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小国紙点描 | へんなか

小国紙点描hennaka

へんなか 小国紙点描 ―古文書にみる和紙と村の生活

小国紙点描 ―古文書にみる和紙と村の生活       北原 勲

 その紙は、つい昨日漉かれたようなみずみずしい白さを保っている。代々、大切に箱にいれられ、蔵に納められてきたせいだろう。
 小国和紙を縦半分に折り重ね、その端をこよりで和綴じにした古文書を目にしたとき、それを調査に来た方は、たいてい嘆賞の声をあげる。
「やあ、実に保存状態がいいですねぇ。」
 表紙には、流麗なお家流の書体で「検地帳」と書かれている。江戸時代、村々の田畑の測量をした結果を記録した土地台帳である。
 田畑は、地味のよしあしなどによって、上・中・下・下々の四等級にわけられ、その収穫率を定めて、反別ごとに石高が計算されている。これを「村高」といい、それを基準に年貢が決まる。だから「検地帳」は同時に徴税台帳でもある。
 農業技術が進歩すれば、収穫も多くなる。だから、江戸時代を通して、検地はたびたび行なわれた。
 この時代の農業の精度の高さについて、司馬遼太郎は「山野がなめられたように耕やされ、荒蕪の地というものが少しもない」と、述べている。にもかかわらず、「農民が充分豊かであるはずなのに貧しいのは、重税にある」。人民の十人にひとりは、農民に寄生して生きている武士階級であった。
 年貢の高は、時代による変化はあるが、おしなべて「五公五民」という。実に年の収穫の半分を、年貢としなくてはならなかった。もしも現代に、年収の五十パーセントが税金となったら、たちどころに革命が起きるのではないか。
 当然、暮しが立ちゆかなくなる者もでてくる。「検地帳」に「退転百姓」の名がみられるのは、たまりかねて土地を捨てた農民たちの記録である。
 このような農民の苦渋を秘めた「検地帳」によって、われわれは現在残っている最古の小国和紙の存在を知ることができる。「天和検地帳」に使われている紙は、小国で漉かれた生紙―今日いうところの小国和紙なのだ。だから、少なくもこの「検地帳」が作成された一六八三年には、小国和紙の生産が行なわれていたことがわかる。
 小国郷の人びとは、それ以来、自ら漉いた紙の上に、自らの記録を書き残してきている。
 江戸時代、農具の一部と塩とを除いては、農民はすべてを自らの手で生産しなくてはならなかった。糸をつむぎ、布を織り、紙を漉いた。ただでさえ年貢はきびしい。自らの手で生産した品で、少しでもそれを補うことができたらと願うのは、人情である。小国和紙の起源も、そうした社会の背景の中に、ルーツを求めるべきであろう。
 ひとたび、こうした産物が生活の助けとなることを知れば、生産への熱意も加わる。
 谷を這うひと筋の道が、山深い集落に続いている。秋、降雪を前にしで、その道を牛の背に乗せ、自らも背負って楮を運ぶ人びとが連なる。それは、山野田集落で紙漉きが盛んだった頃の秋の風物詩であった。
 苛酷な雪の自然は、しかし和紙生産の条件を充してくれた。楮の産地であること、清らかな流れのあること。さらしのための積雪が多量にあること。狭小な耕地にあえぐ人びとに、生きる手段を与えてくれたのが、和紙であった。
 しかし、こうして漉かれた和紙でさえ、仮借ない年貢の対象となった。「新潟県史」に「天和三年四月検地条目」として、次のような文書が載っている。
「一、漆木、桑、楮、茶園等有之地 検地除軽キ年貢申付候様ニと御条目ニ御座候」
 つまり、漆や桑や楮や茶を栽培している土地については、検地の対象からは除くが「軽キ年貢」は納めなくてはならないというのが、このときの検地の規定であった。
 それに対する「御返答」はこうである。
「一、漆、桑、楮、茶園といたし置可申事、年貢者、其年々相考、極メ候ニて可有之由」
 田畑以外の産物については、その年の実情に従って年貢を決めることにいたします、というのである。
 しかし、時代が降ると、桑畑や楮畑なども検地を受けることになる。こうした畑から得られる産物を、米の石高におきかえて「検地帳」に記載して、年貢を取りたてようというのである。これを「村高」に対して「色高」という。
 隣町の川西町では、すでに天和の検地のときに、楮畑三町六反十歩に対して、十八石一升七合の「色高」が記されている。それに添えられた文書は、次のように述べる。
「百姓作間稼、男冬中雪掘其間少々成紙漉覚申候」
 百姓の内職として、冬の雪掘りのあいまに少しばかりの紙を漉くことを覚えました―というのである。当時の農民の溜め息が聞えてくるようで、哀れ深い。
 ところで、小国町に伝わる「検地帳」には、楮畑の記載がない。それはなぜだろうか。おそらく、楮や桑などは、畑の畔などで栽培されることが多く、面積の把握が難しかったのだろう。そこで、いちいち楮畑と断わらず、「色高」としてだけ記録したものと思われる。
 この「色高」の年貢以外にも、上質の和紙を物納することもあったというし、紙漉きの冥加金を支払わなくてはならなかった。
 天和の検地から十年が経った元禄五年(一六九二年)に書かれた「小国郷鏡帳」という文書には、次のような記述がある。
「村々ニ而ハ紙少宛仕候、此外村々ニハ少成共助ニ成申候」
 村々では少しずつ紙を漉いているが、僅かなりとも暮しの助けとなっている―というのだ。これが、小国紙について書かれた最初の記録となっている。
 時代はさらに下って、元治元年(一八六四年)の「越後産物見立取組」をみると、「村松戸ぐら紙」と並んで「小国紙」も、前頭の下位ではあるが、番付にのっている。少なくも「越後産物」のひとつに数えられるほど、名高くなっていたのだ。
 紙漉きの冥加金が納められていたことは、おなじ元治元年の増沢村の「年貢割付」に、「紙漉冥加 永拾参文」とあることによって知ることができる。
 紙漉きをするものは、冥加金としてひとりにつき年十三文を納めなくてはならない定めであった。もっとも、代表ひとりを立てて、ひとり分の冥加金で、複数の人びとが紙漉きにたずさわっていたようだ。
 この年十三文という冥加金が、明治新政府となっても納められていたことが、明治四年に苔野島の庄屋が柏崎県の提出した「御伺書」でわかる。
 それによると、小国町の旧村ごとの冥加金は、次のようになっている。
 苔野島・九十一文、山横沢・三十九文、上岩田・三十九文、新町・三十八文四分。
 これをひとり分の十三文で割れば、当時冥加金を納めなくてはならないほど大量の紙を漉いていたものが、何人いたかを知ることができる。苔野島では七人、山横沢と上岩田では三人、新町は三人弱となる。 (新町の三人弱というのは、あるいは物納でもしていたのだろうか。)
 さて、小国和紙に記されたのは、これまでみてきたような公文書ばかりではない。ざまざまな個人の記録もある。それは、家の系図であったり、現金の出納帳であったり、手紙や旅日記であったりする。その行間から、かっての村びとの暮しぶりが浮びあがってくるのも楽しい。
 例えば、小国沢の十八という名の男が紙の仲買いをしたときの支払いの覚えがある。それによると、紙九束が三分二朱で買いとられ、手数料が二十文だったという。
 江戸では、そば一杯が十六文というのが通り相場だったころである。そう考えれば、二十文という手数料はいかにも安い。九束の紙を買い集め、それを運ぶのに、十八という男は、何軒の家を回り、何里の道を歩いたのだろうか。そして、二十文を受けとって、どんなことを考えたのだろうか。そんなことを空想すると、ほほえましくなってくる。
 それにしても、もし小国和紙という、身近かに漉かれている和紙がなかったら、こういう庶民の生活のひだは、永久に知られることなく、歴史の闇の中に埋もれてしまったことだろう。
 小国和紙は、雪国の農民の苛酷な生活の中から生まれ、その生計を助けたばかりか、その歴史を記してきたのである。それを思えばこの素朴な白さをたたえた紙への愛着が、いっそう湧きあがってくるのを感ずるのは、私だけであろうか。

(きたはらいさお・一九三一年生れ、小国町議会議員・小国芸術村友の会副会長)
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