本文へスキップ

女子青年団の活動 | へんなか

女子青年団の活動hennaka

へんなか 発表 「女子青年団の活動」

女子青年団の活動                   松木 ウタ

   ―青年団入団―
 私は、昭和4年生れですので、終戦の年に横沢村尋常高等小学校を卒業いたしました。上村の風習といたしまして、4月17日が青年団入団の日になっていました。そういいましても、まだ子供の気分がぬけず、青年の仲問入りするのが、すごく抵抗があったんです。村に残って、住民として生活するには、青年団に入らなければと先輩のおさそいもありまして、入団したのですが、小学校の同級生6人中、女子は私ひとり、男子2人の計3人が上村青年団に入会いたしました。当時の上村青年団長は藤田金一、その姉の藤田ミエさん、この人は、今新町に嫁いでおられます。広田常雄さん、そしてげんねんの今のおばあちゃん(藤田キクさん)が先輩でございまして、入団式の時、同じのっぺいひとつの料理も家によって違うということを感じました。江村ファミリーでのっぺいを作るにいたしましても、芋の切り方、ごぼうの切り方が違うのです。ああこれは、なかなか勉強になるんだなと、幼ごころにもそう思ったんでございます。

   ―新しい思想―
 私達上村青年団は、団員が少なくて、女子の方が多いぐらいだったんですが、ぼよ切り(柴切り)しまして、それを必要な家庭に売るんでございます。それが青年団のおもだった財源でございました。それと、法坂の方がいっておられたように電気料の集金手数料も、経費の一部になっておりました。私は、まだ灰の子(正式な仲間に入らない意)の一年生でおりましたのに、8月15日に終戦を迎えまして、復員の方々もその中におられまして、松田久子、正道さん姉弟が向学心に燃えておられていろいろ教えられました。あの当時でございますと、急先鋒の思想を持った方々でございました。従来の風習、伝統は藤田姉弟に教えていただき、人生を生きるための向学心、社会学の方は、松田姉弟に教えられたと思っております。今でも私が口にしますのは、「聞け万国の労働者」の歌ですが、その中に自分の価値に目ざめよとか、平等とかということを、その方々は終戦当時私達団員に教えてくださったのです。相当勉強しておられたということがわかります。ある期間、その2人の造詣によって、私達は読書を心の支えにさせていただきました。

   ―リーダーズダイジエスト―
 それから新しい読書に興味を持ちましたのは、山崎正治先生のグループの中に入れていただいて、「リーダーズ・ダイジェスト」を読みまわししたからです。ひとりの持ち時間が2日間でございまして、借りてまいりますと、どうしても夜読んでしまわなければならない。私の家に年よりがいましたもんで、11時を過ぎますと、「もう寝れや。明日仕事ができねえぞ。おら、畑へ仕事にいかんけならんすけ、やめれや」というものでございますので、あのひらたい笠の赤い電球に、風呂敷をかぶせて、思い切り下まで下げて読んでいましたら、きなくさくなるんでございます。電灯と風呂敷の間にすきまがなく、ふろしきが熱せられて、焦げたのでございます。それでも、リーダーズダイジェストを読むのは、何より楽しみでございました。

   ―横沢青年団副団長―
 そうしているうちに、復員された方々が次々と結婚されるものですから、私どもの先輩は、櫛の歯が抜けたように、はじから結婚していかれました。あちこちしているうちに、私はまだ18才くらいだというのに「お前さんが上村を代表して横沢青年団にはいって活動しれ。」というのです。その時、女性の会長が永見マサさんという臨時教員をなさっている方だったと思います。私の感じでは、その時の男性の会長さんが、小林利夫さんだったかなと思うんですが。よびどし18才にして、体育部長というので、字から推薦されていきましたけれども、横沢青年団に入りまして、文化部長と体育部長を兼任いたしました。そうして19才で、上の方がみんな結婚していかれまして、19才にして横沢村青年団の副会長になりました。当時の青年団は、15才から25才の人たちで構成されておりました。今にして見れば知らないということほど強いものはありません。何かやろう、やらなければという思いでいっぱいでした。

   ―青年団の開墾畑―
 敗戦の長いトンネルの中、食うや食わずの生活で、自分の作った米と大豆も供出され、農家でありながら芋粥やとうもろこしの団子をたべたりしていた時に、藤田姉弟や他の方々が「青年もやらんけやならん、ろうどうの山をかりて、あごは平らだし、道も近くだすけ、かんのおこし(開墾)て、みんなで芋や西瓜をつくって、町から買い出しに来る人に売ってやろういや。そうせやおらたって、ちったああったかいめもしられるし、おもしいこともできるすけさ」とすすめられて、約一反歩を開墾しました。芋や大豆、西瓜をつくったりしたものです。朝4時半ごろ集合して6時のサイレンを合図に仕事をやめて家に帰るという生活を春から続けました。やっていまして、支部長さんの家へ芋やなにかは置かせてもらい、買い出しに来た人に売ってやり、いくらかの収入を得ました。その金で下村の盆踊りにゆくときに、下駄一足ずつプレゼントするとか何とかいいまして、それなりに楽しみをもったと思います。西瓜などは少々熟さなくても、のどがかわいておりますと「うまかったねえ」といって、山で鎌で切って食べた思い出があります。

   ―小学校の文化祭に生け花出品―
 支部と横沢青年団の活動を同一化してしまいましたが、小学校の文化祭に、青年団の人も花を習っているんだから、生け花を出してくれといわれました。2、3人の人が「出すがんにしょう」「出そう」ということになって、「校長先生、どこが会場ですか」ときくと「旧校舎の玄関に幕張って、あごへ生けてくんなさい」ということになったわけです。「あこなら22、23人くらい生けられるね。ひとりがひとつずつ、もし足らんかったら2ついける人もあっていい」なんていって、11月3日を目標にやってきました。その日、私が、少し遅れていってみましたら、学校側で作られた壇の上に、いろいろな花器を使ってみんなが懸命に生けていました。青年団でもっていた竹筒あり、そのころ小国のどの家庭にあったのっぺい鉢、藍の強い大きな鉢ですが、その中に生けてあったり、油どっくりを花器にして、その中に馬はぜ、このへんの人のいうはちまきずみ、つるりんどうなんかが生けてあって、すばらしい作品になっていました。青いのっぺい鉢の中には、柿の枝にやぶこうじがあったり、11月の寒さの中に緑と黄色、それに青い竹筒と思いもよらぬ作品がいっぱい出ました。今のお花のように、課題を与えられて生けるお花より、野山にあったり、小路に咲いていたりする花を生けてこそ、華道のほんとうの道があるのではないかと、今もつくづく思っております。

   ―青年団文化祭―
 青年団の活動もいろいろあるんですが、合同青年団になりまして、中沢(誠三郎)先生の団長のころ、渋海中学校を土曜日休校にしていただいて、青年団6百名が全員一品ずつ出品するという文化祭をやったのです。
 各教室8つくらいあったんでしょうか、それぞれ仕立物あり、手芸品あり、習字、図画ありということで、広い会場がいっぱいになりました。中でも一番驚きましたのは、女の人が、自分で飼った養蚕の生糸を座繰りで引いて、お年よりが冬の期間つむぎに織られて長着物に仕立てられた、紬の着物でした。また、終戦から2、3年しかたっていないのに、洋裁の技術を身につけられまして、セルの着物を生かして男性の背広に仕立てられたのがありました。これは、七日町の会の方だったと思います。また、自分で蚕を飼ってひいた絹糸を、セリシンのとり方もよくできていませんでしたが、都染めで、手染めして、自分の名古屋帯に、牡丹の花を日本刺繍されて出品されたのがありました。幹部の方々の予想もつかぬすばらしい作品が出てまいりました。
 男性の方々などは、今も民芸品として残っておられると思いますが、わらぞうりの中にも、足半(あしなか)がありましたし、ばた(背中あて)、蓑、てご(背負籠)があったり、すっべ(藁靴)があったり、おそかけがあったり、になわがあったり、あの運動場がところせましと並べられました。
 その夜は、幹事があつまり、宿直室で夜警にあたったわけなんですが、その夜の楽しかったこと。当時渋海中の校舎と、もと横沢の火葬場は、30・40mくらいしか離れておりませんで、宿直室の窓から眺めますと、火葬場がすぐ見えるんです。そうしましたら、ある男性の方が「おらそ、臆病らんだんが、あの火葬場がめえると、おっかなくて、おっかなくて、どうしょうもないがあて。あの火葬場そ、ダイナマイトでぶっとばされるといいと思うてそ」というような冗談話も出て、12時すぎまで夜警をして、小雪のちらつく中を提灯をぶらさげて家へ帰っていった思い出があります。

   ―若いエネルギーの爆発―
 エネルギーのかたまりの、今の原子爆弾よりももっと大きな爆発が、あの当時あったんじゃないかと思います。それは、幹部が押しつけたもんでなく、個々の自主的なものでした。戦後の長いトンネルを出て、自由とか、男女の平等とか、参政権とかは、自分たちが勝ちとったというより、いただきものでしたけれども、自分なりに夢と希望に輝いて、躍動していたと思います。今のことばで置きかえるなら、自己充実、自己実現というのではないかと思います。希望に向かって、ひとりひとりが黙々と歩み、自己開発にはげみ、興味をのばし、伝統を習得し、その中にも、新しいものを、砂漠が水を吸いとるように身につけていったと思います。その中で、社会とかかわり、職業を選び、社会参加して、今高齢化の仲間入りをしていると思います。今私たちは、あのエネルギーをもう一度爆発させて、自己実現に向かって、自分の生涯をもっと明るく歩んでいきたと思います。

(まつきうた・上村出身・長岡市在住 旧姓江村・昭和4年生れ)

→ 『へんなか 第七号 特集:戦後の青年団活動』目次のページへ

 

◆お読みになりたい方は、お近くの図書館でお読みになることができます。