本文へスキップ

昨日のことのように | へんなか

昨日のことのようにhennaka

へんなか 随筆 「昨日のことのように」

昨日のことのように                  佐藤 達男

 大正14年生れの私どもは、まるっきり赤ん坊のまま、大正から昭和への代変りに遭遇し、昭和の年代と自分の年令をおなじくして生きてきた。
 私どもの子供時代は、昭和初期の「軍国の子」であった。裏の墓地で戦争ごっこに明け暮れていたこともあったが、子供の遊びは、時代相で御し切れるものではない。還暦をとうに過ぎた私の脳裏に残っているのは、野山をかけまわっている筒袖の着物姿の田舎の子の自分と、周囲の自然の匂いとである。
 春―桜、と連想するのは関東の人で、私どもの春は、しみわたりではじまる。時をおなじくしての学芸会。学芸会は、当日よりも毎日放課後自分でない人を演ずる(時には動物になったり)練習の方が、心をかきたてた。
 四月の新学期になると春本番。学校がひけると、友と呼びあって、山の崖っぷちで、ふきのとう、かたこの花をとったり、夕暮れに、まんさくの小枝を持ち帰って、祖母に「初もんだのぉ、よした、よした」とほめられた。
 春は山から、そして土のかおりである。
 夏休みは、なんと言っても渋海川の水泳ぎ。集落ごとにきまった渕を確保して、よそ村の子がそこへ泳ぎにこようものなら、石を投げて追っ払った。まあ、ぶつからないように加減してだけれども。それが川を挾んで上栗と武石の石合戦に発展して、だいたい武石の方が強かったが、郵便局のオッチャンが空気銃を買ってもらってから、武石側の旗色が悪くなった。
 押切の少年団は、だんな様のイチョウの木の下に土俵を作らせてもらって、昼食後、ひとしきり相撲で汗と泥にまみれて、その体のまま、渋海川の渕べ泳ぎにいく。そんな日が続いた。
 お盆も遊びくらして、夏休み帳が全然できていないのに気がつくのは、毎年の例で、お盆過ぎの夜、子供は半泣きで、親たちにうちわで蚊を追ってもらいながら宿題に取り組んでいたのが、どこの家でもの光景であった。
 祖母や母が、二週間ぐらいの毎日の天気をはっきり覚えているのに助けられたなあ。
 秋は、あっちこっちの山に子供たちの呼びかわす声が響いていた。着物に木のとげや、草の実をくっつけて、手足にひっかき傷をつくり、雑木林をこぎわけて、アケビ、コクワをはじめ何種類の木の実、草の実を食べたことか。その木や草の名は知らぬ。
 紅葉の間を通る夕陽の光は、後年見たステンドグラスよりもきれいだったと思う。
 稲刈りは、文字どおり一家総出の取り入れで、田んぼからハザ場まで稲束を背負いあげる仕事はかなりきつかったけれども、小学校一年生でも、いやだとは思わなかったのでないか。
 稲刈りが終ると、みぞれが降って、みぞれの合い間に川原の小川てドジョウをとったのは、えびす様の日だった。
 年夜や元旦の夜は、紅白歌合戦などまるっきりなかったのに、家中、夜更けまでなごやかでにぎやかだった。
 冬は、スキーに乗った思いより藁細工の方が楽しかった。藁を持って、誰かの家へ集まり、年寄りに教わって、すべなわにはじまり、ぞうり、わらじ、スッベ(藁長靴)までいけば上の口。年寄りの昔語りと、三時にふかしいもを振舞われるのが嬉しかった。
 集落で、ひとり「少年倶楽部」を買ってもらっている友があって、新本が届くとみんなでワッとそこの家へ集って、コタツに足を突っ込んで、頬杖ついて、読んでもらった。みんなの目が輝く午後の半日である。「怪傑黒頭巾危うし」来月はどうなるのだろう。
 数えてみれば、五、六十年も前のことなのに、まるで昨日のことのように思われる。

(さとうたつお・「おぐに荘」園長、町内押切出身、大正14年生れ)

→ 『へんなか 第五号 特集:子どもの遊び・わらべ唄』目次のページへ

 

◆お読みになりたい方は、お近くの図書館でお読みになることができます。