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小国町青年団の結成 | へんなか

小国町青年団の結成hennaka

へんなか 発表 「小国町青年団の結成」

小国町青年団の結成                  樋口 章一

   ―小国町の誕生―
 私が青年団にはいらせていただいたのは、昭和30年でありますから、町合併後の3、4年かかわりをもっただけでありまして、中里村の青年団には、まったくかかわりがなかったのであります。昭和31年に、小国町が誕生しておるわけですが、前年30年から小国村青年会の副会長としてはいりました。その時の会長は、中村進君でありました。レジュメの後にある当時の名簿には、山横沢村では、中村進君の名がはいってよいと思います。横沢村の三人のあとに、金沢に山口幸雄さんがおられます。この方が私の前の前の、小国村の会長さんでした。山口さんは、前の年会長をやられて、偉大な指導者であったと思います。30年に山横沢村が小国村に編入となり、31年に小国町が誕生し、32年に千谷沢村が合併して現在の小国町の境界線がきまったわけです。31年の会長でありました中村進君を中心にして、私も加わりまして、上小国村の皆さんと合併の話し合いをすすめているうちに、32年には千谷沢の代表もはいりまして、話がすすんだわけです。32年に小国町青年会という名前で出発したように思います。

   ―集落単位か連合体か―
 この話し合いの中では、いったい名前や母体をどこにおくか、ずいぶん議論したように思います。活動の母体は、集落単位の地域にあるんだという、これはお互い確認したわけですが、青年会の組織でありますから、母体を、集落におくのか、連合青年会におくのか、かなり時間をかけて、議論したと記憶しております。結局小国町青年会ということで出発して、その翌年33年になって小国町連合青年団に名前を変えたという記憶があります。

   ―小国音頭―
 32年に会長をさせてもらいましたが、最初に初代竹部町長さんからよばれました。婦人会の代表や、小中学校の先生方も一緒だったと思いますが、最初に「これから新しい小国町づくりにとりくむので、諸君も頑張ってくれ」という督励があって、「いろいろな行事にぜひ小国音頭を使ってほしい。これは自分が大へんなエネルギーをかけて作った歌であるし、レコードもあるので、各種行事にこれを使ってくれ」といわれました。その時学校の先生や婦人たちは、「そういういい歌なら聞かせてほしい」と要望され、会場で聞かせてもらいました。そこにいた皆さんは、大賛成だったのですが、私ども青年団は、生意気ざかりでありまして、「そんな町の歌をつくるのであったら、町民広く公募して、その中からいいのを作ってみるのがいいことで、町長自ら作って、みんなに使えというのは、町長の横暴でわが青年会は反対です」といいますと、町長はものすごいけんまくで怒って、自分の机をガタンと前の方へおしまくったのをおぼえております。その後も2、3回この手でやられたのでありましたが、私どもは断固として、そういうのは使えませんということで押し通したようなことを記憶しております。

   ―青年会体育大会―
 合併した青年団がやったことは何かということですが、先輩の皆さんと同じようなことをやってきたのでありますが、大きくわけて、一つは体育大会、もう一つは研修会ということになります。
 20代後半は、野球一色という感じで、体育というと支部対抗の野球が全盛でありました。野球ですと参加する人も少なく、応援団が黒山のようになっていたという印象がありました。連合青年団として合併発足したので、みんなが参加できる陸上競技を復活しようじゃないかということで、体育大会をはじめたわけであります。場所は新町のグラウンドでありまして、非常に熱がはいりまして、あのグラウンドに大人も子供もいっぱい応援にきてもらいました。応援団賞などももうけるぐらいでした。体育大会が郡市陸上競技大会選考会も兼ねているということで、優秀な選手がいっぱい育ってくれました。郡市の大会3位までが県大会にいけることになっていまして、2位に入って県大会にいったこともありました。
 ただ新町のグラウンドが一周200mでありまして、柏崎の400mの競技場にゆきますと、すくんでしまいまして、実力が出ない。これを何とか克服したいということで、私の父の知り合いで駅通りに薬湯という銭湯屋がありまして、そこへただ同然で合宿させてもらったわけであります。青年団の方に合宿経費など一銭もなかったので、議員や農協の皆さん、町長さんにカンパのお願いにいって、2、3泊してグラウンドに慣れることにしました。スタートがだめだというので、工業高校の陸上の先生にコーチをたのみ、スタートの練習に励んだのであります。おかげで翌年の郡市の大会に2位に入り、村松、新潟の県大会にも、意気揚々と参加してきたことをおぼえております。そういう大会を通じて小国にも何とか400mのグラウンドがほしいという気持ちをもって、私どもが青年団をやめてから、体育協会をつくり、町へ働きかけたというわけです。
 37年か38年、今の中学校が出来る前に、高橋孝一さん、竹内武雄さんとか、体育協会には、前渋海中学校長青柳武次さんをかつぎ出して、佐藤町長さんに陳情にいったわけであります。そんなことが刺激になったり、どこの地域でも、施設づくりが始まった時期でありましたので、町の方でも、中学校の建築前に、一周400mの町営グラウンドを完成させてくれたのであります。

   ―指導者研修会―
 もう一つの研修会のことですが、県の教育委員会が社教活動に本腰を入れて始めたころでありまして、小国の教育委員会の中にも、社協関係の職員がおかれ、予算も組まれるという状態でありました。研修会にも中越から社教主事が講師としてくる時世になったわけであります。中でも、小・中学校の夏休み中の校舎を借りまして、小国橋小学校を一番多く使わせてもらいましたが、渋海中、結城野小などをかけもちで使わせてもらったようです。1泊2日で、各集落単位の活動がどうしたら活発化できるか、一種の指導者研修会といいますか、青年団の代表が合宿して、キャンプファイヤーをしながら、話し合いました。文化活動、生産活動、福祉活動、社会活動、この4つのテーマを中心に、かんかんがくがくと議論いたしました。

   ―安保条約をめぐって―
 考えてみますと、私どもがかかわった時代というのが、60年安保をめぐって、国論が二分していた時期であります。政治に対する関心が高まった時期でありました。私どもも青筋たって議論しあった経験があるわけです。これは、地域だけでなく、郡の青年団県の青年団にいきましても同じことで、これからの国づくりの方向がどうあるべきかということで安保条約について議論が出ましたが、時代背景に大きく影響されたわけです。20年代後半の戦後の復興30年代の経済の高度成長時代と経過してきました。
 20年代には、青年の数も、小国全体で2千名を越えていたと思います。大きな支部には百名をこえる団員を擁していました。私どものころの32年には、6百名の団員でありました。復興から建設ということで、2、3男の皆さんは、就職のために家を出てゆく時代でありました。一集落に20人から30人というのが当時の団員数だったと思います。2、3男集団から長男集団へ向かいつつあった時代ではなかったかと思います。

   ―青年団行事―
 この時期というのは、小国の産業面でみますと、20年代後半から耕地整理が一斉に始まりまして、国も県も食糧増産の大号令がかかっていたという時代であったわけであります。30年代には、耕運機がはいってまいりました。体育でも、野球、卓球、バレーとやってきましたが、青年団の行事は、夏うちの農休日、1日、15日を中心にしてやられたように思います。町、郡、県の青年団行事をこなしていきますと、非常に忙しかったし、よく家業もろくにしないでがんばったもんだと思います。あの当時の親がまあ、それを認めてくれたものだと思います。時々くどきもきかれましたが。
 当時青年団で活動してくれた人たちが、今はそれぞれの地域の指導的立場にありまして、この点も、私どもがいろいろなことをやらせてもらうには、都合がいい。どこにもかつての青年団の仲間がおり、いついっても接することが出来、こういった仲間と地域つくりにとりくんで参りたいと思っています。

(ひぐちしょういち・町内法坂在住。昭和7年生れ)

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