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パネラー発言 源流付近と人々のくらし | へんなか

源流付近と人々のくらしhennaka

へんなか パネラー発言「源流付近と人々のくらし」

源流付近と人々のくらし                関谷 哲郎

 関谷でございます。松代から参りました。かって江戸時代、松之山郷といいました、松代は郷内の、北側なんです。南側の松之山町と、合わせて松之山郷といっているのです。
 渋海川の源流の方から何か一言しゃべろとこういうお話でございますので、トップバッターをつとめさせていただきます。まず、渋海川は私共の方でも昔から大変なあばれ川でございました。その源流の方の冬季の雪の状態はどんなものであるか、スライドでご紹介申したいと思います。(※スライド変わり目)
※千曲川、つまり信濃川が流れております。長岡の南部から渋海川は合流していくわけでありますが、私共の地区というのは、この頸城丘陵のこの処から源流が起こっております。
※これは、雪が降り続ける時の夜の道つけです。「夜道づけ」と言っておりますが、老婆が道つけをしている、こういう場面は今でも見られます。
※冬でも近頃は土方仕事に出るものですから、自分の家の周りの道つけなどは夜こうやって、今でもやっております。
※除雪風景ですが、電信柱がこんな状態です。これが電信柱の頭です。一メートルも出ていません。だから、この人達の足元は地面から随分高い所にあるということです。
※萱屋根の家と、一般の今の民家の大きさで比較しておりますが、一九四五年の豪雪の時には、積雪があの屋根の所までいっている。一九八一年の豪雪はこの白の点線の部分ですね。
※これは、松代から松之山温泉の方へ通じるルート三五三です。バスですね。大型バスです。この様に切り立った壁の中を、これは五六豪雪の時の場面ですが、こういった状態でバスが通りました。
※少し大きい家になると、とてもじゃないが、一人や二人ではできませんので、スノーダンプを持ってこういう雪の下ろし方をしております。萱屋根の家です。
※写真は非常に立派なカメラマンが撮ったので、きれいですが、一軒々々このように雪に埋もれている様子は、小国町では、ちょっと見られないのではないでしょうか。
※雪が降り止んで、三月末こんどはいよいよ一日でも早く田んぼを出さなければなりません。なにかこう菊の花びらのような……これはべト(土)撤きですね。これはカーボンを撤いているのですが……こうして一刻も早く雪を消そうと、こういう風景がよく見られます。
※そして、なおかつ雪が消えていく中で、鋸まで持ち出して苗代を出そうという苦労が今もあるのです。 ※今年はごく雪の少ない年でありましたが、それでも三・八メートルを記録しております(役場の積雪計です)。山平という地区でありますが、この辺にいきますと、もう十五、六センチ多くなります。源流の浦田の方になりますと、今年でも四メートル二、三〇センチと記録されております。でありますから、五六豪雪の時などにはどうなっていたかというと、ちょっと六メートルに近い積雪になるのですね。まあ県内でも有数の豪雪地であります。それが渋海川の源流であります。
※さて、渋海川の水はそういう豪雪地の水が解けて流れ流れて下の方へ下り、そしてある時には大水害をもたらしたり、また田んぼの水を供給するという役割を果して来たわけであります。
 この渋海川は、私共の方の地区で言いますと、いわゆる松之山郷の中では大きな支流が三つあるわけです。松之山町の中で「天水越(あまみずごし)」という集落があります・その近くに「天水島(あまみずしま)」という集落があります。この二つの地域から流れでるのが「越道(こえど)川」です。もう一つ、布川地区という地区があります。
この地区には「藤倉」という集落があり、この集落には大伴家持に関係した「鏡ケ池」の伝説が残っておりますが、鏡ケ池は今でもあります。その地方から流れ出る川を「布川」といいます。「東川」という場合もあります。
 この東川と越道川という川は、松代に近づくにつれて小屋丸という所と、松之山町の坪野という所の地域で合流しまして、越道川という名前に一本になります。この越道川が犬伏村の地内と田沢村の北東部、犬伏村との接点のあたりで、今度は渋海川に吸収されてしまいます。資料に孟地のあたりで合流とあるのは間違いであります。
 で、渋海川は、どうなるかというと、その源流は天水山ではないのであります。松代町の中を、松代からさらに南西方向に奴奈川地区という所があります。室野という集落があるんですが、そこからこんどは直角に折れて南下していきます。そして松之山町の浦田地区に入っていきます。この川は深坂(みさか)峠の下を源流にしております。深坂峠へ登るには非常に急峻な坂になっておりますが、それを斜めに縫うようにして登っていく旧道は、今でもあります。この旧道を登って深坂峠を越えると、道順が信州白鳥の方へ出ることになります。
 この道は車ではちょっと行けませんが、峠に立って信州方面を眺めると、山また山が重なり連なり、まさに絶景であります。
 さて、渋海川は先にも述べましたように、松代町の奴奈川地区では比較的ゆるやかな流れをしております。ところが、浦田地区の奥へ入りますと、凄い急流になります。雪が解ける時期になりますと、浦田地区へ「どーっ」と流れ出して、それが一気に奴奈川地区の方に「ゆきしろ水」となって流れでます。このために渋海川周辺の松代町の方から言いますと福島、奈良立、室野、以下孟地、苧島、岩瀬、と川西町の方へ流れていきます。その近くへ行くまでに十二ケ村の大字を通過しますが、江戸時代の文書をみるとこの十二ケ村から始終水害の訴えが出ております。そして川役普請をさかんにやらしてもらっております。
 資料的に出てくるものでは、宝永四年(一七〇七)から明和、安永、天明、文化、天保というふうにずっとであります。これ等の川役普請は夏漸く終了して、やれやれと一息つく間もなく、秋の長雨でまたやられるというわけで、全く工事の繰返しだったのであります。
 しかし、流域住民はこれにめげず、長年かかって、一つ一つ工事を進めて参り、最近では記録に残るような大水害は起こらないように克服しているという状況であります。
 さて、もう一点は、瀬違田、瀬替田の件でありますが、松代では奴奈川地区を出て松代へ入って犬伏、孟地、苧島、岩瀬、と川西へ向かう流域の区間に、十五、六ケ所の瀬替工事が行われております。早いのは寛政年間に完成しており、その後年に瀬替田作りが行なわれて来ました。
 ところが、この瀬替田作りが大変なことになっているのであります。即ちこれを実施しますと川底をどんどんえぐりまして、このための被害が現在でも馬鹿にならぬ情況になって現われております。
 そういうことを御紹介して、一先ず私の話を終わりにいたします。

(せきやてつろう・松代町史編さん室長)

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