蛙が他の村はどんなであろうかと峠に登った。蛙は目が背中についているので、立ち上がると後ろが見える。二匹の蛙は、よその村をみようと立ち上がったが、そこに広がるのは、自分の住んでいる村だった。それをよその村と勘違いした二匹の蛙は、「他の村も自分の村と変わらない」と思って、自分の村に引き返すという話だった。高橋ハナさんの昔話にも「荒巻の蛙と本与板の蛙」がある。林ヤスさんと話していて、実は私の兄高橋恒雄を知っているのに驚いた。兄は、栃尾南小学校で教員をしていたことがある。こうしてヤスさんは、第一回の「語りつくし」のマスノさんとともに出演され、「橋の夢」「栗山の蛙」「笠地蔵」を語ってくれた。その後、ヤスさんは、何回かこの催しに出演していただいた。まもなく、ご主人をなくされ、栃尾で一人暮らしておられたが、今は、どうされているか。栃尾に行ったとき、娘さんの土田さんが昔話を語っておられた。
 旧越路町の高橋ハナさんは、大正三年生まれ、旧越路町東谷阿蔵平で一人暮らしをされていた。ハナさんとは、平成五年、旧越路町で「越路町史」を作るというので、民俗部会の調査員として初めてお会いした。ハナさんは、自分の知っている昔話をノートに書きとめておられていた。それをコピーして、その頃使い出したワープロに打ち込んだ。それが百三十七話にもなった。これをもとに越路町では、越路双書「ムジナととっつあ―高橋ハナ昔話集」を発行した。
 なんとかしてハナさんから大勢の前で語ってもらおうと思っていたので、毎年小国であるおぐに雪まつり『瞽女唄と昔話の会』に出演してもらうことにした。今まで自分の子供にしか語ったことのない人がしかももう何年も語っていない人が語れるものだろうかと不安でもあったが、ハナさんは、見事に語ってくれた。「ムジナととっつあ」(平成七年越路町教育委員会刊)の中の「俺が死んだてがんになぜこねやあ」と言う部分が強烈で聞く人に大きなインパクトを与えた。ゼスチェアも入れた、見事な語りであった。さらに平成六年七月、長岡中央公民館で、瞽女唄ネットワーク主催による「第一回語り尽くし越後の昔話の会」にも出演してもらったハナさんの語りの最初は、「おぐに雪まつり」だった。その後たいへんな評判を呼び、すっかり昔話の語りお婆さんとなった。東京表参道「ネスパス」で語ったり、積極的に県外にも語りに出た。鉄腕アトムで有名な虫プロでは、ハナさんの昔話をアニメにして、残すことになり、旧越路町では、三波春夫記念公園ができたとき、そばに「昔話語りの館」ができ、そこにハナさんの語りのテープが流れる施設を作った。越路町が昔話で町おこしをするきっかけになった。ハナさんは、どこでも出て行って昔話を語った。ハナさんの米寿の祝いと昔話語り百回記念のお祝いに招かれた。今年は九十一歳になられる。
 山崎正治さんは、旧小国町法坂に住んでおられ、大正十四年の生まれ、長らく小学校の教員をしておられ、授業の合間に昔話を語っておられた。
教え子の同級会には、その昔話のことが話題になるという。昔話は余技で、郷土史家であり、中世山城研究で何冊かの著書も書かれている。旧小国町の郷土史はこの人なしには、語れない。昭和六十二年、「小国芸術村友の会」が発足した時には、この人に会長を引き受けてもらい、十四年間続いた。近くに住んでおられるため、いつも気安く頼み、教えを受け、この先生との付き合いも三十年以上になる。
 この会は栃尾市の林ヤスさん、守門村の馬場マスノさん、それに小国のベテラン山崎正治さんにハナさんを加えて四人の語り手から出演してもらった。昔話の語り手は、語りの機会を待っている事を痛感した。子供達にも来てもらいたかったが、子供は少なく大人が多かった。昔話はかつての子供より大人が楽しむものに変容していった感がした。
 こうして第一回「語りつくし越後の昔話」は、平成六年にこの四人の語りにはじまり、今年は十二回目となった。昔話の語り手については下條登美さん、富川蝶子さん、鈴木百合子さん、樋口倶吉さん、南雲きくのさんと次々と書きたい人が浮かんでくる。
 こうしてみて、語り手達がいかに語りの場を求めているか身をもって感じさせられる結果となった。語り手達は語りの場を求めている。なんとしてもその場を作ってやらねば、という決意を固めた。語りの魅力、われわれは、あまりに身近過ぎて、それを忘れてしまつているのではなかろうか。

 
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<本の事項>
越後山襞の語りと方言
著者名 高橋 実/著
出版社 雑草出版
出版地 長岡
出版年 2007年
定 価 2200円+税
ISBN 4-903854-00-7

越後山襞の語りと方言
 

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