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終戦直後の青年団活動 | へんなか

終戦直後の青年団活動hennaka

へんなか 基調講演 「終戦直後の青年団活動」

終戦直後の青年団活動               長谷川 武

   ―八十四才の老人と―
 私の家の後ろに畑がございまして、百姓として野菜畑を作っております。百姓の仕事というものは、やれば面白いものでございまして、ことに私の畑の隣に田中という84才の老人がございまして、2人でさかんに話をしながら畑作をやっております。彼は、機械を使わないでもっぱら手作業でやっております。
 仕事がつらくなりますと、2人でたばこを吸いながら、昔話をいたします。中心は、若い頃の話でございまして、彼は、大正12年に結城野小学校の高等科を卒業しております。大正12年といいますと、大震災の年でございますが、東京へ短期の出稼ぎにいったのだそうです。その時の月給は、15円だったといっておりました。そのころの15円といいますと、相当道楽ができましたでしょう。仕事は、料理屋の丁稚でして、できたものをお客へ運んだり、よそへ出前する仕事だったそうです。

   ―当時の青年団―
 当時の青年というのは、農家の大切な労働力でありまして、2・3男といえば、夏は農家の百姓仕事、冬季は、東京あたりへ出て、菓子屋、料理屋へ勤めたり、寄せ物屋、かまぼこやへ勤めたりして、何がしかの金を稼いで、春になると帰ってくるわけです。残雪のころ帰ってきますが、その金の大半は親父へ差し出して、自分では、わずかのしっけい銭(小遣い)をふところに入れて、一夏また青年団活動をやるわけであります。
 今ごろになると、着物を着て、下駄をはいて、村中の夜遊びだけではもの足りなくて、法末、相野原、小栗山あたりまで出かけて盆踊りに参加するのであります。普段は、ぞうり、はだしでありまして、下駄は、盆踊りしかはかないという調子でありました。
 大正末期から昭和初期にかけて、2・3男は、家の主要な労働力でしたが、諏訪井では、70〜80人いたのではないかと思われます。
 私は今75才でありますので、彼は84才、いくらも違わないのですが、彼が青年団の年長であれば、私は年少の下っ端でありまして、使い走りをするのでございますが、話は、ほとんど共通するのであります。

   ―昭和初期の上小国青年団―
 昭和初期には、上小国青年団は、昨年なくなられました佐藤勝栄さんなどが団長を務め、楢沢の高橋伴蔵さん、岩田の大久保重俊さんなどが団長をやられました。その下に各支部がございまして、それぞれ、支部長、体育部、文化部があります。上小国青年団には団旗があり、支部旗があり、本団と支部が連携して弁論大会などをやりました。弁論大会などは、大へんなもので、ヤジがものすごい、人の論旨などは、そっちのけで、もっぱら攻撃するほうが余計の状態でした。運動会がまたすごいもので、当時、太郎丸のグラウンドができておりまして、そこへ各字対抗の運動会がくりひろげられるわけです。勝敗を争って半ばけんか腰になり、審判になったものは、大へんでございました。私は昭和14年、結城野校へまいりまして、学校時代競技部にいたものですから、スターターか、決勝審判のいずれかをやらされました。順位をきめると、わっと集まってきて、「私らが先だ」と抗議されて、審判無視の争いを展開するのであります。「そんげのこというていると、晩方になるまで順位をきめらんねすけ、俺のいう通りさっしゃい」というと、そこがまたおもしろいものでありまして、それであっさり引きあげます。

   ―青年団主催の盆踊り―
 戦前の青年団の人数といいますと、太郎丸あたりで百人近い人員を擁していたのでありませんか。ですから盆踊りというと大へんでございます。諏訪井は、18日夜歓迎会というのがございまして、退会する人を送り、新しく入る人を迎えて、飲んだ勢いで、森光のヨール(踊り)に出かけます。森光の人たちは、諏訪井が来るというと、戦々競々としているわけであります。なんせ酒いっぱい飲んでいって、正調な踊りをやらんわけでありますから、人の足を下駄で蹴ってみたり、反対を回ってみたり、そしてワーワーと奇声をあげ、警戒の人が注意してもきかない。そういう盆踊りによせるエネルギーは、今から考えると野蛮きわまるものでありましたが、あれはあれでよかった、あの情熱は大したものだったとひそかに思っております。84歳の老人と話を始めると、仕事そっちのけで話し続けるわけです。日が西に傾くと、「帰っていっぱいやろうぜ」といいつつ、何も仕事しないで別れるという状態であります。
 戦前の青年団員は、家の経済的な基盤を担い、大事な労働力だったわけでありまして、大勢の人たちが、ありあまる情熱のやり場がないので、けんかやおどりでエネルギーを発散していたわけであります。夜の遊びが、彼らの大事な仕事であります。この世代の背景には、日本の軍国主義の高まりということがあったのだと思います。

   ―世代の交代―
 家庭、青年団、農村が世代を構成しています。世代というのは、あちらさまの言葉ですが、およそ30年をもって一世代というようであります。この世代が非常に短くなってきました。大学生がゲバ棒をもってあばれる、中学生があばれる、まだ小学校まではいかないようですが、この世代交代の早さは、何を物語るのでありましょう。世代というと、縄文、弥生、古墳、大和、奈良、平安、鎌倉となりますが、縄文は、8千年が一世代、弥生時代は5百年、均質の時代です。発展もなければ、進歩もない。縄文時代、山野の実をとり、狩りをしたりして、均質のまま8千年も続くわけです。奈良時代は70年、鎌倉は140年、均質ではあるけれど、その中に世代交代があるわけです。

   ―長岡空襲と終戦―
 昭和20年8月1日、ラジオを聞いておりますというと、B29の編隊が、御前崎上空を通って富山湾に向かうという情報がはいりました。「きたな」と思っていると、富山市を爆撃し、一隊は長岡を目指してやってまいりました。長岡方面を見ますというと、花火なんてものではありません。ものすごい爆音とともに、真っ赤に空がやけて、閃光が交叉し、焼夷弾の爆発する光が見えるわけです。とびおきて結城野校までかけ足でゆくと、校長も住宅から出てきて、2人でことばも忘れて眺めていました。折から結城野校には、郷土防衛隊というのが組織されており、七日町の細井曹長という人が隊長となり、40才前後の軍隊経験のない老兵が合宿しておりました。校庭では、新聞が読めるくらいの明るさでした。どうにもならない、まさかこんな時に爆撃を受けるとは思っていない状態です。校長と2人で「どうしようもねえのう」と溜息まじりのことばを交わしていました。そのころは、郷土に残っている老若男女、入隊前の青年学校の諸君にも絶望感というものが色濃くありまして、どうしようもないものがありました。
 8月15日、諏訪井の私の班の人たちは、松の根っ子掘りを[圏点]まとうぜん]という山の中に入ってやっておりました。ガソリンがないわけですから、松の根から油をとり、それを飛行機の燃料にしようというわけです。松の根から油をとり、それを飛行機の燃料にしなければならないと思うときに、掘っている人たちは、「どうしようもねえのう」「そうらてのう」なんていっていました。その日も家へお昼あがりをしたわけです。お昼をたべたあと疲れて昼寝をしていますと、隣のおやじがやってきて、「先生、起きてくんねか」というのです。「何だての」「負けたげらて」「えっ」と隣へとんでいって、親爺とラジオを聞いてみると、なくなられた昭和天皇が悲痛な声で、終戦の詔勅をお読みになっておられるわけです。「さあ、こらぁまけた」とみんなして「わあ」というのですがどうにもなりません。班長は班員を集めて、折から配給になった焼酎があるから、にしんで一杯飲もうというわけでいろいろ話しました。負けたことは事実のようですし、中には負けたことを認めないという人もいましたが、そんなふうにして終戦を迎えたわけです。
 すでに、広島、長崎には原爆が落ち、ソ連が参戦し、どうにもこうにもならない状態にあったわけですが、原子爆弾として、国民に知らせられない状態でした。
 その後学校へ子供たちを集めて、校長が終戦の詔勅の写しを読んで負けたことを告げました。子供たちも職員も茫然としていました。その後、職員を集め、教科書に墨を塗る作業がありました。教科書の中の、日本が侵略したとか、大東亜戦争とかいったことは、全部子供たちに墨を塗らせて消させます。昨日まで使っていた木剣とか、銃剣術の道具とか、鉄砲を校庭に持ち出しました。侵略してとったところが色が塗られている地図を持ち出して、火をつけました。敗れたということは、悲しいことですね。昨日まで絶対であった天皇が偶像が地に落ちるように、天皇をとりまく政治体制は、どうにもならない状態におちいってしまうわけです。これが昭和20年後半のまことに混沌とした状態でありました。

   ―初代 上小国青年団長―
 昭和21年、どうしたことか、大橋(儀郎)教頭が会合にいって帰ってきて、「おお、長谷川君、おめえさんが青年会の委員長てがらぜ」と突然私をとらまえてそう申します。私が「どういうことですか」と聞きますと、「こんど新しく、青年会を作らんけやならんというので、各字から代表が出て話し合いをしたら『長谷川さんから委員長になってもらんけやならん』ということになったげら」というのです。私が「だめだ、できない」ということも言えないうちにさせられてしまったというわけです。私もそのころ、軍国主義の残滓をいっぱい身につけていて、民主主義の民の字も、実践できなければ、考えの中にもない。いろいろな本を読んでも、さて民主主義とは何かといったって、わかるものでありません。
 そういう混乱の時代にあって、青年団の委員長をひきうける私は、まことに切なかったんでありますけれども、今更どうすることもできません。各集落の代表から集まっていただいて、どうすればよいかと相談しますと、まず会則を作ろうではないかということになったわけです。会則の原案を作って提出しましたが、あんまり評判がようございませんでした。
 当時は、男子青年団と女子青年団が分かれており、女子青年団は、楢沢の関ロチヨさん、森光の田中イクヨさんあたりが役場に勤めておられて主体になってやられたようであります。会則をつくり、その審議の過程でも、そろそろ左翼系統の風が吹きまくっておりまして、あのころは、それが近代化、進歩的と思って、みんなとっつきました。私も委員長のころは、ある集落へよばれまして、「私たちは、共産主義がもっとも現代の日本にふさわしいと思っているが、委員長いかに」と聞かれました。これに反対でもしようものなら、頭の三つもしゃつけられるぐらいの勢いでしたが、「私は共産主義が嫌いだ。ソ連は日本の軍隊をシベリアに抑留させて、国際法に違反しながら、なぜ返さぬ。共産主義というものはそういうものか。だから嫌いだ」といってひきさがったおぼえもあります。復員される方も増えてきましたが、その中には急進的な思想をもっている人、穏便な思想をもっている人といろいろありました。食糧事情が逼迫しておりまして、一杯の飯を食べるにも米が不足するという時代でした。インフレがすすみ、新円に切り替えになりました。長谷川武の俸給が75円から2百円、3百円、たちまち5百円にまであがったわけです。物価が追いつかない。その当時、ドブロクというのがいっぱいありましたが、太郎丸の金瓢酒屋に一升5百円という酒がでました。ついこの間まで75円の俸給をもらっていたのが、一升5百円の酒にとびうかれるかどうか、習慣というものはおそろしいもので、やがてその酒を飲むようになりました。

   ―村長選挙立会演説会―
 当時、上小国村長というものは、村会議員が集まって合議制で話し合いできめられてきました。
 21年の春か秋か、初めて選挙で村長を選ぶことになりました。候補者が、上小国では、佐藤勝栄さん、小松正倫さん、中島正已さんの3人でした。先輩の意見を承って、青年団主催で、立会演説会をやらせてもらえませんか、所感発表でもなんでもよろしいですからと3人にたのみにいきました。3人の承諾を得て、結城野校で一回、増田校で一回やりました。集まりましたなあ、聴衆が。文字通り立錐の余地もないというほどでありました。ご3人の意見を聞き、質疑応答などもあって、いわゆる立会演説的なものは、大成功だったわけです。それが私の記憶に残る唯一の上小国青年会長の記憶でございます。あとはいっさい忘れました。

   ―青年学校―
 青年団活動で、戦前と戦後の境目に、青年学校というのがございました。結城野青年学校、増田青年学校、中里青年学校とありまして、義務制になっておりましたので、高等科を卒業するとすぐ青年学校にはいり、何年かあって、そこを終了したものが、軍隊にいったときに、2年間の兵役期間を一年半で済ませるという恩典もありました。厳しい査閲制度もありました。ですから、青年団活動は戦中は下火になって、もっぱら、青年学校の諸君が生徒として、いろいろ活動されていたようです。
 この会で話せということで、当時のことを法末の大橋儀郎先生に電話でききましたところ、「そうらのう、忘れたのう」といわれて、私を委員長に選んだ本人がお忘れになるのですから、選ばれた私も忘れるのは当然であります。すべて45年の忘却の彼方へおしやってしまったということです。
 私は24才で教員として結城野小へ赴任し、その時、富沢敏一さんが高等科一年でした。2年間富沢さんと教室をともにしたわけで、私の悪いことの一切は、この人にお聞きになって下さい。
 以上、まとまらない話になりましたが、おゆるしいただきたいと思います。

(はせがわたけし・町内諏訪井在住・大正4年生れ)

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