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座談会 紙漉きの思い出 | 小国和紙『へんなか』)

座談会 紙漉きの思い出hennaka

へんなか 座談会 紙漉きの思い出

出席者:中村英一、久保田ヨウ、中村雅、山我清、久保田強、山我光

 
出席者
小国町苔野島
中村英一   中村 雅   久保田 強   久保田ヨウ
山我 清   山我 光
司会
若林一郎

編集部 最近、近代に工場生産された紙が、百年もすると黄ばんでボロボロになってしまうことが分って、図書館などは対応に頭をかかえているそうです。
 そんなこともあって、和紙のよさが見直されています。
 正倉院の和紙は、千数百年の時をこえて、立派に保存されていますからね。そればかりでなく、使い捨ての文化にはみられない、手仕事の美しさをたたえているのも、たまらない魅力です。
 こんど、私たちの地域の文化を考える雑誌を出すことになりまして、まっ先に「小国和紙」を特集しようと考えたのは、そういう理由なんです。なんといっても、小国町は和紙で名高い土地ですから。
 そこで、かつての村の紙漉きはどんな風に行なわれていたのか、体験をしてきたみなさんにお集りいただいたわけです。  最初に自己紹介をお願い致しましょうか。
中村 中村英一です。紙を漉きはじめたのは二十才のころで、それから三十三年、ずっと紙漉きをやっています。
中村夫人 中村の家内で、雅(まさ)といいます。山野田の生まれなものですから、十八才ぐらいから小さい方の紙を漉いてました。今でも現役のパリパリです。
久保田 久保田強です。昭和五年の生まれで、昭和三十七年に廃業するまで、十三年紙を漉いてました。
久保田夫人 久保田ヨウと申します。嫁に来てから、お父さん(主人)が紙漉きをやめるまで、楮ひきや乾操を手伝ってました。
山我 山我清です。昭和十年生まれですから、いちばん紙漉きの体験は浅いですね。紙漉きというのは一日やってるとね、体が冷えるんです。それでとうとう病気になって、紙 漉きをやめたんですけれど。
山我夫人 私も紙漉き手伝ったのは、嫁に来てから二年ぐらいですね。山我の家内で、光(こう)といいます。

改良版の時代


久保田 小国の和紙といえば、本家はやはり山野田ってことになるでしょうが、私たちの住んでいる苔野島というところも、代々手漉きの和紙のさかんなところでしてね、私んとこでも三代前から、つまりマゴジサの代から漉いてたんです。おふくろも漉いてましたしね。
中村 どの家にも玄関の隣りに漉き小屋というのが必ずあってね。
久保田 それが冬場の仕事なんです。私が青年会のときに、苔野島の歌を作ったですて。♪紙に蚕に牛の乳……というてね。紙漉きと養蚕と酪農とで暮らしていたんですよ。
山我 その紙漉きに、改良版というのが入ってきたのは、昭和十六年ごろかなあ。あれは苔野島がこのあたりじゃいちばん初めでしたね。いわば技術革新の時代でね。
久保田 そうそう。それまでの小国紙といえば、半紙の大きさで、一日根をつめて漉いても四百枚がやっとだったんです。
 改良版で漉けば、一枚が半紙の八倍の大きさですからね。それを一日に二百枚は漉いてましたから、半紙の大きさで千六百枚ということになるでしょう? これからはぜひこれじゃなきゃというんでね。
中村 みんなで講習受けにいってね。私らが紙を漉き始めたのは、そんな時代でしたよ。
久保田 改良版をやっていたのは、湯之谷の「大沢紙」の山田清吉っていう人でね。
 なにしろあの頃は戦時経済だから、食べものもなくってね、家からみんな米を背負って行ったんです。冬になるとバスもなにもないから、雪道を歩いて塚山の駅まで出てね、そこから汽車に乗って。それで向うで分宿させてもらって、一週間の講習を受けたんです。
 それでも、冷たい漉き場に一日立ってても、なかなか漉かせてもらえなくてねぇ。
中村 細かいところはなかなか教えてくれないわけ。なんせ企業秘密だから無理もないけど〈笑い〉。
久保田 産業スパイのハシリみたいなことやって、技術覚えてきたわけ〈笑い〉。
中村夫人 それからですね、紙漉きが男の仕事になったのは、改良版は女の力じゃ、どうしても漉けませんから。
久保田 いま考えてみると、苔野島で改良版をやれたのは、酪農なんかやっていて、財力があったお陰もありますね。
 やはりたくさん紙を漉くとなると、原料を買う力がなかったらできませんから。
 それに先行投資がいるでしょう? かまど、漉き場、乾燥場、漂白場と、みんな新しくしなきゃあなりませんから。紙を漉く簀なんかは、土佐にそれを編む専門のひとがいま して、そこに注文したんです。
中村 それに、燃料はほとんど薪ですしね。紙を漉くのにいるものといえば、あとは水と労力。
中村夫人 そう、やはり紙は水ですものね。
久保田 それに家族の労力を惜しみなく注ぎこまなくちゃ、とても紙は漉けなかったですね。

紙漉きの苦労


編集部 そこで、そのころの紙漉きの苦労話を、工程に従ってお話しいただきたいんですが……。

楮の手入れと楮切り


中村 紙を漉くとこだけをみて、紙漉きがわかったと思うのは、ごはんを食べるところだけみて、ごはんの作り方がわかったと思うようなものですね。かんじんなのは、下ごしらえなんですから。
久保田 紙を漉くのは冬の仕事でも、夏の楮の手入れから始まりますからね。
 あのころ、私んとこでは楮畑が二町ぐらいありましたよ。どんな家でも一反くらいずつは楮を作ってましたからね。
山我 夏のさかりに、脇芽を摘むんです。そうしないと、いい繊維がとれませんからね。
その脇芽の切り方にコツがあってね、〈身振りしながら〉背が高くなった楮をこうして曲げておいて、脇芽を下から上へもちあげるように切るんですよ。
 上から下へ切ると、ツルッと皮がむけちゃう。そこへ樹液が滲みだしてきて黒くなってしまうんです。
中村 暑いさかりで、楮もどんどん伸びますからねえ。一週間おきぐらいにそうして脇芽をつまなくちゃならない。脇芽が小さいうちにとっといた方が、傷がつかなくていいっていわれましてね。
山我 汗で葉っぱがベタッと肌にひっつくとそこがあとからかゆくなってね。
中村 今までの倍くらいに伸びるという、楮の新しい品種をいれたこともありましたよ。ところがこれが傷がついて、使いものにならなくて。
久保田 うちのおやじも、高知から新しい品種をいれましたよ。これも背が高く伸びるんです。けれどそれだけ手間もかかってね。
中村夫人 そういえば「楮が伸びる年は、それだけ雪も深くなる」なんていってたでしょ?
久保田 そうして手入れをした楮を、雪が来る前の十月末から十一月はじめにかけて刈る。これが「楮切り」です。
中村 それを一家総出で運んで、家の周りに積みあげるんだが、あれがまたたいへん。〈両手で二十センチぐらいの輪を作って〉これぐらいの束二つ背負うと、もうどうにもならない。長さがあるでしょ?
久保田 だから畦みちをまるでカニみたいに、ヨチヨチと横歩きをしてね。
山我 落したり、ぶつけたりして皮に傷つけると叱られてねぇ。

楮蒸しと楮剥き


久保田 それから、その楮を釜の大きさに合わせて切って、「楮蒸し」にとりかかるんです。私んとこでは、子どもがノコギリ使うと皮が痛むというんで、押し切りを使って切ってました。
中村 その楮を釜の中に立てて、上から桶をかぶせて蒸すんですが、この蒸し方ひとつで、皮が剥きにくくなってしまうんです。
山我 まず火加減ですね。火が強すぎると楮がふやけてしまうし、弱すぎると皮がよく剥けない。
久保田 大体初釜は四時間で、あとは二時間ぐらいずつかかるんですが、火加減をみるんで釜のそばにつきっきり、ごはんもそこで食べるんだから〈笑い〉。
山我 さあ、こんどは楮をそうやって蒸しあげてくそばから、次の釜が蒸しあがるまでに、皮を剥いてかなくちゃならない。
久保田 これには、近所の人にも手伝いに来てもらって、家族総出でやるんです。
久保田夫人 熱いうち剥かないと、剥きにくくなってしまいますしね。
山我 あの桶をとると、モウモウと湯気が立ってねえ。釜の向うがまるでみえなくなるの。
久保田 楮の熱いの熱くないの、とても手でもっちゃいられない。そこへ井戸水を二〜三杯ぶっかけといて、手を冷やし冷やし皮を剥くんです。
山我夫人 熱で表面がちぢんで、中の白いところがちょっと顔出してるんです。そこを歯でかんでね。
久保田 子どもだっていやおうなしに手伝わされましたよ。
 逃げ出そうとしたって、叩く棒はいくらでもあるからね〈笑い〉。
中村 私の家の場合ですと、そうして冬中紙を漉く材料を作るのに、三〜四日はかかりますね。
久保田 あの頃は一週間ぐらいかかったんじゃないかな。それも朝の三時ごろから。
中村 今でも、朝の四時から夜の九時ぐらいまでやってますよ。
久保田 労働時間を考えたりしちゃ、あわない仕事なんですよ。家族の手助けがなくちゃ、とてもやってけない。
山我 最低三人は欲しかったの。
中村 理想的には四人さね。

小ごしらえから雪ざらしまで


久保田 こうして剥いた楮の皮の内側の白い部分が紙の原料になるんですが、それまでにゃあまだまだ、気の遠くなる ほど手間がかかるんです。
中村 昔は小川によく、藁の片屋根がかかってましたね。下ごしらえはいつも水のほとりでね。
山我 楮の皮を流れにひたしておいて、表面の黒い皮をとったり、小さな傷のあるところや、虫の食ったところをとっ たりしなきゃならない。「小ごしらえ」といってね、年よりなんかもよく手伝ってくれました。
久保田夫人 あれはつめたいの。かじかんで手が動かなくなってねぇ。
久保田 家の中でやるひともあったけど、やっぱり露天じゃなくちゃ、小さな傷やゴミがよくみえないから。やっぱり、流れる水がいちばんいい。
中村 そうしておいたのを、こんどはソーダ灰で煮て、繊維以外の不純物をとりのぞくんです。
久保田 昔は藁灰からとった灰汁(あく)を使ってましたね。どの家にも灰汁取り桶っていうのがあってね。そこへ灰を入れて おいて、水を上から注ぐと下に灰汁がたまるんです。苛性 ソーダも使ったけど、これは煮るときに泡がでてね。
山我 これも下ごしらえのカンどころで、火加減がむずかしい。棒を使って火加減をみるんだが、これには各家庭それぞれの秘伝があってさ。
 初めチョロチョロ、中パッパといやぁまるで米の炊き方だけど〈笑い〉、火加減や、火をひいてからの蒸し加減にコツがあるんです。
久保田 この煮方ひとつで、出来上がった紙の質が違ってきますからね。昔の村には、そういうコツを知ってる名人が大勢いたんだなぁ。
中村 それでよしということになると、また川の水につけてアクぬきをするんです。それから、雪の上で雪ざらしをすると、またまっ白ないい紙ができる。昔からの小国和紙では、漉き上げた紙を外に出して、雪に埋もれさせて、雪ざらしをするんですが、改良版では、ここでやるんです。
中村 寒くなればなるほど、白くなるんですよ。よその土地から来た楮だと、そうはいかないんですね。この土地と水と風土で育ったんじゃなくちゃだめなんです。
 文化庁の調査官の柳橋さんが、小国の楮は日本一だっていってましたよ。
久保田 アクぬきをやってから、さらし粉で漂白もしましたね。
山我夫人 さらし粉の水っていうのは、独得のにおいがあって、また冷たいんですよね。
山我 この時分になると、もうどんな小さなゴミにも鵜の目鷹の目になってます。ゴミが入れば紙の品質が落ちますからね。家中ゴミに敏感になるんです。
中村 天井に目張りして、ゴミが落ちないようにしたりね。どうしても子どもが二階でさわいだりするでしょう?
久保田 うちのおやじなんぞ、お茶菓子たべても「手を洗え」っていうくらい〈笑い〉。
久保田夫人 「これでもか」っていうほど、根気よく楮のゴミを取ってねぇ。

紙叩き


久保田 私が紙を漉きはじめたころは、もうビーター(打解機)という機械が入ってましたが、子どものころはよく紙 叩きの手伝いをさせられたもんですよ。
中村 紙叩きは下ごしらえの最後の工程でね、すっかりきれいになった楮の繊維を、丸めて板の上にのせて、棒で細かくうちくだくんです。
山我 ふたりで向いあって、バンバンバンバン、力いっぱいね。これはイヤとかなんとかじゃなくて、子どもでもやらなくちゃならない仕事でしたね。
久保田 学校から帰ってきてから、夕飯前の仕事でね、これをやらなくちゃ、ごはんを食べさせてもらえない〈笑い〉。
中村夫人 雪が降っていて、村中シーンとして、ものおとのしない日がありますね。でも、紙叩きの音だけは、あっちこっちから聞こえてくるの。
久保田 すると、「ああ、あのうちでもまだ夕飯じゃねぇな」って思ったりしてね〈笑い〉。
中村 そのうち、紙の繊維がパッパッと飛びちってさ、あたりいちめん、天井の方までくっつくんですわ。
久保田 そのくらいにならないと、おやじが「これでよし」っていってくれない〈笑い〉。叩いたやつをちょっとつまんで、茶わんの中へ入れて溶かしてみてね。おやじがいいっていってくれないうちは、肩がいたいの、だるいのといったって聞いてもらえないんですから。
中村夫人 あの紙叩きの棒が、子どもには重いんですよね、また。
山我 それでも、ビーターを使って紙叩きをするようになってからでも、やっぱりぐあいが悪いって、また手で叩いたりしましたね。
中村 ビーターだと、時間は短いし、体は楽かもしれないが、やはり紙の質が落ちるんだね。
 機械で無理に繊維をくだくからね、短くなりすぎて、丈夫な紙ができない。やはり、手で叩いた方が、繊維が長いまんまだから、よくからみあっていい紙ができるんですよ。
中村夫人 だから私は、今でも小判の小国和紙を漉くときには、手で叩きますよ。
中村 これだけ下ごしらえに手間ひまかけといて、やっと紙を漉くって段取りになるんです。

紙漉き


山我 朝、漉き場へいって、最初の一枚を漉くまでがやはりつらかったの。体のシンまで冷えてきての。
久保田 漉き舟という水槽の中に、楮の繊維を溶かしましてね、ニレというトロロアオイの根を入れて、よーくかきまぜておくんですが、この段取りをしておいてから朝飯になるんです。
山我 ふつうの水と違って、あのトロロアオイを入れた水というのは、なおさらつめたいんです。
中村夫人 でも、紙を漉いてると、よく「アカギレになったりしませんか?」って聞かれるんだけど、そんなことはないですよ。トロロアオイのお陰で、肌が保護されているんですね。
中村 その代り、その分つめたい〈笑い〉。マンガという、水をかきまぜる棒はあるんだけれども、最初はやっぱり、手でかきまぜないとの。
山我 背中にカイロを入れたりするんだども、そのくらいじゃおっつかない。
中村 といって、漉き場を暖めるわけにいかないんです。温度があがると、ニレが利かなくなってきて、いい紙が漉けないんですよ。
久保田 だから春先きになると、わざわざ雪を運んできて、漉き舟のところに積みあげて、冷たくしちゃったりしたな。
中村 で、漉き舟の仕度ができたところで、簀を敷いた桁という木の枠で、中の水をすくってゆするんです。すると、簀の上に繊維が薄い膜になって残る。これを干せば紙になるんです。
久保田 これがまたコツのもんでさ、素人でも紙一枚だけなら、漉いて漉かれんことはないだろうけども、何百枚と品質を揃えて漉かにゃ、商売になりませんからね。
山我 ニレのぐあいひとつにしたって、寒さによって違ってくるしさ、漉きはじめとあとの方では、これまた漉き方が違ってくる。あとの方は、どうしても短い繊維だけ残るでしょう?それを一束四百枚、キチッと品質を揃えて漉くとなりゃ、これはもうカンだこての。
中村 だから私はよくいうんですよ、大工にゃモノサシってものがあるけど、紙漉きにはないってね。体でコツを覚えこむよりないんです。
久保田 紙の厚さが揃っていて、束にしたときの目方が軽いものがいいんですよ。厚すぎちゃ、それだけ原料を損してることになりますからね。
中村 紙の厚さを揃えるには、簀の糸の透け加減でみろって、よくいわれましたけどねえ。それができるまではひと苦労。
山我 そういったことを覚えこんでいくあたりが、この仕事の楽しさなんだろうけど、ピーンと神経はりつめてないとねぇ。私んとこなんか、おやじがいなかったもんで、私ひとりで、見よう見真似でさ。
中村夫人 ほんとの真剣勝負なんですよ。だから、よそには紙漉き唄なんてあるそうだけど、ここじゃとても唄を歌ってるひまはありませんね。それだけ集中してなくちゃならないから。
山我 そうして漉いた紙を重ねておくんですが、ニレを強くしたときなんか、どうかした拍子にツルッと紙が滑ってね、重ねた紙がドサッと崩れちまうことがある。あれは泣くに泣けない気持ちだったなぁ。
久保田 息ぬきに一服つけるときにゃ、隣りの様子をみにいってね。その家のニレの具合いをみたりして、技術を盗んでくる〈笑い〉。
山我 そうそう、一日一回は仲間の家を回ったもんですよ。
 そこで教えたり、教えられたりね。あのころは周りじゅう紙を漉いてたから。

乾燥


中村 さて、それから乾燥にかかるんです。もともと小国紙は、外に出しておいたのを春になって雪の中から掘りだして、天日で干していたんですが、改良版になってからは、火力乾燥になりました。
久保田 これは女子衆の仕事でしたね。
中村夫人 金ものの板を、ちょうど屋根のような形にしておいてね、そのトンネルの中で薪をたいて、その熱で板に貼りつけた紙をかわかすんです。
久保田夫人 そこに布団ほしたりもしましたね。あれはあったかくってねえ。
中村夫人 コツっていえば、シワにならないよう、穴をあけないようってことでしょうか、それでは商品にならないから。
山我夫人 火の加減がむずかしかったですね。火力を強くすると、はがすときに紙が切れてしまうし、弱いと干かないうちに紙がはげてしまうし。
久保田夫人 はりつけ方が悪いと、紙のまん中に空気が入って、ふくれてしまってね。あれは、からかみ貼るのと同じにやらなくちゃいけないのね。
中村夫人 紙を漉くときゆするので、繊維がタテに並んでるんですよ。その方向に刷毛ではいてやらないとケバ立ってしまうの。
久保田夫人 包装紙なんかに使う厚手の紙を干すときはくたびれましたね。力いれなきゃならないから、肩が凝って。
山我夫人 干しあげたのが、隅からサーッとはげると気持ちがいいのだけど。
中村夫人 そうはいかないと、肝焼いて(腹を立てて)喧嘩でしたね。漉き場のとこへいって「漉き方が悪い」というと「なんだ、干し方が悪い」というて〈笑い〉。でも、あれも小国紙の特徴なんでしょうけど、シワになった紙でも、干せばピンとなるんですよ。十枚ぐらいいっぺんに持ってきても、ケバ立つ割合も少ないんです。

裁断


山我 さあ、それから裁断ということになるんだが、これは足がふるえます。裁断機なんてとても入れてられないんで、裁ちばさみや包丁を使って裁つんですがの。
久保田 木で作った型に合わせてやるんだけど、包丁を入れる角度がななめになると、上と下では紙の大きさが違ってしまうんです。
中村 まるで象さんの曲芸のように、木の型の上にのっかって、ぐるっと回りながら裁つんですよ。
久保田 うまく切れたかどうか、障子紙につないでみると分る。ちゃんと切ってないとつなぐとこの長さが狂ってくるでしょ?
 それに、障子紙というのは、つなぎめが桟のところへ来ないと売れませんからね。

高度成長の波の中で


編集部 うかがっているだけで、胸がつまるような苦労をなさって紙が出来上がるわけですが、やはりそれが売れたとなると、うれしいでしようね。
久保田夫人 別に。お金も見せてもらえなかったですよ〈笑い〉。
山我夫人 小づかいももらえなかったけど、そういうもんだと思ってましたからねぇ。
山我 私らも若いころは、出稼ぎにいった同級生がいい身なりして帰ってくるのをみると、せつなかったの。家で紙漉いてると、汚ない恰好しなきゃなんなかったですからね。
久保田 それでも、朝鮮動乱の始まる前は、景気がよかったがのう。当時にお金で、ひと冬二百束漉いて、二十万にはなりましたからね。出稼ぎにいっても四〜五万円の時代でしたから。
中村夫人 だけど、家族労働ですからねえ、そのくらいもらえないと、とっても合いませんよ。
久保田 それがバタッと売れなくなったのは、昭和三十年代の高度成長の時代に入ってからでしたね。大きな製紙会社が、楮のパルプを使って大量生産を始めたんですよ。中村夫人 駿河湾をヘドロの海にしてねえ。
久保田 そうなると、私らのような零細企業じゃ、コストの面でとても太刀打ちできなくなる。長岡あたりの問屋でも、まるで相手にしてくれなくなったんです。
中村夫人 蛍光染料なんかを使って、目に刺さるようなまっ白い紙がどんどん出てきましたからね。時代の好みっていうんでしょうか、そっちの方がいいってことになってね。
 ほんとは、小国紙の白さには、なんともいえない暖かさがあるんですが、そういうものが見捨てられるときでしたから。
中村 和紙を漉いているひとは、昭年三十年ごろには全国で三万六千人あったそうですよ。それが昭和三十七年には、四千人ぐらいに減ってしまったんです。
中村夫人 いま和紙をやっているのは、全国で八百人ぐらいですよ。
山我 なくなってしまってから、やっぱり昔の紙はいい、なんていうけれどね。
久保田 家内工業だったからだめだったかのう。規格の統一もできないしね。とうとう私らで作っていた製紙組合も解散することになってしまったんです。それまで、なんとか生き残れないかと、見本を持って問屋回りをしたんですがねぇ。なんとかコストで折りあいがついても「これだけ揃えてくれ」といわれると、こんどは量が間に合わなかったりしましてね。
久保田夫人 それでも二年間はがんばりましたね。売れないもんだから、出来た紙をかかえこんでね。
久保田 そうしても紙は腐らないからいい〈笑い〉。それでもどうしても支えきれなくなって、廃業の決心をしたんです。
山我 結局、残ったのは中村さんのところだけですね。
中村 私んとこで続けられたというのは、乳牛を四頭飼っていましたからね。その収入があったんで、道楽のつもりで紙を漉いて、なんとかやっていけましたから。
山我夫人 そういえば、楮の屑を牛の餌に使ってましたね。
 牛の乳の出がよくなるといってね。楮には糖分があるから。
久保田 それに飼料代も助かる。いまのことばでいえば、うまいことリサイクルができてたんだな。
中村 うちでは楮の栽培もやってましたから、それがもったいないというのも、紙漉きを続けた理由です。
中村夫人 それに、家は代々紙漉きが好きな血すじなのね。
 仏壇に供えるのに、紙があれば何もいらんというようなね。いま、うちにはことし九十才になるおばあさんが元気でい るんですけれどね、「体が弱ってだめになってしまうから、紙漉きはやめてくれるな」っていうんですよ。「これが健康のもとだ、これやってればボケねえ」ってね。それも紙漉きを続けた大きな理由ですねえ。
久保田 しかし、そうやって続けているんで障子紙以外の新しい用途も開けてきてるんでないの。学校の卒業証書の紙 なんか、昔はとても思いつかなかったがの。
中村 いや、あれはあまり数が出ないんだよ。小国町の小学 校と中学校だけだから。
久保田 それでも、昔は障子紙の他には、三条凧の紙に使ったぐらいでね。それも倍の厚さに漉かにゃならんから、仕事としては合わなかったですよ。
中村夫人 最近は和紙のよさが見直されたせいか、使うひとがてんでに好きな使いみちを工夫してるようですね。やはり需要としていちばん多いのは、包装紙。酒や反ものなどの高級品のね。あとは、ふすまにも使われてますね。下貼りに使うと、丈夫で破けないからって。
久保田 しかし、紙漉きにはつらい思い出しかないようなんだが、こうして思い出してみると、ふしぎななつかしさもあるの。
中村夫人 家で楮を煮てるとき、西風がふいたりすると、紙の匂いがただよっていくんですね。それをかいで「なつかしい」ってよくいわれますよ。
久保田夫人 ああ、あの甘い匂いね。あれはほんとになつかしいですねぇ。
中村 しかし、なつかしいだけじゃ商売はやっていけないですからね。経済ということを考えたら、割りにあわない仕事ですよ。一日八時間働いて、土木作業の賃金にもならないんですから。
中村夫人 それでも、名前だけの「小国紙」じゃなくて、その技術を伝えていかなくちゃいけないと思ってるんですよ。やはり、趣味で漉く紙じゃなくて、昔っから代々伝えられた技術が残っていかないと、和紙は生き残れないんじゃないでしょうか。
久保田 そういう職人気質(かたぎ)で紙を漉いていたのは、私らでお終いかもしれないがね。
編集部 しかし「小国和紙」のよさは、ぜひとも残していきたいものですね。お話を伺っていまして、これからの和紙を考えていく上で、貴重な示唆がいくつもあったと思います。本日は、お忙しいところをどうもありがとうございました。

(昭和六十三年一月九日、ふじのや旅館にて)