本文へスキップ

オピニオン・リーダーとしての青年会 | へんなか

オピニオン・リーダーとしての青年会hennaka

へんなか 随筆 「オピニオン・リーダーとしての青年会」

オピニオン・リーダーとしての青年会          高橋 実

 青年団シンポジウムを開催し、当時の青年会活動の活動を聞き、資料を読ませてもらう機会を持ち、戦後の青年会活動に、大きな感動と羨望を禁じえなかった。明治維新が若い下級武士の手によってなしとげられたように、戦後の農村は、青年会をオピニオン・リーダーとして動かされていたのではなかろうか。
 私は、昭和15年の生れで、22年に当時の結城野小へ入学し、28年に卒業した。そのころ楢沢では、小学校3年になると児童会に入会し、毎週土曜日(?)にクラブにあつまって、小・中一緒になって、ゲームをやったり、朗読会をやったりしていた。その児童会の指導者が青年会の人たちであった。大きな、木の本箱に入ってまわってくる巡回文庫を、借りたおぼえもある。今にして思えば、あのころが青年会の全盛時代であったのだ。その後、私は15才から25才のいわゆる青年会年齢を、この地に居住せず、その青年会活動を体験することができなかった。
 青年会は、総務部、文化部、産業部、厚生部、体育部などにわかれ、会報の発行、文芸誌の発行、巡回文庫、弁論大会、体育大会、講演会、農事講習会、衛生講話、健康診断、山道の改修工事、映画会、演芸会など、その活動も多方面にわたり、実に精力的であった。役場の行政サービスとは別の、もう一つの行政機関ともよんでよいほどである。年齢は、高等科卒業から25才までとされていた。戦後は二、三男もまだ家にいる時代で、どこも若者であふれていた。毎晩のようにクラブに集まっては、意見をたたかわせていた。青年たちは一様に貧しく、春の山へ出かけて、薪を切って、その労役収入によって、会を運営していた。
 小国郷が小国町として誕生する7年も前の昭和24年に、青年たちは、村の境界を越えて小国郷連合会青年協議会を結成した。各集落や村にあった青年会のネットワークづくりにのり出している。
 また翌25年、当時中魚沼郡仙田村に属していた大貝の集落の青年会は、郡境を越えて、上小国村の青年会に加わって活動していた。その青年達の運動により、27年、仙田村大貝は、上小国村大貝に編入されることになった。
 それだけではない。従来集落の重立衆でたらいまわしされていた区長を、民主的な方法で選出することに成功している。戦後初の民選村長の選挙にあたって、青年会が立候補者の立会演説会を計画しているのである。
 青年会が、地域の行政をリードし、発展させていた時代といってもよいであろう。
 その青年会は、昭和30年代の高度経済成長期とともに、衰退に向かう。若者が、都会に移住するようになるからである。農業中心の基盤がこわれて、第二次産業が伸展する。さらに安保条約をめぐる国論の分裂が、青年会の中にも持ちこまれ、青年会が、政治闘争の波をまともにかぶることになる。
 農業を基盤として成立していた村の青年会は、昭和37年が実質的な終局の年といわれる。戦後の17年間彗星のように輝いたその活動は、消える時も早かった。あれから30年、社会は大きくかわり、小国町も、近隣市町村へ通勤する人たちを大幅にふやした。あの青年会の若者たちの爆発的なエネルギーは、いったいどこにいってしまったのか。若者が地域の中で見えなくなってしまった。企業の枠の中に、そのエネルギーを吸いとられてしまったというのだろうか。
 かつて青年会で活動していた人たちが、行政や集落のリーダーとなっている。そして、その子供たちが、あの青年会の年齢に達している。
 その社会の変化に応じて、青年のエネルギーを発揮される時期が、これから来るのだろうか。来るとしたら、それは、どういう時期に、どんな形となって現れてくるであろう。

(たかはしみのる・町内上岩田在住・昭和15年生れ)

→ 『へんなか 第七号 特集:戦後の青年団活動』目次のページへ

 

◆お読みになりたい方は、お近くの図書館でお読みになることができます。