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基調提案 | へんなか

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へんなか 基調提案

基調提案                       高橋 実

 私の方から基調提案をさせていただきます。渋海川は、小国町にとって、生活の中に密着した、母なる川であります。この川の支流はそれぞれの名でよんでいますが、この川に限って、大川と敬意をこめてよびます。
 この大川のほとりに住んでいながら、上流がどういうふうになっているのか、下流は、どこで、どうなっているのか、全く私は知らずに過していました。
 このシンポジウムのために、改めて、この川の上流、下流のようすをさぐってみました。松代町では、本日ここにパネラーとして出席いただいておる関谷先生にお会いして、上流のようすなどをお聞きしました。文献では、天水山が渋海川の源流になっているが、そこは、越道(こゐど)川の水源であって、渋海川の水源ではないと教えていただきました。現地にいってみて、初めてわかったわけです。渋海川は、松之山温泉のあるところから、山を越えて、浦田地区というところがありますが、その奥の深坂(みさか)峠が水源となっております。浦田地区は、越道川の流れる温泉地より、平坦地になっておりまして、その川は、そこから松代町奴奈川地区で、濁川と合流し、松代町の中心地を通り、孟地で山脈を抜けて、川西町仙田地区へ入ります。そこから小国町を貫流し、越路町から、長岡市の下山町で、信濃川に合流いたします。この合流する地点も最近はじめてわかったことで、国道四〇四号線が、小千谷方面から来る国道三五一号線と交叉する長岡市下山町の信号のところから、正面に堤防が見えますが、これは、信濃川のものではなく、渋海川の堤防だったのです。この地点から少し下流、長生橋の手前で、渋海川は、信濃川に合流しています。
 次に渋海川の流路延長、川の長さを資料で調べてみました。信濃川、阿賀野川は、新潟県の二大長流ですから、これは除くとしまして、支流としての渋梅川は、「新潟県年鑑」で、七〇・六Kの数字があります。「信濃川百年史」には、本文と附録の二つに幹線延長がありますが、本文では、魚野川が六八K、渋海川が六三Kとなっており、魚野川を信濃川第一の支流としている記述があります。「新潟県民百科辞典」は、八二Kと記述しています。こうして、資料が違うと、すべて流路延長も違っているのに気づきました。合流地点は、はっきりしているのですから、どの地点までさかのぼるのか、によって数字の違いがでてくるのではないかと思います。
 次に、文献の中で、渋海川は、いつころから出てくるのか、みてみたいと思います。
 文明十八年(一四八六)、室町時代の聖護院道興という人が、越中から越後を経て、関東の方へぬけています。柏崎から三国峠を越える時に、この渋海川を渡るのですが、その時の記録が、おそらく最初ではないかと思います。やすだ、山むろ、みをけ、大がヰ、しぶ川、きをとし、というふうに書かれております。三桶というところが、当時の宿場になっておりまして、午後から巡検にここを通ります。次にお話しする「梅花無尽蔵」の中では、見置と書かれておりますが、現在は、三桶と書きます。「梅花無尽蔵」の著者漢詩人万里集九は、その二年後に関東から越後、十日町、小国を通って柏崎に抜けています。ただ、資料に載せた記述は、渋海川より信濃川のことといわれています。妻有、見置之間に川ありと書いています。妻有というのは、現在の十日町地方をいいます。江戸時代の宝暦年間に書かれた「越後名寄」という大部の本があり、寺泊の丸山元純の手になるものですが、これには、渋海川の項目がなく、朝日川となっており、現在の渋海川をさしております。この本に、後の人が解題をつけているのですが、元純の記述の誤りを指摘しています。本文の中で、朝日川は、黒姫山から流れ出すとあるのですが、解題では、頸城の松之山雨水村から流れ出すと訂正されています。雨水は、今は天水と書きます。
 その後、私の気づいたのでは、「北越雪譜」(天保年間刊)があります。この著者は、南魚の塩沢の人ですが、要項の表紙に使った絵(27P参照)が、「北越雪譜」の挿絵に書かれたものです。本文の中でも、渋海川をくわしく記してあります。明治になりましてから「温古之栞」(太平與文治)「大日本地名辞書」(吉田東伍)などに渋海川の記述が見られます。
 次に渋海川の語源ですが、この川の名にはいろいろな字があてられております。渋川、四海川、渋見川、新浮海川など、新浮海の文字は、太郎丸の新浮海神社に使われております。深井先生によりますと、来迎寺方面では、渋味川の文書も残っているそうです。
 語源については「大日本地名辞書」に、田んぼの水の上に、赤い酸化鉄が浮かぶことがあるのですが、これを方言でそぶとよんでいるのが、なまって渋になったものだと述べてあります。この酸化鉄は、鉄バクテリヤのことと堀川先生からお聞きしました。川西町の上村政基さんによりますと、田の上の赤くなっているのは、地味の肥えているところで、稲株を抜くと、下の土が青くなっているところは、地味のやせているところだそうです。そこを「渋が強い」といういい方をするのだそうです。ソブという方言は、川西町方言にたしかに残っているそうです。
 それから四海川ですが、上流の四つの川が合流しているから、四海になるのだというのは関谷先生のお話です。「北越雪譜」では、四府見と書いてあり、これは頸城、魚沼、三島古志四郡を流れているからと説明されております。
 最後に「さまよえる渋海川」と要項の見出しをつけました。地図を見ますと、この川は、頻繁に蛇行を繰り返しております。しかも、信濃川と平行して流れておりますから、まかりまちがうと、川西町あたりで、信濃川か、鯖石川に合流しても不思議でないという感じを地図の上で受けます。山の中をまがりくねって、ようやく、小盆地小国町にたどりついたという感じがするわけです。ちょうど、生まれ出る赤ん坊が、母親の産道を苦労しながら通りぬけて、めでたく出産するような感じなのです。川の流域の行政も複雑で、四つの郡と一つの市になっております。一つの川の流域で、行政区画がこれだけ複雑に分轄されているのは、このような川では、珍しいことと思います。行政の境界は、地形をもとにして作られておりますから、この流域の行政区画の複雑さは、即地形の複雑さといってよいと思います。決して高い山はないのですが、流域の丘陵地帯を苦労に苦労を重ねて通り抜け、ようやく信濃川に合流してゆくのです。よく、ここまで山々をくぐり抜けて、たどりついてくれたと、難産で産まれた子をいとおしむような気持ちを、渋海川に持ち続けてきました。
 なお、午後の巡検でも見学することになっていますが、上流から、御神体、御本尊を川が運んできて、流れついたところに堂を建てているところがあります。この会場から見える相野原の観音堂も、川西町岩瀬から流れついたものといわれています。太郎丸の新浮海神社も、川西町室島の渋海川本神社の御神体が流れついたものといわれています。かつて原にあった法光院という古い寺も、流れ流れて塚山駅前にある宝光院になったといわれております。川が信仰の対象物を運んで、そこで新しい文化が開かれるという役割を、果たしているといえます。
 はじめて、渋海川の流域の人達が、この一堂に会したのであります。これからも、同じ運命共同体として、この川との関わりを深めていったらいいなあと思いまして、私の基調提案といたします。

(たかはしみのる・小国町・日本県民俗学会員)

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