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パネラー発言 盆地の川と人々のくらし | へんなか

盆地の川と人々のくらしhennaka

へんなか パネラー発言「盆地の川と人々のくらし」

盆地の川と人々のくらし              片桐 與三九

 片桐でございます。ピンチヒッターですので要項も作りませんですみませんが、お手許の山崎先生の要項に大体随っていこうと思いますが、若干ズレるかと思いますが御かんべん願います。
 まず要項の三番目あたり「いこいの場としての河原」「水あぶり」「魚取り」「かんぴょう干し」「髪洗い」その辺からお話してみたいと思います。
 少し前に、雪の研究をしていられる偉い先生の本を読んだことがあります。日本は大変雪の深いところが沢山あるが、殊に新潟県は多い。しかし、これを川の流域で見ますと、川の源頭から終わりまで実に雪の深いところがあるが、その最たるものは渋海川である。と、こういうことであります。
 最初にスライドをご覧になったように、松代方面はあの通りでありますが、小国もあれに負けないだろうと思います。それから越路町ですね。この川は長生橋の少し上流で信濃川へ入るわけでありますが、この松代、川西、小国、越路と数えてみましても、どの町村も皆雪が深いのであります。そこで先程の雪の研究をしていられる先生が「流域として一等雪の深い川は渋海川が日本一だ」と言っておられるわけで、日本一ということは世界一ということであります。
 しかし、春三月の声を聞きますと、そろそろ雪も止んで春を待つ気分になります。私の子供の頃、三月のみなれた日の夕方、猿橋の方から渋海川伝いに、ピヨピヨピヨと川千鳥だと思うのですが、上流へ上っていく、また下ってくる。それを聞きますと、昭和二十年に九十才で亡くなった家のマゴ婆さんは、「あの鳥が鳴きはねる(はじめる)と雪は降らん(降らない)がだ」とこんなことを繰返して言っておった記憶を思い出します。春の兆しなんですね。
 さて、川千鳥の話は三月ですが、六月、七月、八月になりますと、大川で水あぶりをやり、それに飽きると雑魚取りをして遊んで、それから河成礫原の(石っこ原ですね)十五センチくらいの石が水際にありまして、その奥の方は、やや砂まじりになっていて、其処には小さな草が生えていた。時にヒバリが上ったり下りたりして、それから柳の株つがバーッと生えています。柳の新しい芽はスーッとよく伸びます。それを子供達は取って来て、「盆箸」を作るんです。取ったばかりの柳の若い幹はスーッと皮がよくむけて、肌が真白です。それを十本とか、二十本とか束にして、むいた柳の皮でキリキリと結束して、家に持って帰ります。それを「ガンギ」の柱にしばりつけて乾燥させます。お盆になりますとそれを切って箸に使いました。「盆箸」です。
 河成礫原の石は今と違って奇麗でしたから、その上に「干瓢」を干したものです。家で夕顔を裂いて干瓢を作ります。朝作ったばかりの物は生ですからとても重いので、親が「ゴゼンカゴ」という籠の中に入れてかついで川原に持って行き、石っこ原の上に並べます。子供を連れていって自分の家の干した場所を覚えさしておきます。それの番をしながら、子供は水あぶりをします。親は家に帰ります。
 さて、夕方になると、干瓢を取りに行かなければなりませんが、今度は干瓢は乾いて軽いですから、親は行きません。子供の出番です。干上った干瓢を集めてたばねて、ザルか何かに入れて持って帰るわけです。無論この時にも水あぶりはやったものです。
 このように懐しい川なんですが、どうも今の川を見ますと当時の面影はさらに無くなってしまい淋しい限りであります。
 昔は川上から神様や仏様が流れて来ました。今流れてくるのは、へんな汚ない水の中にビニールばかり流れてきます。これでは祈ってみようがありません。
 まあそんなことで山崎先生の要項三番の「いこいの場としての川原」を終わりたいと思います。
 さて次に、瀬替工事の話にうつります。これは先程来先生方が話された通りであります。午後も実地見学するわけでありますが、瀬替工事の跡ははっきり見えます。その時よくご覧いただきたいのは、水田の出来ている低い段丘が出ている所を川が流れていたのでありますが、その段丘の元をカット致しまして、カーブのところを新田にするという瀬替工事の様子であります。そういう工事がいくつか並んでいるのでありますが、水田になっている低い段丘は関田山脈の方から出たり、八石山系の方から出たり、交互になっていることに気がつかれると思います。
 ということは、渋海川が奔放に荒れたことを物語っています。ぐるぐるぐるぐるとあばれまわったわけですが、この荒れた中の方が低い段丘で、こっちから出たり、次はこっちから出たりで、交互になっています。今では平地になってその痕跡はよく分かりませんが、相野原の低い段丘、新町の段丘、その下にもいくつかあります。そのつもりで見ますと川がどうつながっていたかよく分かります。今見事に残っておりますのが、原小屋の段丘です。その次に八石の方から出た「古城」の段丘、その次は鷺之島の段丘であります。いずれもこう(手のしぐさで)流れて行ってぶつかると向きを変えて流れたり、今度はこちらの岸にぶつかって向きを変えるというふうにグルーングルーンと暴れ回ったことがよく分かります。驚くべきエネルギーというべきでありましょう。そんなことに気をつけて、ご覧いただきたいと思います。
 ところで、その頃の治水と申しますのは、「川よけ」という普請の仕方でありました。展示室の方にも川よけ関係の図とか資料が沢山出ておりますが、非常に河床が浅かったですから、奔放に流れたわけで、「俺(おら)が村の方へ川が荒れて来ないように」土手を作るわけです。反対側の村の衆も同じく川よけをやります。お互いになるべくならおらったり(俺たち方)へ来ないで、あっちの方へ行ってもらいたいというので、工事をやったのであります。これが川よけ普請であります。
 次にだんだん川底が下って参りますと、そんなに奔放な荒れ方はしないのでありますが、今度は川の岸を攻撃するようになります。そうしますと、攻撃された側の田んぼが崩れ落ちるようになり、川に流されて田んぼは無くなってしまいます。
 これを少しでも防ぐために、その頃は護岸という工事をやりました。この素朴な工事では「はんねん」という木の枠を作りまして、その中に土俵を入れたり、竹の籠の中に玉石をつめた「蛇籠」を作ったりしました。時代が進むと、鉄線の「蛇籠」が使われるようになりました。
 このようにして、川が真っすぐになりますと、距離が短くなりますから、川の流れが急になり、川底がどんどん削られて深くなります。今度は慌てて床止め工事ということになります。これは小国町内でも何ケ所もあります。
 これをやらないと、大変困ったことになります。旧平和橋ですが、川底がどんどん削られたためにビーアが下って橋桁が折れてしまったことがあります。旧小国橋もそうでしたね。それ等を止めるために床止め工事をやっているわけで、今度はそんなに砂利は流れないと思います。今まではどんどん流れましたから、それが越路町の方へ行って堆積して、岩田方面の川底があべこべに浅くなり、水上りの危険がありますから、土手を両岸に作ります。いわゆる「天井川」になったわけです。
 さて、川底が低下しますというと、今まで大きい川からも灌概用水を取っていたのでありますが、今までのように川の中に堰を作ったくらいでは、田に水がかけられなくなります。大川の支流から用水の取れる田は差支えありませんが、直接大川から取水していた地域は大変困りました。
 何とかこの悪条件を克服して用水を得ようと、積極的に計画し実施したのが、七日町でありました。明治三十五年に石油発動機を入れて渋海川から揚水したのであります。これは新潟県で最初の試みであったと言われます。
 三十六年になりますと、鯖石川の下流、西中通で大分大仕掛けの揚水をしております。
 小国へ電気が入りましたのは大正十年、北越水力電気の配電があったわけです。これに伴い、水に困っていた上岩田が大正十一年、二十馬力の電力揚水を始めました。これ等はすべて不利な条件をどうやって克服するかという、大きな努力の結果であります。また先見性もあったなと思います。現在では渋海本流からの電気揚水は十四ケ所くらいあります。
 小国船道の話もしたかったのですが、時間ですのでこの辺で止めさしていただきます。

(かたぎりよさく・小国町文化財審議委員長)

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