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中里青年団の結成 | へんなか

中里青年団の結成hennaka

へんなか 発表 「中里青年団の結成」

中里青年団の結成                   山崎 正治

   ―復員してみた青年団―
 戦後中里青年団が結成されたのは、昭和20年11月であります。続々と若者たちが復員するのですが、それらの人たちをひとつにまとめて、生きる目標を与えたいということで、先年なくなられました小川冷光先生が主唱されて自ら団長となって、青年団を結成されたとうけたまわっております。団の運営そのものは、ご自分でなさるということはなくて、副団長を決め、実質的には副団長以下の人たちがやっていたと思われます。その下に、6集落にそれぞれ支部が結成されていたのが、ほんとうの姿と思われます。私は20年9月24日に復員してまいりました。17才の12月に陸軍少年戦車兵学校というところにはいって、ほんとの軍国主義教育をうけたわけで、戦車隊にありましては、中堅下士官であって、意気揚々として帰ってきたのでありますが、負けているので話になりません。法坂支部が結成されてみますと、私は、当時20才でありましたけれども、21才から25・26才になるまでの錚々たる指導者の方々がいらっしゃいまして、私ごときは、全くのパイパイの走り使いでありました。どうして法坂支部が早く結成できたかというと、復員者の中に、軍隊にはいる前に、青年団を経験している人が多かったからであります。きっと、それでスムーズに活動が展開できたのでないかと思っております。

   ―当時の法坂支部―
 当時の法坂支部の活動をお話いたしますと『ニューライフ』という機関誌を発行しております。これを今見てみますと、なかなか多彩な活動をよくやったものだと思います。これは、当時の中里青年団法坂支部文化部が主宰して、自分たちで慣れない技術で、切れないガリバンでガリガリ切って発行していったものです。内容を見ますと、論評あり、随筆あり、俳句、短歌、小説、コント、一口メモなど、ほんとに盛りだくさんでありますが、機関誌としての性質上、当時の活動のようすが、よくわかります。支部の中では、社会部、衛生部、体育部、産業部、文化部、教養部、会計部というような部がありまして、それらがそれぞれ活動しておったようであります。それまでは、男女別々だったのですが、そのうちに女子青年部が加わりますと、家庭部というのが新しくできております。女子青年部が一緒になって、運営するようになったのは、昭和22年1月9日だと書いてあります。その活動のようすを見てみますと、まず産業部がありまして、作付促進運動の展開、農事懇談会、生産の実態調査、生産統計リスト作成というようなのが載っております。社会部では、道標の設置、おもしろいのは、電気料の集金というのがあります。これは、某かのマージンがあったものと思います。それから危険物箱の管理、次には全員の参加による山道改修促進運動の展開というのがあります。これは大したもので、法坂山道改修の発端となったようであります。体育部では、体位向上運動の展開、郡市連合運動会の予選、本団予選出場、とあり、特筆として全選手の大部分を法坂支部で占めると書いてあります。どこでやったのか水泳大会と書いてあります。それから、郡市相撲大会にも出場しております。衛生部では、倶楽部の大清掃、月例身体検査というのがあります。部落内の便所消毒というのをやっておりますので、これは、大へんな奉仕活動だったと思います。つけたりとして寄生虫駆除というのがあります。物品部というのが新たに作られたんだと思いますが、物品愛護運動の促進、雨具かけ、下駄箱の増設、これなどは、団員がだんだんふえてきたせいと思います。掲示場の設置、その他物品の修理。家庭部では、衛生講話、生花講習というのがあります。文化部では、サン写真新聞、柏新時報の購入というのがあります。これは、購入して、みなさんへまわし読みしたのだと思います。本団の弁論大会出場、文庫の設置、「ニューライフ」の編集とあります。次にすごいのは、英語講座の開講というのがあります。郷土文芸展の開催と、なかなか多彩な活動をしていたようです。私自身そのころは、下っ端のパイパイのためよくおぼえておりません。当時支部の指導者の皆さんは立派だったんだなあと感心しています。
 支部の運営費は、小林さんの中にもありましたが、法坂も同じ労役収入でありました。ボヨダシ(柴運び)、コロダシのうけおいであったようであります。昭和23年の法坂支部の人員は、120名でありました。写真もありますが、虫眼鏡でないとだれだかわからないようであります。大きな事業といたしましては、小林さんと同じように、昭和21、22年の春まつりに大きな演芸会をもちましたし、盆踊りの復活は、ばかになってやりました。もうひとつ、特筆すべきことは、総代の人選民主化運動であります。それまでは、ごく限られた重立衆がたらいまわしでやっていた総代を、民主的な方法で選出したらどうかといって、選出方法がかわったように思います。それに、先にのべた山道の改修というのがありますが、これは、大へんな村おこしだったんじゃなかろうかと思います。

   ―本団体育部長として―
 昭和22年になって、私は本団体鍛部長というのをやらされますが、今だに忘れることのできないのは、郡市連合青年団陸上競技大会に出場したということであります。これがために何回も集まって話し合いをしまして、各支部ごとに予選をやって、それに残った人が本団の予選をやるわけです。この予選会が本団の運動会を兼ねるわけでありますが、場所は新町グラウンドが戦時中畑になってしまって使えず、もと中里第二小学校の上にある双葉公園グラウンドで予選会をしました。そこで選ばれた人たちは、集まって練習することもありましたが、ほとんど自主トレーニングで夜、砂利道をどんどん走って鍛えました。大会の期日は、22年8月1日でありましたが、会場は柏崎公認グラウンドであります。
 大会が目前に迫り、最後の打合せを柏崎の地方事務所二階でやりました。会が始まると冒頭に市側から緊急動議が出まして、女子の1,500m走は、身体的に無理だから、これを種目からはずしてもらいたいといったわけです。郡側は「そんなばかなことがあるもんか」ということで、会議は騒然となりました。1,500mは、やっと頼んで練習してもらったのに、ここでやめてもらっては困ると主張し、すったもんだのあげく、専門家の意見を聞こうというわけで、前の柏崎市長今井哲夫さんがよばれてまいりました。この人は、往年のオリンピックの400mの選手でして、事情を聞いておりましたが、やおら口を開いていうことには、「私としては、何とも申し上げられません。ただしオリンピックの種目の中で、女子で一番長い距離は、800mです。この種目には、かつて人見絹枝さんが、ロスアンゼルス大会に出場して銀メダルをとっております」といったわけです。「そーれ、身体的に無理だから1,500mはやめてもらわねばならない」というのが市側の主張で、「それとこれとは別だ、来年どうなろうと、今年は、どうしてもやってもらわねばならん」と郡側が主張して、やることにしたんですが、その急先鋒は、私でした。お蔭さまで、郡市の大会では、女子1,500mで第1位、3位を獲得しまして点数をあげまして、忘れられないのです。
 さて、当日大会に行くといっても容易なことでありません。当日でかけていっては間に合いませんし、選手も疲れますので、前の日出かけて、あるお寺へ泊めてもらったわけです。ただ寝るだけです。握り飯は3食分各自携行いたしました。本堂へごろ寝で、蚊がいてしょうがないので、蚊取線香をもっていったので、それをとぼしたら、和尚さんがとんできて、「線香とぼすのはやめてくれ、金箔が煤けるすけ」というのです。お寺で線香とぼしちゃならんなど、まことにおそれいった次第であります。当時、私は自転車を持っておりませんので、柏崎の会議に出る時には、朝早く起き、塚山まで歩いて、そこから汽車に乗ったんですが、よくもまあやったもんだと自分ながら感心しております。

   ―中里青年団長として―
 さて、中里青年団も、20年の秋スタートして、21、22年と過ぎて来ますと、そろそろ反省期にはいってまいりまして、ここで話し合いして、新しく団則をつくろうということになりました。「民主的青年団の運営」といった本をもとにして、いろいろ苦心したわけです。
 その特徴をお話してみますと、代議員制を取り入れる、大きな事業には、その都度実行委員会を組織してやろうじゃないかというようなことだったと思います。そうこうしているうちに、昭和23年度の新役員を選ぶことになって、なんと私が団長に選ばれてしまってびっくりしました。私より年長で、適任者がいっぱいいたのです。再三遠慮しましたが、せっかく新しく作った団則である。「自分で先頭になってつくったのに、ここで団則をふみにじっては困る、どうでもやってもらわなければならん」ということになって、これは仕方ないと引き受け、昭和23年度の団長を務めたというのが真相であります。

   ―小国座の演芸会―
 23年度がスタートしたわけですが、春の総会を中里第一小学校の運動場でやりました。この年、ちょうど新制中学校を3月に卒業した皆さん、約40人くらいが新しく入団してまいりました。登壇した団長の前に並んで、代表者が宣誓をやるというようなことで、誠に今にしては微笑ましい情景だったようです。  いろいろ事業をやったんですが、その中で少し紹介してみますと、「突貫百万ドル」というチャップリン映画をやりまして、これが大へんあたって、もうかり、その年は、団費を全然集めずに団の運営をすることができました。
 もう一つは、本団が主催して、演芸会を小国座でやったんです。それまでは、各支部ごとに春まつりのころ芝居のようなものをやっていたんですが、ことしは、ひとつ本団でまとめてやろうということになったわけです。当時、小国座というのは、舞台には屋根がありましたけれども、観客席には屋根がなく、まわりを板で囲んだ青空劇場であったわけです。早速団則にのっとりまして、実行委員会が組織され、その人たちがとりしきったわけです。当日は、私は、団長のあいさつをのべて、あとは団長席で高見の見物をきめこんでいればよいなと思っていたところが、そういうわけにはいかなかったのです。見物人がどんどん入ってきて、抑えることができない、入れない人は、囲いをよじのぼって中に入ってくる。隣の家の屋根にのぼってくる、後ろの方は、人の渦で危険な状態になっていました。その時、吉越という駐在がいましたが、「演劇中止、演劇中止」と目の色かえて中にはいってくる。実行委員の皆さんは、茫然として何をしていいかわからない状態です。これはもうたまらんと思って、私は団長席からとびおりて、マイクをひったくって、やっとこさ会場整理をやったという経緯がございます。あとから聞くところによれば、その夜は、仙田、白倉方面から見に来たという人もいて、大へんな大入りになったんですが、入場無料だったので、会場整理費でもとっていれば、よかったんじゃないかと思います。いらないというのに、「花」を置いていった人もあったので、その「花」でまわりの田んぼをふみあらした弁償金にあてて助かったことを思い出します。

   ―中里村合併問題―
 その中で一番心を痛めたのは、村の合併問題なんでございます。組合立の中学校の建設問題、それが二転、三転して渋海中学校が建設されるのですが、それが契機となって横沢村、武石村、七日町村の3ヵ村の合併問題がでてきます、そこへさらに中里村が加わって4力村合併論がでてくるというとこで、猫の目のように変わってくる。やがて、中里村の中には、賛否両論がありまして、ついには村民大会が開かれるという、緊迫した空気がみなぎっておりました。新しい団則をつくり、発足した青年団が、これにまきこまれたら、青年団は分裂するし、村に悪影響を与えることは必至と思いまして、何とかこれを阻止しようと奔走したのです。一時、執行部お手上げだといって、青年団解散を唱える人も出てどうなることかと思いましたが、どうやらこの危機をのりこえることができ、ほっといたしました。

   ―小国村誕生―
 私の青年団活動は、ここまででございまして、その年23年のおわり、学校の助教として勤めることになりました。24年7月1日に小国村が誕生しました。青年団もそれに連動して、小国村青年団になったと思うのですが、残念ながら、そこまでタッチしていませんでしたので、くわしい事情はわかりません。団長在任中、小国柔道クラブをつくったり、小国郷青年協議会ということで、横沢小学校と思いますが、ここで郷内7力村の青年団幹部が集まって、当面の青年団運動の現状や悩みを話し合い、交流会を持ったりしたこともありました。
 私の青年団活動は、線香花火のように短いものでありましたが、こん辺のことばでめをいっつぉくのぎにして(夢中になって)、とんで歩いたということを懐しく思い出します。

(やまざきしょうじ。町内法坂在住・大正14年生れ)

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