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七日町支部の活動 | へんなか

七日町支部の活動hennaka

へんなか 発表 「七日町支部の活動」

七日町支部の活動                   小林 清

   ―青年クラブ―
 私は、戦中戦後のはざまの中で、皆様と同じように、一家の働き手もなく、物資や食糧もなかった時代を体験してまいりました。
 その頃、各部落ごとに、青年クラブ、青年会館という建物がありました。その管理は、すべて青年会にまかされていたのです。テレビなど思いも及ぼぬ時代です。クラブは、農休日の若者の集いの場であり、情報交換の場所でありました。また、村人の集合の場であり、年一回の消防演習の後の料亭のかわりとなり、男衆の手造り料理で、宴会の場所にもなりました。
 私は、昭和20年8月20日に、ひそかに復員してまいりましたが、部落の中は、全く活気がありません。生活物資が何もかもないのです。まさに、戦い敗れて疲労困ぱい、大きな目標を失って、なすすべもないありさまでした。無理もありません。その数日前に、大長岡市が、一夜にして焦土と化した現実をまのあたりにしていたからでありました。

   ―村芝居―
 たとえ、国敗れたりといえども山河あり、この郷土の活性化のためには、われら若者が結集して、何かをやらねば、何かを果たさなければと考えたものであります。だれいうともなく、「先ず、村の中の気分転換からだ」ということになり、いろいろな話し合いがなされました。その中から「皆でやる村芝居などはどうだろうか」ということになり、それにとりくむことになりました。しかし、それからが大変でありました。何回となく、集会を重ねて、ようやく衆議を一括させたあと、村長さんへの許可申請もしなければなりません。
 そんなある日、だれかが、「おい、聞いた話だが、今米軍指令部の方から、MPが各町村を戸別に回って、電波探知機を使って、日本刀の有無を調査しだしたそうだ。どこに隠してもさぐりあてるし、いくら土の中に埋めてあっても、電探には、ちゃんと現われ、隠しておいたものは、速刻連行されてゆくという話だ」といいました。これをきいて、村中大さわぎになりました。どこの村でも、伝家の宝刀も鈍刀も全て、村の鍛冶屋さんにもちこまれて、竹細工用に加工され、小刀にかえられた時代です。そういう事ですから、芝居においても刀剣や脇差は、一切禁止となったのでした。時代劇や、股旅ものの踊りにも、合口を使用したり、鉄扇の動作でごまかしたりしました。女子部の踊りを多く取り入れ、寸劇や無言劇を加えたり、また長老の協力により奉納神楽の手ほどきを受けたりして、大変助かりました。日がたつにつれ、部落ぐるみの事業となり、どうやらプログラムもととのって、興業の二日前より、神社の境内に芝居小屋をたてるまでになりました。
 当日は、天候にも恵まれ、大入り満員となって、一日中たっぷり興業することになりました。大変な拍手や花代もいただき、大成功となりました。3・4ヵ月も前から準備にはいり、夜毎クラブに集合しては、打ち合せを行い、笛や太鼓、歌声にもようやく調子がついてきたのは、半月もたってからでありました。興業の日が近づくにつれて、熱も加わり、夜の更けるまで、ドンドンチャラチャラピイヒャラピイヒャラとやりまくりました。
 女子部の方々は、別の場所を見つけては、手まわしの蓄音機で、懸命にやってくれました。ようやく、その頃から部落内の雰囲気にも変化が見られました。明るい笑顔です。道で耳にする皆さんの笑い声でありました。会員同志も、思わず「やってよかったなあ」とことばをかわしながらも、 一層稽古に熱がはいったものでありました。
 そんなある夜、はるばる南方より友人がひとり、復員してきたのですが、だれも気づいていませんでした。彼は、4・5日家の中にとじこもっていたのでした。後日、彼がいうことには、「いやあ、あの時は、全く意外でした。ひきあげてくる途中の汽車の中からは、爆撃の跡も生々しいいくつかの都市を通過し、村の方はいったいどうなっているのかと不安をもちながら、夜更けをまって帰ってきたのに、クラブの照明は二階も下も燈々とともり、笛や、太鼓に、歌まできこえ、驚きとうれしさで、ほっとしました。ほんとうにありがとう」というのです。それをきいて、私もうれしかったものです。

   ―盆踊り―
 青年会のほとんどが女子部の人で占めていました。会費を集めるでもなく、村からの補助金もありません。村芝居で集まった花代もそれまで荒れ果てていた建物の修理費にしたり、電灯配線をメーター式にきりかえるのに使って、ほとんど使い切ってしまいました。
 その後は、何かをやらなくてはなりません。
 「おい、どこどこの話だが、コロ出し(薪運び)の口がある。20棚もあるが、〇〇円くらいならどうか」
 「かさがよいならやってみるか」
といった話にのって、労力を提供することにしました。材木店から、伐採された材木を道から出してもらうように頼まれて、その仕事をひきうけたりもしました。青年会の予算は、このように労役収入による独立採算制をたてまえにして運営されておりました。
 また、盆踊り時期ともなれば、近所の部落との踊りの日が重ならないように設定して、お互いに踊りに出かけました。当七日町で踊りがあれば、武石、千谷沢、上栗等、それぞれの青年会の名入りの提灯をもって踊りの輪に加わりました。時には、音頭をとったり、囃子を受けもったりもしました。また、自分の部落の会員がもめごとを起こすと、みんなで協力して、相手の部落に迷惑がかからぬように心配りがなされてありました。
 戦後まもなくして、にわかに郷内青年会の一体化した組織づくりが必要ではないかという話題が浮上してきました。私達も、千谷沢青年会と会合をもちました。私は、そのころより、職場の都合上会をぬけましたが、その後、私達の部落の長井哲夫さんなどによって、新たな青年会の活動期に入っていったと思います。
 町村合併が話題になっている頃に、連合青年団の結成がなされた様でありました。それぞれの集落より選出された方々により、各専門部がもうけられ、機関紙も発行されました。各支部とも争って活動されて、この頃が戦後青年団活動の全盛時代ではなかったでしょうか。

   ―おわりに―
 私の申しのべた時代と、現代とでは、あまりに大きく違い、今は、どこの家にあってもサラリーマンの家族、人数分の高級マイカーが必要とされる時代であります。このように恵まれた環境にあっても、難問が山積しております。若々しいエネルギーを結集して下さってわが小国町の発展に力をつくしていただきたいものと思います。

(こばやしきよし・町内七日町在住・大正12年生れ)

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