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上小国青年団の文化活動 | へんなか

上小国青年団の文化活動hennaka

へんなか 発表 「上小国青年団の文化活動」

上小国青年団の文化活動                富沢 敏一

   ―大貝青年会の参加―
 私が上小国村青年会に関係したのは昭和25年でありまして文化部を担当、委員長は上岩田の大塚誠さんでした。
 この年は大貝集落の青年会が、中魚沼郡仙田村青年会を離脱して上小国村青年会に参加した記念すべき年でありました。代表として小川貞雄さんが挨拶されたのを覚えております。
大貝集落そのものが上小国村に編入されたのは何年か後(27年)であります。
 では、早速当時の上小国村青年会の文化活動を振り返りながら、もし今日再現出来る可能性があるものは、その実現への道を探って見たいと思います。

   ―巡回文庫―
 当時の若者が本を読みたい、本を読もうとする意欲は大変すさまじいものがありました。
 戦後、ものの価値観が全く違って来て戸惑うことが多くあったわけで、とにかく新しい時代に対応する新しい知識を身につけようとみんな懸命に努力しました。本当は娯楽的なものがほとんどなかった時代だったので、青春の情熱の吐け場を身近な読書に求めたというのが、実態だったかも知れません。
 巡回文庫の箱―そうですネ、30冊はどうか、25冊位は入ったことは確かで、毎月一回諏訪井の集落にあった役場の二階に各支部の係が持ち寄って交換が行われました。
 私がかかわった昭和25年の上小国村青年会の予算額が4万9百35円のところ、新刊書籍購入費が1万3千円で、予算額に占める割合は32%。前年度などは34%の高率でした。 いかに図書購入に重点を置いていたか、いかに会員の要望が大きかったかが、わかって戴けると思います。
 その頃新刊書は一冊130円前後であったので、単年度百冊は買えた訳で、3年程で巡回文庫は新刊で埋まった勘定でした。
 購入先は新潟市の小林百貨店で、会員から希望図書を聞いて買う極めて民主的な方法をとっていたので、本の選択に関するトラブルが一切なかったのは幸いでした。
 ある支部では、とうに読み終わってとても次の交換日まで待てないから残本があったら何冊でもよいから廻してくれと、いうような申し出があったりして当事者としては嬉しい悲鳴をあげる一幕もあって、それはそれは大変な熱気でありました。
 その頃夢中で本を読んだ友達の一人が「老後に入った今でも、青年会の巡回文庫で出来た読書習慣が残っていてあまり退屈しない、今更読書でもないのだが」と笑っていますが、 若い時の努力、体験というものは、生涯を通じて、その人の人生に深く係わってくるものだと、しみじみ思ったりしています。

   ―会報の発行―
 上小国村青年会では年4回のペースで会報を出して来て私の時が第4巻でした。
 したがって昭和22年戦後二代目の委員長保坂亭治さんの時、創刊されたという事になります。
 大体、本を読む事と、文章を書くこととは表裏一体であって、巡回文庫が大盛況のおかげで、毎号原稿が集まるわ、集まるわ、たまには原稿が不足で紙数を減らす相談をして見たいネなど、かなり贅沢な冗談をいったものです。
 極端にいえば文体などどうでもよい、とにかく威勢のいい会員が多かったのは、戦時中の抑圧された思いから自由になった当時の世相の反映ということでしょうか。
 戦後5年を経過して、少しは生活も落ち着いて会報の投稿にも思想的な色彩が見え始めた時期で、青年が政治に目覚めるのは当然のなりゆきだったでしょう。
 しかし、まず青年は一般的な教養を高めることが第一義とする従来の見解も依然として根強く、総会の会場でも激しい論議がかわされました。こんな雰囲気の中で到底全部載せる事の出来ない原稿の山積みを前にして、原稿内容が一方に片寄らないよう随分神経を使った編集だったと覚えております。
 私が発行を担当した会報第一号の時、私が何を血迷ったか偉ぶって批評を書いたら俄然会員から非難の声があがり、評判が極めて悪かったので次回からやめた苦い経験などもあって思い出の深い作業でした。
 なお、会報の印刷は創刊号よりずっと柏崎の大地堂で刷っていましたが、この25年度発行を最後に翌年からは、地元原の北原弘司さんの孔版所にお願いする事になったのです。

   ―弁論大会―
 予算額が409円という当時といっても、あまりにも少額なので入賞者にはおそらく賞状と帳面一冊位だったのでしょうか、すっかり忘れております。
 ずっと自由題でやって来たのだが、この年は趣向を変えて指定題にしました。内容が同一になるので聴衆にとって倦怠感があるのではと心配したが、そういう事もなく盛り上って安心しました。
 上小国村青年会としては弁論大会は戦前から盛んで、いわば伝統的な行事でした。それだけに各支部の取り組みも真剣だったのですが、この年に限り突如3人が棄権したのです。どうしても出場出来ない事情が同時に3人を襲ったに違いないが、何しろ前例のない出来事で、後々まであと味の悪さが残りました。そして、上位入賞者の何人かが小国郷青年協議会主催の大会へ出場するのですが、その方も責任者にまつり上げられていて、かなり忙しかった一年だった記憶があります。

   ―文化講演会―
 さて最後は文化講演会ですが、講師松岡譲先生を招聘するに当たってひとつの過程がありました。
 作家松岡譲の話を聞きたいと思っていた私の長い間の念願を、文化部担当を機に実現しようとする図図しい企みがあった事を告白します。
 松岡譲は戦時中疎開してそのまま宮内に住んでおられたが、長文の手紙を2回出して結局承諾を得たので、内心かなり得意満面だったのですが、一番困ったのは聴衆の数はどの位か、聴衆の教養程度はなどの葉書による質問を受けたことです。聴衆は2百人はくだらない。教養は高い人達である―嘘をまじえて返事を出して承知を取ったのが講演会開催の2週間前でした。
 その後が大変である、まず会場の心配から各支部への手紙連絡、電話が一般に普及されていない頃だったから余計厄介でした。
 そして聴衆の教養水準を高めなければならないという一大使命があるので。小国郷教員会に頼み込み、参加の承知を得た時は、思わず万才を叫びたいほどでした。
 会場の太郎丸真福寺本堂を完全に埋めつくした聴衆、7月末の土用の暑い日であったにもかかわらず、本堂は涼しい風が吹き抜けてあの気難しい松岡譲に何度も何度も、ここは涼しい快適だといわしめて大成功だったようです。
 演題は、「教養としての文学―漱石文学を中心として―。」学校の先生方という偽装青年会員を揃えたのに、講演内容は程度を落としたものでしたが、作家の話という事で会員は満足そのもので、ひたむきに知識を求める青年会の情熱の成果であったと思いました。
 ちなみに先生の謝礼は1,200円で、それも伺いもしないで差し上げたので、安かったのではなかったかの悔いは、今でも残っております。

   ―結び―
 終わりに近づいたようですが、昔の青年会はすばらしかったと誇らしげに語りながら、なつかしさ一杯の中で自らが陶酔している訳で「何だ、懐古談に自分だけ酔っぱらって」と思われる方がおられると思いますが、100%そうに違いありません。
 では現実に戻って青年会の復活はあるかと問われて即座に、ノーと答えざるを得ません。
 全部といっていい程若い人が勤め人になった今日でありますが、勤務内容を考えると職種が違う、場所がそれぞれだ、就業時間も昼あり夜あり、祭日、日曜も関係ない職業もあって多種多様である。
 従って活動するための同一時間を生み出せない現状では、青年会の組織などまさに弥勒(みろく)の夢であります。
 そこで勇気を持って提案したいのは、かって巡回文庫をむさぼり読んだあのエネルギーが、たとえ4、5人のグループでもよい、本に親しむ若い集まりをもしよみがえらせる事が出来れば、知識の吸収もさることながら、映像文化にとっぷり漬かっている現代に反省を求める警鐘になるのではないかと思うわけです。折しも、まことにタイミングよく、東京武蔵野市かげろう文庫から贈られた本をもとにした小国かげろう文庫の誕生である。借りる面倒な事は全然ない、だれでも、何冊でも、いつまでも借りられる。設置場所へ都合のつくときに寄るだけのことである。私のこの提言が、昔を懐しむ老人の、はかないたわごとであると冷笑されない事を祈るだけであります。

(とみざわとしいち・町内楢沢在住・昭和2年生れ)

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