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パネラー発言 蛇行した川と人々のくらし | へんなか

蛇行した川と人々のくらしhennaka

へんなか パネラー発言「蛇行した川と人々のくらし」

蛇行した川と人々のくらし              金子 幸作

 金子でございます。先程若林先生、高橋先生が触れられました、中里観音堂は私の住んでる家のすぐ下の土手の渋海川のほとりから流れたものであります。丁度、今から三百三十年程前のことであります。そういう話を昔から聞かされておりましたので、渋海川には特別な関心を持っておりました。
 相野原の田中さんのお宅にも、何回かお邪魔させていただいております。
 今日はまたはからずもこういう席に立たしていただきまして、大変奇しき縁だと感じている次第でございます。
 私に与えられた題目は「蛇行した川と人々のくらし」ということでありますが、大体七つに分けて要点を述べてみたいと思います。
 まず第一に「川の幸と村の生活」第二は「下流の村々とのかかわり」三番目には「瀬違新田の開発」四番目に「渋海川の運輸交易」五番目に「大川に住んだと言われる怪物達」(河童などですね…)について触れてみたいと思います。六番目に「今渋海川は本当に無用の川になったのだろうか?」ということについて、ちょっと考えてみました。七番目には、基調提案にもありましたが「流域住民の運命共同体的なつながりをもっと深めて行かなければならないのではないだろうか」、以上の様なことについて述べてみたいと思います。
 今川西町の仙田地内を流れている渋海川は、丁度曲りくねつた鰻に串をまっすぐ差したような形だと思います。その曲りくねった処が全部水田になっておりまして、そのまっすぐな串の部分というのは、もう昔から比べますと、大体五十メートルから百メートルくらい沈下しているのではないかと思います。
 私の家が昔から渋海川の辺りにあったのでございますが、等高線で追ってみますと、大体百十六センチぐらいですから、今の渋海川の河床というのが、私の近くの川ですと九十五、六センチぐらいなんじゃないかなあ、と思っております。
 縄文時代、人が六千年ぐらい前からもう住んでおりまして、石の鎌や石斧などが出てきておりますので分かるのですが、つい数百年位前までは鮭が遡っていたようであります。
 というのは、私のすぐ近くに赤谷城という城がありますけれども、その城の殿様が三河玄蕃という人でありまして、非常に鮭が好きな殿様であったそうです。それで渋海川の鮭を捕るため網を張らせたということで「網張場」という所があり、今でもその地名が残っております。ところが、この殿様は鮭の皮が大好きで、鮭を焼くと、自分ではその皮だけ食べて身は全部家来に食べさしたといいます。それは貞享(じょうきょう)年間といいますから、一六八六年が貞享二年になりますから、その頃には渋海川にも鮭がいたんだということが分かり、当時の流域住民が大きな川の幸に恵まれていたことが分かるのであります。
 いろいろと昔からの話を伺いますと、渋海川の「しぶみ」というのは、魚が沢山いるということを意味しているとか、あるいは私共の村に「藤沢」と言う集落がありましたが、その藤沢というのも昔、そこに住んでいた人達の言葉では、川縁(ぶち)だ、川の辺りだという意味があったといいます。また「しぶみ」というのは温かい川を意味しているという人もありますが、事実私共の町では松代町からすぐ川西町に入った所に、川の真中から温かい湯が出ておりまして、今でも町の当局が何とか活用できないものかと研究を進めているようであります。しかし、何しろ川の真中であります。魚がそこをよけて泳ぐという話もあります。
 さて、次に下流の村々とのかかわりということでありますけれども、特に私共の町の旧仙田と小国というのは非常に昔から密接な関係があったということであります。昔からの言い伝えや文献などを調べてみますと、小国の方から川を遡って仙田の方へ入ったという説と、逆に仙田の方から下って小国の方へ開けてきたのではないかという説が考えられるのであります。
 二つ三つ例を挙げてみますと、昔、山田赤谷という大臣(おおおみ)がありまして、その人が都を追われて日本海沿いにこちらへ来た時に、たまたま八石川(ハチコク)へ上って「ハテ、これから何処へ行ったらいいだろうか」。と思って周囲を見まわした処、巽(タツミ)の方向に黄色の煙が上っていたので、そこを目指してずーっと渋海川を辿って行ったところが、「赤谷」という村があったので、そこに落ち付いたという話があります。
 もう一つ、越路町の長谷川さんと兄弟の人が二人して越路のところまで逃れて来たけれども、その兄弟のうちの一人が、たまたま渋海川を見たところが、川上から人が住んでいるらしい何かが流れて来たので、これはこの川上にも人が居るんだろうということで、川上へ上って行き、赤谷へ落ちついたということです。その場所は今大きな欅のある場所であります。
 それとは逆に、小国町史にも載っておりますが、徳治元年(一三〇七)に渋海川本(カワモト)神社の御神体が流れて来て、それが新浮海神社の御神体になっているということであります。
 また田中の中里観音堂については、はっきりした文献は残っていませんけれども、考えられますのは、慶安三年(一六五〇)でありますが、この渋海川の大洪水の時に流れたのではないだろうか、ということが推定できるのであります。
 と申しますのは、私共の方の古文書文献等による限りでは、慶安三年(一六五〇)から九年後の、万治二年に岩瀬新田という新田ができております。そうしますと、大洪水が起きてから九年後に、私共の方に「せっこうず」という言葉があるんですが、(せっこうずというのは、夜も昼も寝ずに自分の水田を開発することを言います。)皆さんが夫々に、夜遅くまで開墾をし、よし明日はまた朝早く起きてこの続きを開こうと思って家に帰り、翌朝行ってみると、もう別な人が夜のうちに続きの部分を田にしていたという状況だったと言います。即ち、大洪水の跡の土地は誰の物と定まっていたわけでなく、開いた者の所有になったらしいのであります。ですから、岩瀬新田では最近まで土地の所有が大変入り組んでおりました。
 いずれにしろ、慶安三年の大洪水は、川の流れを堰き止めるような大きな土砂崩れを引き起こしましたので、そういうことをヒントにして「川の流れを堰とめると、新田を開くことが出来る」ということに気付き、それが元になって、九年後に検地帳に載る程の岩瀬新田が出現したのではないかと考えております。
 万治二年に岩瀬新田ができますと、続いて渋海川の流域には「室島」とか「小脇」とか「中仙田」とか「赤谷」とかに、すべて渋海川の流れを替えて新しい田んぼが出来るわけであります。
 それを中仙田に焦点を当ててみますと、特に享保年間に多かったように思われます。中仙田に諏訪様という神社がありますが、この神社には、村の人達が開田をする時の安全を祈るために、安置したと思われる石仏が二、三体あります。八代将軍吉宗の享保の治政に刺激されて、開田がさかんに行なわれたのではなかろうかと思われます。
 瀬違新田の最後は、昭和二十八年頃から始まり、三十年代にかけて行われた大がかりな開田事業だったと思われます。これが出来上ると、間もなく米つくりが斜陽化して来たように思われます。推定でありますが、仙田地区の水田の約七〇パーセントは瀬違いによって開いたものであろうと思います。
 四番目の運輸交易についてにうつります。私共の方の古老の話を聞きますと、大正の終わり頃まで岩瀬の近くの渋海川のよどみまで、小国の商人衆が舟に海産物を積んで来たのを見たというという人が五、六人おります。それ等の舟は帰りには米を積んで行ったそうであります。
 もう一つは筏でありますが、私が小学校の四年頃までは、雨が降ると、筏が通るので、見に出た記憶があります。古老の言によると、材木を川岸に集めで置き、雨が降って水量が増すと筏に組んで飯塚まで下ったのだということであります。その時使った棹が一本残っておりますし、つい五、六年前まで最後の筏師が生きていらっしゃいました。
 飯塚までというのは、そこに堰があったからで、筏師達は、そこで筏を解いて飯塚に泊まり、帰りは、渋海川沿いの道がありませんでしたので、来迎寺から信濃川沿いに来て、橘の野口あたりから再び仙田へ入ったということであります。この筏師のいなせな姿が一世を風靡した時代が確かにあったようであります。
 道路につきましては、明治二十三年に長岡松代線の開さくが始まっておりまして、四十二年に開通しておりますが、その頃の道はまだ大変不備なものであったらしく、大正三年から渋海川に沿って本格的な大改修が始まっているようであります。
 時間も過ぎたようでありますので、一まずこの辺で私の話を終わります。

(かねここうさく・川西町教育委員長)

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