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パネラー発言 下流付近と人々のくらし | へんなか

下流付近と人々のくらしhennaka

へんなか パネラー発言「下流付近と人々のくらし」

下流付近と人々のくらし                深井 義春

 ご紹介いただきました越路町の深井であります。下流付近と人々のくらしというテーマが与えられておりますが、副題といたしまして、「水害と恵みの川としての渋海川」ということにしたいと思います。
 内容は五項目ほど挙げておきました。渋海川は小国盆地から塚山地域に至って東に関田山脈、西に八石山脈が迫り、大変蛇行が激しくなっております。
 そういう関係で大雨が降りますと、蛇行部分で川が堰止められるような工合になり、小国町及び塚山地域がしばしば洪水に見舞われて参りました。
 塚山地域を過ぎて、岩塚地域に参りますと、岩田という集落から平野部に入りますので、そこからは両岸に堤防が出来てくるというようなことになります。したがいまして、この両岸の堤防沿いに農業用水堰が古くから作られております。
 私の手元の資料で渋海川の洪水で分かるものは、延宝七年の春(今から約三百年程前になりますが)「渋海川大水、用水に泥水流入」という記事があります。これは多分用水堰に泥水が入ったということかと患います。
 私なりに水害史をまとめてみますと、五〜十年おきくらいに大水が出ているようであります。中には三年くらい連続しているようなこともあります。あるいは一年のうちでも春の雪消え水、梅雨時の大雨、また秋にも雨続きで大水になるというふうに、一年間のうちに三回も水害を受け、大飢饉のようにほとんど米の取れなかったような年もあったようであります。
 したがいまして、越路町の住民にとりまして、渋海川の水害というのは大変な関わりをもっていたのであります。
 しかし、反面二つの農業用水堰が古くから開発されております。これは戦国時代が漸く落付きまして、豊臣秀吉が検地を初めて実施し、各地の大名達もこれに倣って検地を行ない、新田を開いていくようになりますが、そのためには農業用水を確保することは、極めて重要な事でありました。
 越後においては、上杉謙信の没後、景勝時代に、すでに農業用水が開かれていたのではないかと思われます。
 渋海川では、朝日から来迎寺用水が設けられて、西側、即ち左岸では、才津江というのが設けられました。これは天正十八年(一五九〇)頃ではないかと言われております。
 朝日の「鯰場」という所から水を取っていたといわれます。今はこの地名は残っていませんが、昔の記録にありますから昔村人がナマズを捕った場所なのでしょう。
 この取水口からは、来迎寺村と朝日村、そして浦村等、四ケ村が江組となっていたそうです。
 一方才津江の方では、才津村、深沢村、二ケ村が江組になっておりました。
 文禄年間に入りますと、はっきりした検地の文書が残っております。その中に、これ等江組の事柄が出てまいります。
 それで渋海川の洪水によって、堰が壊されたり、泥が入って駄目になったりして逐次、堰の場所を川上の方へ移動していったようであります。
 このように景勝時代、天正・文禄年間を経て慶長年間に入りますと、景勝は会津へ移封されます。そして慶長五年頃になりますと、かっての才津堰は、川上の飯塚へ移り、来迎寺の堰は飯塚村の枝村である十楽寺へと、それぞれ新しく築かれたらしく、慶安の絵図にはこの両堰がはっきり記載されております。
 次にこの両堰の水争いについて若干お話しいたします。この水争いは、四六時中絶え間がなかったと申します。対岸の深才村と来迎寺村では、出て来る文書がすべて水争いの文書と言ってもよい程であります。
 それが寛政年間になりますと、これに領地換えというのが絡まって大変なことになって参ります。と申しますのは、その頃飯塚用水(下堰組)と十楽寺用水(上堰組)とは領主が異なっていたわけです。下堰は、長岡藩領で、上堰は淀藩領で領主は稲葉丹後守であったから、水争いは容易に解決できなかったわけであります。
 長岡藩では、何とかして上堰を自領に組み入れようと策動しておったわけですが、九代目の牧野忠精が、老中になると、その権力を利用し、稲葉丹後守領の上堰を蒲原方面の天領と一時交換させて上堰を天領とし、次にそれを自領の一部と郷替して自領にするという、手のこんだやり方で、遂に寛政元年長年の夢を実現したわけであります。
 同時に長岡藩では天領時代では思いもよらぬような重い税をかけたので、上堰組の村々は、減免嘆願運動を起こし、これが傘連判状で有名な「義民岡村権左衛門事件」に発展するわけであります。
 その結果、岡村権左衛門は討首獄門という極刑が執行されますが、長岡藩にも落度があったというので、年貢はいくらか軽くなったと申します。それ程十楽寺堰の方は水利もよく、地味も肥えて、よい田が沢山あったのでありましょう。
 この問題はずーっと尾を引いて最近の町村合併の時にも素直に長岡へは合併できないという住民意識が伏在していたようであります。
 そこでこの問題は、国の力で解決しなければ駄目だということで、国営用水という形になり、昭和三十年頃「信濃川左岸改良四号線工事」として完成し、長年の水不足は漸く解消したのであります。
 この用水については、面白い話があります。この用水の水は、小千谷の塩殿から取っているのでありますが、その水を十楽寺用水に入れて、渋海川の水は耕地の多い下堰の方へ多く流し、耕地の少ない十楽寺用水(上堰)の方は信濃川の水で賄うというのが国の計画であったのであります。
 ところが、上堰関係者は、これに大反対いたしまして、結局信濃川の水は、朝日から渋海川を越え、西側の飯塚用水に入れるという結果になったわけであります。そのために、工事はまた三年くらい延びましたが、その反対の理由というのが「信濃川の水は、田んぼによくない」「田んぼには、渋海川の水がよいんだ」という言い伝えが、昔からあるんですね。これは、色々聞いてみますと、渋海川の水は温かくて、洪水等によって泥水等が入ってまいりますので、肥料分がある、というのであります。長い間の生活の知恵の言葉として、渋海川の水の方が田んぼのためにいいから、信濃川の水なんか田に入れてもらっては困るという理由でもって国とかけ合い、とうとうそれを通したんですから、大したものです。
 一方下堰の方は、与板方面まで延々と続き、距離が長いから、その間に水の温度も上がるだろう、というのが屁理屈の一つだったということであります。大きな用水工事に付随したエピソードでありました。
 さて、次に瀬替工事でありますが、これは塚山地域から何ケ所も見られます。先程話に出ました小国の千谷沢地内、古城の「小僧新田」と言われる瀬替工事が一番古く、天正十八年頃ではないかと言われています。それらを含めて不動沢の成出(ナルデ)まで七ケ所程の瀬替工事の跡が見られます。
 非常に短い距離の間に、激しい蛇行を七ケ所もカットして流路を替え、旧河川敷を新田として開いたわけです。新しい流路を「堀川」と言ったり「新川」と言ったりしています。
 これ等を航空写真で見ますと、川の蛇行を掘り割ったということが歴然と分かります。展示室の方へ写真も出ておりますので、ご覧ください。
 それから築堤工事でありますが、これは近年に入って、主に岩田の下流から実施されたものでありますが、以前は川の流れに随って土手が築かれ、それが村境になったり、あるいは地境となっていたため田の所有権争いなど、トラブルが絶えなかったのであります。
 それを近代工法によって川の流れを一定にし、両岸に堅牢な堤防を築くことによって、治水、利水の両面と地境等もきちんとして現在にいたっているのであります。
 次は新田開発でありますが、古くは大名の検地によって耕地を多くしたいということと、水害を防ぐということを併せながら新田開発が行なわれて来たと思われます。千谷沢の「小僧新田」合併で越路町分になりました「上新田」「下新田」、子の年に造られた「子の新田」、戊年に造られた「戊新田」とか、また西谷では「西谷新田」、あるいは「午の新田」「原新田」、東谷へ来まして「宮内新田」、岩田の「安左衛門新田」とか、また、沢下条へ行きまして「沢新田」、朝日では「四人新田」、来迎寺へ来まして「北新田」、昔道平村の「宮川新田」「北新田」、旧中沢村の「中沢新田」というような沢山な新田が開かれております。
 これ等は、大部分が水田となり、毎年豊かな実りの秋を迎えておりますが、元をただせば渋海川の恵みによってもたらされだものであります。今、米の生産は曲り角に来ておりますが、渋海川の水のおかげで「越路の米はおいしいんだ」「川の流れは信濃と渋海、中の越路は米どころ」という歌の文句もありますが、これも下流の人々のくらしの一面を端的に表現している名文句だと思っております。
 以上で私の発表を終わります。お粗末でした。

(ふかいよしはる・越路町・県民俗学会員)

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