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和紙と私と芸術村 | へんなか

和紙と私と芸術村hennaka

へんなか 和紙と私と芸術村

和紙と私と芸術村                大久保 重嗣

 「大久保さん、和紙のことでお客さんですよ。」そう云われてカウンターの方に目をやると、軽装の肩にショルダーバッグを下げ、手に登山帽を握りしめた一見して芸術家と思われる人がこちらを見ていた。
 今から約五年前、一九八三年のまだ残暑がきびしい八月も終ろうとする昼前のことであった。
 今、小国芸術村にアトリエを構え、切絵の創作活動をしておられる西山三郎さんとの最初の出合いは鮮明に憶いおこされるのである。前進座劇場支配人の名刺を差し出された。
 来意をお聞きすると、劇団がその年の秋の芸術祭参加作品として水上勉書きおろしの「越前紙漉き唄」を上演することになったこと、そのプロデューサーとして資料を集めるため文化庁を訪ねたところ、昔ながらの伝統技法を守り、良い和紙を漉いている当地を紹介されてでかけてきたとのことであった。
 西山さんとは初対面の筈なのに何か格別な親しみを感じていた。
 というのは、もう三十年近くも前になるのだか、前進座の芝居「鳴神」の舞台を観て感銘した想い出があることと、水上勉さんとはたまたまヒョンなきっかけで「はなれご女おりん」が東京で上演されたとき、幕間にお話しをする機会があったこと等がそう感じさせたようである。
 その日はひととおり小国紙についての資料をおあげし、説明をし、塚山駅まで車で送った。
 「また近々、今度はリポーターと主演女優も一緒に来ますよ。」という言葉を残して車窓の人となった。
 九月中旬、今は小国芸術村の中心メンバーである若林一郎さんと紙漉き唄のヒロインの田中世津子を伴われて再び来訪された。
 山野田に江ロミンさんの家を訪ね、紙漉きに一生をかけた老女の話に聞き入っておられた。
 過疎の波に洗われて空屋の目だつ集落内を案内しているうちに、都会のコンクリートジャングルのなかでは芸術創造の場がなくなっていること、このような清浄な大自然のなかにこそ、その場を求めたいなどの話がはずみ、そのとき「空屋を買っちゃおうか」という両氏の言葉を聞いた。
 胎動し始め、注目を集めている小国芸術村のプロローグはこうして開かれたのである。

 さて、小国和紙と私との出あい、私の小国和紙への熱い思いはちょっと、かわっているのではないかと自ら考えている。
 役場に入って間もなくの頃だから、もう三十年も前のことだが、当時はまだ山野田は小国のなかでも大きな集落の一つで小国和紙を漉く家も数軒あった。
 産業関係の担当として、その頃、小国和紙の保存と技法の伝承、その歴史のほりおこしに奔走しておられた今は亡き木我忠治氏と面識を得た。
 風前の灯となっている小国和紙を何とかしなければと作業工程の機械化への町補助案が行なわれた。しかし、高度成長の大波にのみこまれてつぎつぎと廃業となり折角の施策も効なく消え去った。
 残念ではあったが時代の流れであり、致し方ないものと小国和紙についてはそれ以来、最近まで私の頭にはほとんど無となっていた。
 だが、今の私には小国和紙の存在とその歴史は大げさのようだが驚異にも似た尊厳の対象なのである。国の文化財に指定され、世間から注目を集めているからではない。小国和紙独特の風あいにほれ込んだわけでもない。
 それは小国和紙を通して郷土の先人達の実に偉大な先進的知力と、地域開発実践力を見てとることが出来るからである。
 地域おこしが叫ばれ、地域資源の再開発や豪雪地帯の克雪、利雪対策がはやり言葉となっている昨今であり、どこの地域でも血まなことなっており、当町とてその例外ではない。
 その点で小国和紙はまさにその典型であり、最盛期であった約百年前の生産量が二千二百万枚、今の米価で換算すると約二億円の産業を創り出していたのである。
 田の畦畔や傾斜地の有効活用による原料生産で、雪なくしては出来ない独特の技法で先人達はこの地にしっかりと根をおろして群[ママ]の生活を支えてきたのであった。
 私は今こそ、この先人達に学んで小国和紙の再興はもちろんのこと、素晴らしい発想をもつ小国人が地域おこしに力を集めなければいけないと思っている。
 小国和紙と、それを媒介として誕生した小国芸術村が大きく実を結ぶことを心底、期待して止まない。

(おおくぼしげつぐ・小国町役場職員)
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