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ことば遊びの昔話【越後の昔話逍遥】

ことば遊びの昔話【昔話の世界をのぞく】mukasi

ことば遊びの昔話(『越後山襞の語りと方言』より)

高橋 実 

 
ことば遊びの昔話

 昔話の中には、ことば遊びをテーマにしたものが多く見受けられる。
 「かかみところとことしゃみせん」(越後宮内昔話集)には、田舎から出て行った男が江戸の「かかみところ」(鏡所 つまり鏡店)の看板をみて、「嬶見所」と勘違いして、嬶を見せてくれといって店に入ってゆく。鏡店の女主人は紅を塗ったり、化粧したりして、男の前に立ち、来年も来るように約束する。翌年、男が江戸へ出て同じ店に行くと「ことしゃみせん」(琴、三味線)の看板を見つける。男はその看板を「今年ゃ見せん」と読んでしまう。男は、今年は嬶見せないのかと納得して帰ってしまう話である。
 また「大根撒きの失敗」(長岡市中沢郷土史)では大根の種を撒こうとした男に、「はばかりながらタバコの火を貸してほしい」と近寄ってくる男がいる。「憚りながら」は失礼ながらほどの意味であろう。それを大根撒きの男は「葉ばかり」と受け取ってしまう。「葉ばかりの大根」など縁起でもないと翌日撒くことにして、翌日大根種を撒こうとすると、隣の娘がほっぺたに手を当てて来るので、問いてみると「歯を虫が食って歯医者へゆく」という。男は「葉を虫が食う」ととり、大根の葉を虫が食うとは、縁起でもないとまた種まきをやめて家に帰ってしまう。次の日、こんどは人が来ないうちに撒いてしまおうとすると、村長が通りかかる。男は村長に昨日、おとといの話をすると、村長は「そんな根も葉もないことを」と縁起を担ぐ男を馬鹿にする。そこでまた男は「大根に根も葉もない」とは縁起でもないと思って、とうとう大根の種まきをしないでしまったという話である。
 この話も恐縮ながらの「はばかり」を「葉ばかり」ととり、根拠もない「ねもはもない」ということばを「根も葉もない」と受け取ってしまう。ことばの行き違いの面白さがネタになっている。
 この話は、昨年十月、山形県南陽市の「語りフェスティバル」で長崎の人が語ったのにびっくりした。この中の三人の話がそっくりだった。ことばの遊びが昔話の重要なテーマになっているようだ。これが近世の落語に移行していったのではなかろうか。
 もう一つ「げんきゅうかづら」(長岡市中沢郷土史)の話もそうである。殿様が重い病気になって、医者から見てもらったら、医者が「げんきゅうかづら」の皮を煎じて飲めば直るという。げんきゅうという葛(かずら)の皮という意味だったのだろう。領主はこの意味がわからず、領内にお触れを出して「げんきゅうかづら」の皮を探すように命じる。領主もこの意味がわからず、和尚に聞いたら、和尚はこれを「玄久がつら(顔)」と取って、村に住む玄久という男のつらの皮を持っていけばという話になる。玄久という男を殿様の所に連れてゆくと、殿様はびっくりする。かくして玄久は顔の皮を剥がれないで済んだという、「げんきゅう葛」の皮を玄久が面(つら)の皮と勘違いする話である。
 そのほか、「隣の屋敷に出るはな」(三島町東京在住者機関紙「だいろのひとりごと」)は隣の屋敷に枝を延ばした桜の枝を隣家の人が折って「隣の屋敷へでる花は折ろうと捻じろうとこっちの好き」というので、桜の木の持ち主は「よしそれならば」と一計を案じて、夫婦して相撲をとる。隣家の主人が何事かと窓から顔を出した、そこを木の持ち主の主人が釘抜きで隣の主人の鼻をはさむ。「隣の屋敷にでるはなは折ろうと捻じろうとこっちの好き」という語を逆手にとって反撃するので、隣の主人は参ってしまう話である。鼻と花をかけた笑い話である。
 こうしてみると、昔話には、同音異義語の駄洒落を楽しんだり、わざと違う意味にとったりして言葉遊びの昔話が多いのに気づく。

 
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<本の事項>
越後山襞の語りと方言
著者名 高橋 実/著
出版社 雑草出版
出版地 長岡
出版年 2007年
定 価 2200円+税
ISBN 4-903854-00-7

越後山襞の語りと方言
 

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