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みみずくのたわごと | へんなか

みみずくのたわごとhennaka

へんなか 芸術村通信 「みみずくのたわごと」

みみずくのたわごと                西山 三郎

 先日、久し振りに若林一郎さんから手紙が届き、「瞽女唄の旅でみた夢」を「若衆宿のすすめ」が同封してありました。彼とは数ケ月会ってないが、相変らず一郎さんらしいなと思って読ませてもらいました。唯、若干気になったのは芸術村をつくるときもそうだったが、意外に一郎さんは〈楽天的なるがゆえに〉小国町の若者の実体を掴んでいないのではないかと思うのです。私たちの芸術村の村民が増えないのは、村に生活の根をすえたら、現在のところ生活が成り立たないからです。私にしてから、出版社、劇団、マスコミの大部分は東京にあるため、忙しくなると、東京に居ついてしまうのです。これは若林さんも同じだと思うのです。そして、東京は文化の面でも情報の多いところですし、都市文化と村の文化を単純に対立的に比較するのはどうでしょうか。私は高橋さんが御心配なさるように「芸術村を見捨て」たりする気はさらさらありません。仕事を変えないかぎりなかなか定住は出来ないけれど、せめて遊牧民なりに芸術村での生活を多くしたいと思っております。そして、瞽女唄を本当に育てようと一郎さんが考えていらっしゃるのなら、あれこそかっての村の文化の一つであったわけですから、村の暮らしを竹下さんが追求されるなかで考えをみがき、新しい村の文化を考えるべきではないでしょうか。今のままでは東京発の公演と言うことになりますまいか。長唄とか、新内は町の文化ですから、村に暮らしていては芸の修業が出来ないと思いますが。私は暮らしを抜きに村の文化を論ずるわけにはいかないと思っております。また「面白がる」だけでも、継続的な文化運動になっていかないとも考えております。今、村の文化が弱まっているのは何故なのか、若者達が何故都会にいくのか、其処のところを堀り下げて話し合いしたいものです。私たち芸術村が抱えている問題と同根の部分があるような気がします。

 先日、友人の高田唐吉さんから電話があり、いろいろ話し合ったが、文化庁の柳橋氏が相談にのってくれて、息子さんが伝統工芸の人に弟子入りしたようだ。その息子さんに、師匠がこれを読めと渡したのが高柳町の小林康生さんの大賞受賞の論文だったと云う。私は毎日新聞の発表で知ったのだが、高田さんは読んでその生き方に感動したと云っていた。いまや、小国紙のメッカと云われた山野田には一軒の紙漉き場もない。唯、私が希望をもつのは中村英一さんが頑固に改良紙を漉き、片桐三郎さんが組合長になって、和紙生産組合を作り、研究熱心に取り組んでいる事だ。
 毎日新聞の簡単な紹介記事だけみても、小林さんは苦労の末、現代の要求に応える和紙づくりと、生業化に成功している。和紙生産組合も同じ新しい和紙づくりを目指しているようだ。両者に共通しているのは、楮畑作りを基本にして、手漉き紙の純粋さを守りながら、かっての障子紙、帳面といった用途以外の要求に合う紙を創り出そうとしている事だ。
 考え方が前向きなのが良い。
 兎角、過去の業績をうんぬんばかりしていても仕方がない。だれが小国紙を守り、発展させようとしているかが問題なのだ。そう云う点では、小国の紙漉きも、紙づくりに夢と生活をかけて技術を磨く人たちの時代に入ったのだと思う。私はこう云う人達や、新しくきり絵のサークルをつくった人達が芸術村の同人になったとき、芸術村と村の文化は一致すると考えている。こんどの「へんなか」の表紙とカットは「村の文化」の担い手の初仕事として楽しみにしている。

 芸術村と云うたびに、何だか少しぞくぞくとする。私の知っている優れた人程、「私はアルチザン―職人―だ」と云う。どうもうまい名前が見当らないので順応して来たが、芸術村の住民も私と岡村氏だけになったので、この機会に第一次芸術村を改組したいと思っている。自然と子供を愛する村づくりをすると云った以上、或る程度村のある山野田で暮らす村民が居ないと初心を貫徹した事にならない。優れたものが出来るかどうかは別として、ものを創る村と云う事で創造とした方が良いように思える。

(にしやまさぶろう・切絵作家、一九三〇年生れ小国芸術村々長)

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