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三十六俵飛燕の如く | へんなか

三十六俵飛燕の如くhennaka

へんなか 特別寄稿 「三十六俵飛燕の如く」

三十六俵飛燕の如く―名人芸両国梶之助―         富沢 敏一

初めに

 徳川末期から明治にかけて名力士を数えるとすれば幾人めかにはきっと関脇両国梶之助に指を屈しなければならない。いや現代までと訂正した方がより適切かも知れない。これは決して私だけの偏見ではないはずで衆目の見るところであろう。力士時代の、華麗ともいえる変幻万化の取り口や生活奇行振りは半ば伝説化した形で受けつがれているが、それほど他に類をみない不世出の異能力士であった証左である。
 五尺二寸七分(一五八センチ)、二十三貫(八六キロ)の小兵力士が当時の三横綱の内不知火光右衛門はとにかく、陣幕久五郎、鬼面山谷五郎と、対等に戦い得たというからその健闘は奇跡に近いものがあった。いまも好角家の口の端にのぼるのは、両国が慶応四年前頭筆頭のとき、西大関鬼面山との取組で呼吸が合わず、現在のように制限時間がなかったので実に仕切り直し六十回に及び、二時間以上も費やしたという大勝負のことである。立会いは相撲の醍醐味といわれるほどで、故意に延々久しくしたわけではない、小柄なるが故にとくに立会いに細心の注意を払った結果に違いない。
 放胆と繊細、そして奔放不羈、両国梶之助の、この異質の同居は果たして小国の風土が醸し出したものだろうか。大体刻苦勉励の地道の努力のつみ重ねこそ、小国の人物像の典型ではなかったか。曹洞宗永平寺第六十三世管長滝谷琢宗禅師、元近衛師団長飯田貞固中将など、まさに小国の大地に催芽した大輪の花だからである。
 少し迂回したが、両国の相撲人生の軌跡を追ってその非凡性を探ることにしょう。

相撲へのあこがれ

 両国梶之助は天保元年(一八三〇)十月十日、いまの新潟県刈羽郡小国町小栗山に生まれた、岩野半四郎の三男で名を玉吉といった。
 昔から越後の出稼ぎといえば有名であるが、それは丈余の雪に埋もれる冬の季節の長いのと、農地の経営規模の僅少さが原因であろう。決して歓迎すべきことではないが、仕方のない生活様式なのである。
 両国もその例に洩れず十四歳の頃、下野国(栃木県)の栃木町に出稼ぎにいき、酒や醤油を造る家に奉公した。酒造り特有の荒仕事、とりわけ桶類を肩に乗せて運搬する作業によって足腰が自然のうちに鍛えられたことが後年大いに幸いした。
 これは近世の名横綱双葉山が大分県の生家で漁船の櫂をあやつったことが、かの強靱な二枚腰がつくられる理由となったのと同じである。奉公人同士でたわむれる棒押しの力戯では誰にも負けなかったという。
 この頃からしきりに力士にあこがれ、栃木町の大平神社に「一人前の力士になれたら一生金銭は身につけない」と願掛けして発奮、嘉永二年(一八四九)三月、二十歳で丸山という従兄を頼って上京した。がすぐに相撲取りの社会へとはいかず、とりあえず男谷下総守の武家下男となり、翌年幕末の兵学者として有名な佐久間象山の塾に住居を移した。塾生ではなかったらしいが、純然たる下男奉公でもない、いわば内弟子であって雑用もやる存在のようであった。
 佐久間象山との出会いが両国の運命を変えたといわれるが、ここで劇的な影響力を与えた象山について記して置きたい。
 兵学者。信州(長野県)松代藩士。名は啓、象山は号。佐藤一斎に朱子学を学び、江戸神田に象山書院を興す。蘭学、砲術に通じ、開国論を唱えたが、壌夷派のために暗殺された。門人には勝海舟や二虎といわれた松陰吉田寅次郎、病翁小林虎三郎らがいる。
 大学者象山に逢えたことは両国の人生にとってどんなに幸せの事だったろう、象山を知ったときに両国の末来に輝かしい光芒に満ちた道が豁然と開けたのだから―。
 学問も好きで励んだが、やはりその強力が塾生の驚嘆するところとなり、やがて象山の耳に入った。象山は軽量ながら、その衆にすぐれた力技を惜しみ、奔走した結果、両国は待望の相撲界に足を踏み入れて、年寄白玉音五郎の門をくぐったである。嘉永三年(一八五〇)二十一歳のときだった。

角界の魔術師

 始め力士名玉柳玉吉といったが、安政三年一月梅ヶ枝玉吉と改め、東序ノロ四枚目の頃、白玉が急死したので、七代目伊勢ノ梅五太夫の部屋に預けられた。梅ヶ枝が天下の両国梶之助にのしあがる遠因は実はここで作られたのであった。
 伊勢ノ海五太夫は、両国と同じ刈羽郡小国町の上岩田出身で四股名を柏戸宗五郎といい、天保十二年(一八四一)挾有の里の名で入幕して活躍、前頭筆頭までのぼり、弘化四年十一月引退した。幕内在位七年はかなり立派だと思うが、七代目伊勢ノ海の年寄を継いでから真価が発揮されたのである。
 それは相撲会所の筆脇(いまでいう相撲協会理事長代理)としてすばらしい興行的政治的手腕を高く評価された。物情騒然たる幕末の相撲界を隆昌にみちびいた功績は大きい。
このような名門に預けられ、特に郷土の後輩としてきびしい指導を受けたことが両国の力技と人格形成の上に確実に作用したのであった。
 安政四年(一八五七)三段目、安政六年一月幕下、そしていよいよ関取と呼ばれる西十両八枚目に昇進した、万延元年(一八六〇)一月三十一歳である。上り坂の一騎はその面目を充分に発揮した。文久二年二月に力量抜群の力士に贈られる両国の名を襲名し、梶之助と命名された。名付親は師匠の伊勢ノ海五太夫であることはいうまでもない。これ以後両国梶之助の四股名(しこな)は手取の業師が受け継ぐ習慣が出来上がったという。両国をもって嚆矢としたのである。
 次の場所十両筆頭に進み、その技は更に磨きがかかり、四十八手の表裏に通暁し、なおどっこい芝■(手偏に國)つまとりたすきぞりの三手は両国の得意技として冴えを見せ、相手を畏怖させた。
 以来元治元年十一月までの二年四場所の間であるが、同じ十両筆頭に据え置かれた。それは当時両国のような小兵は、幕内になれないという内規があって、不遇にあまんじていた。元治二年(一八六五)二月相撲会所の筆脇の師匠の尽力によって、ようやく西幕尻にのぼり大豪鬼面山以下六人を薙ぎ倒した。つづく慶応元年(一八六五)十一月には、鬼面山を預り、陣幕久五郎と引き分けたほかは、全勝の輝かしい記録を飾った。その時の陣幕(当時関脇)との取組は、両国の最も得意とする飛び込んで相手の腋に首を入れ後に反るたすきぞりだったが、それが七回はずれ、その度に股をくぐって八回目につかまえたところ、観衆が騒めきだして相撲が出来ず、ついに引分けた。そのときの裁きが陣幕は天下一の強豪、両国は天下一の手取りということであった、と口伝されている。まことに情のある軍配であり、国技の妙味というものかも知れない。
 慶応四年五月、軽捷両国は前頭の筆頭の折、越後長岡藩牧野侯の最初にして最後のお抱え力士となった。司馬遼太郎は『峠』のなかで、藩主忠訓が長岡へ帰国するため、江戸藩邸が空になるので、両国とその弟子達に河井継之助が留守居をさせたくだりがある。慶応二年というからあるいはお抱え力士になったのはこの年が正しいのであろうか。
 明治元年冬場所西前頭の筆頭で、九日間を五勝三敗一預りであったが、翌二年春は勝ち越していながら、番付編成の関係で二枚目に落とされた。この年三月、政治家後藤象二郎邸の祝賀相撲に招かれ、象ケ鼻、不知火、相生の三人を連破して、居合わせた四国の土佐二十四万石の領主山内容堂侯の眼にとまり、長岡藩より土佐藩へお抱え力士として移された。お抱え力士としての出世ということであろう。
 明治三年春には小結にあげられ、待望の三役の座についた。四十一歳のときである。これをめで、土佐藩会計司から終身二人扶持下付の光栄に浴した。因に一人扶持とは年間玄米四俵二斗の計算でキロに直すと二七〇キロである。そしてこの年の冬場所には、五勝二敗一分一預りの成績だった。小兵力士両国の飛燕のごとき土俵は、まさに技能派の面目躍如である。
 四年三月東関脇に昇進、この全盛期に歴史的な大相撲が、語り草になっている唐(中国)の黒ん坊との勝負があった。唐の黒ん坊とは少しおかしいが、唐人という意味であろう。
 この唐人はよほど豪の者であったらしく、大阪、江戸の角力取が総嘗めを喰い、国技まさに地に堕ちたと見えた。その折、何かの都合で下野(栃木)にいた両国に白羽の矢が立ち、急拠江戸へのぼった。そして後年両国の奇手で禁じられていたものを許すことを条件に試合にのぞみ、相手の足の親指をもって倒すつまとりや股をくぐり睾丸を握りつぶすどっこい芝■(手偏に國)の必殺の妙技を縦横に発揮して、ついに唐人を土俵の砂に投げ殺した。その後難を怖れて機敏に駕篭で行方をくらまし、後始末がつくまで恬然と日夜ばくちにふけって居たとのことである。
 到底越後人とは思われない大胆豪放、勝負の鬼みたいな存在だったに違いない。
 生家に沢山保存されている相撲錦絵の一枚に「両国亀清楼酒盛の図」があり大綱、崔ケ獄、生の松、境野、雲崔、大見寄の大関取と共に土佐侯より拝領と思われる鷹の羽紋の羽織で酒盛をとっている両国梶之助の意気軒昂たる雄姿があるが全盛時代の一齣(コマ)であろう。唐人ならずとも、両国の得意三手には手を焼いたらしく、横綱不知火光右衛門はつまとりを防ぐべく、秘かに足の親指に鬢付油をつけ勝負にのぞんだ。両国の手が不知火の足の親指にかかり、すべり泳ぐところを突き落とされたこともあった。不知火は両国対策に研究熱心だった。従って両国をこなすこと絶妙で六回顔をあわせて五回勝ち、ただ一回慶応三年冬ころがされたという。
 なおもう一人の横綱陣幕久五郎であるが、不知火には十三勝二分という絶対優勢な星であった。幕内本番所数が十九あったが、勝は八十七、敗が五、他に休み、引分け、預り等を数えて勝率九四・六%の驚異的の数字である。「負けずや」といわれただけあってすごい成績だ。
 陣幕の前に谷風、後には初代梅ケ谷の二力士には勝率で僅かに及ばなかったが、相撲界に永遠に輝く大剛なのである。
 この陣幕でさえ、技能派両国ばかりはもてあました。三度取組があってすべて引きわけに終わり、勝つことが出来なかつた。この点不知火とは全く逆であったから相撲はおもしろい。
 明治五年十一月、西関脇を最後に翌六年四月引退したが、その時四十四歳だったから力士としての生命は非常に長かった。両国が十両に昇進してから、引退までの約十三年間の関取期間成績は、勝星百八、負六十六で、引分十五、預り十一を、半星とすれば勝率六割強になるから立派なものであった。
 引退後は年寄伊勢ケ浜勘太夫となり、年寄事務や数回中改め(検査役)などで活躍して、明治三十七年(一九〇四)一月二十八日東京本所の銭湯で入浴中に心臓麻痺で死去した。八十五年前の出来事である。
 越後のいわば貧農から身を起し、多彩を極めた生涯はかくして閉じられたのであった。
 七十五歳だから相撲社会の人間としては、比較的長寿の方であろう。法名は景勝院隼挙越山居士で、浅草徳寿院に葬られたと聞く―。

結び

 やぐら太鼓にふと眼を醒し
 明日はどの手で投げてやろ―相撲甚句―
 スピード感に溢れた相撲といえば近代相撲の特徴とされるが、両国梶之助の相撲はまさしくスピードそのもので、敏捷の上に精悍更に四十八手の表裏に通じていた。円形の土俵で動き得る最大の可能性を探ったとみられるから、この意味では近代相撲の萌芽は両国を出発点にしているかも知れない。
 小兵力士は、往々にして小技を得意とするが、両国は俊敏大技で観衆を魅了したのだから天与の才能に努力が加わった賜であろう。
 いとも簡単に努力が加わったと表現したが、本当は理解不足というべきで他の追従を許さない程の血の滲む稽古研さんを積み重ねた末に掌中にした栄冠と認識すべきなのである。
 これは鈍根とも思える越後人の、いや小国の雑草のような根性があってこそ始めて成し遂げられたことなのかも知れない。
 五尺二寸七分(一五八センチ)の両国と、六尺八寸六分(二〇六センチ)といわれた白真弓の対戦などは、対照の妙を味わうだけでも興味は尽きない。
 現在の栃木市大平神社に「一人前の力士になれたら一生金銭は身につけない」と愉快な願掛けをした通り、忠実にこれを守った。金が入れば、料亭で振舞い、博打に散じ、弟子に配った。特に好きな博打には一度に千両を張るような突飛な行動も手伝ってあっぱれ天下の男振りだったようだ。
 助骨の一本足りないといわれる実直な越後人には、全く異質の、豪放磊落さがある。大望成就のとき大平神社に化粧廻しを奉納したそうであるが、果して現存するかどうかは詳かでない。
 このような金銭を捨てる如く散財したが、ただ明治六年引退の年に梁間(はりま)四間一尺(七五〇センチ)という、当時の五十両を投じて、刈羽郡小国町小栗山の生家を新築した。それが百十余年を経過した現在立派に重厚なおもかげを伝えている。以前は小さい家だったらしいが、両国がときおり数十人の弟子を連れて来て泊まるには狭すぎるので、いわゆる必要にせまられて建てたのだと聞く―。
 外に元治元年二月十両筆頭で旭日昇天の勢いの折、建立した生家の先祖累代墓がある。私も具さに拝見の機会を得たが、台座には先祖累台塔の書体を凌駕する位の大きさで両国梶之助と彫られてあり、両国の一途の昇竜振りが感じられる。
 さきに書いたおびただしい相撲の錦絵のほかに生家には、弓や軍配、相撲年鑑みたいなものに掲載されたと思われる両国画像、そして愛用の銀の大煙管(おおきせる)などが丁重に保存されており、煙管には糸瓜が彫られてある。煙草入れは生家の先々代が賭事か何かで手放すことを余儀なくされ、小国町太郎丸某が所持しているというが真偽のほどはわからない。
 刈羽郡小国町太郎丸の曹洞宗真福寺の山門に鎮座する木食上人作の阿吽の仁王尊に対する帰依尊崇が深く、関脇昇進のとき自ら揮毫した『両国』の二字の篇額を山門に尊信奉納した。大正末年まで残っていたのを、ある秋の台風でとばされ、それっきり紛失したとか。また土佐藩主山内侯より拝領と伝承された太刀一振も、戦時中に献納した由で今はない。
 かなりの駈足で両国の生涯を書き綴って来たが、最後につけ加えたいのは、両国梶之助の出生地が小栗山の集落名なので、闘牛の古志郡二十村郷の小栗山といわれたり、栃木市に出稼ぎしたことが下野(栃木県)国の生まれと書かれたりした文献を散見するが、かかる誤謬は今後起こらないことをひたすら願うものである。

 附記、この一文は昭和三十五年、両国の生家の当主岩野彰敞(あきひろ)さん(現在太郎丸住)に大変お世話になったり、法坂若井さんの研究も一助にしたりした上で、自ら調査見解を入れて週刊「柏崎春秋」に発表したものである。

 

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