本文へスキップ

青年団活動の転換期 | へんなか

青年団活動の転換期hennaka

へんなか 発表 「青年団活動の転換期」

青年団活動の転換期                   高橋 保

   ―私の青年団活動―
 楢沢の高橋保です。昭和28年に入団して、36年8月に退団するまでの8年間の青年団活動のなかで、31年から36年までの5年間、本団の活動になんらかの係わりをもってきました。本団との係わりの長いという点では、私もそのひとりに入るかと思います。
 戦後の青年団活動は、昭和21年に始まって昭和40年頃に終るまでの、約20年間、前半の10年は、先輩の皆様がさきほどお話した通り、戦後農村の復興に大きな役割を果たしてきたと思います。このころの農村は、都市に比べて恵まれた情況にあり、青年団活動のもっとも安定した時期だったのではないでしょうか。
 小国町の人口は、昭和22年に1万7千人を数えましたが、今では、その半分になってしまいました。とりわけ昭和30年頃から50年頃にかけて著しい減少が見られました。著しい減少の始まった30年頃が、都市勤労者の所得が農村の所得を上まわったといわれました。農業に見通しの立たない暗い時代が始まり、今まで農業にすべて依存していた団員達の苦悩が始まったのが、30年に入ってからだと思います。その後の10年は、青年団活動の新しいあり方を求め、やみくもに活動したにもかかわらず、新しい運動が確立せず、消滅に向かっていったというのが実態だと思います。
 地域青年団は、崩れることのない強固な組織と思われてきましたが、目標を失った組織が、いかにもろいかを実証するかのように、劇的な幕切れとなってしまったわけです。その原因には、指導の誤りや、団員の努力不足などいろいろありましょうが、農村崩壊の前触れに求めるのが、正しいと思います。日本農業の衰退と、農村青年団の崩壊の関係は、別に置くとして、私の関わった団活動について話してみたいと思います。

   ―町青年団結成についての話し合い―
 昭和31年10月小国町が誕生しました。その年に、私は、楢沢から選出され、上小国村の本団に委員長として籍を置きました。
 当時上小国は、町村合併をめぐり、小国合併派と、小千谷合併派に分かれて、激しく対立してきました。新しい町づくりのために、青年団は、早い時期に統合して町の融和に尽くすべきだというのが、私達の意見でしたが、先輩諸兄の中には、上小国地区の青年団として存続させよという声もかなりの部分ありました。それを押えて小国村青年団に対して統合の話し合いを提唱し、翌7月15日に実現したことは、私にとって大変意義のあることでした。
 その年に、もう一つ思い出されることは、体育大会があります。体育活動は、青年団活動で欠かすことのできない大切な部門なのですが、当時の上小国村では、体育活動はきわめて貧弱なものでした。長く中断していた体育大会の復活を試み、大成功に終えることが出来ました。それが、小国町青年団のその後の活動に引き継がれていき、私にとって忘れることのできない一コマです。
 翌32年には、小国町青年団が発足し、本団の活動はより活発になってきました。33・34年は、樋口さんが団長として、文化活動、体育活動、青年問題研究集会においても、めざましい活動を展開されてきました。小国町の本団活動が、もっとも花ひらいた時期だったと思います。活動内容が大きく変化したのもこの時期でした。

   ―青年団活動の転換点―
 団活動がより活発になっても、団員の要求がそれで十分充たされたかというと、決してそうではなかったと思います。当時の団は、大多数の農業青年によって構成されており、農業の見通しの暗さは、団員の表情に直接現われました。農村の暗さ、貧しさを青年達がもっとも強く感じたのが、昭和30年代だったでしょう。この暗さから抜け出すための、団活動が叫ばれたのが、この時期でした。従来の官制青年団の概念では、この青年達の要求に応えることはできません。どんなに体育大会が盛んであっても、文化祭が盛んであっても、くらしの問題を正面に据えた団活動でなければ、団員の要求に応えられない。そんなことが強く叫ばれ、団活動転換の必要性が盛んに論議されました。
 34年に新しい団活動をさぐる部門として教育宣伝局が作られました。そこでは、団員大会、青年問題研究集会、機関紙の発行を担当し、くらしを正面に据えた団活動をさぐることが目的でした。5人で受け持ち、私がその責任者になりました。手さぐりの活動です。 当時、国内は高度成長期に入る前で、三井三池の闘いに代表されるように、労働運動のもっとも盛り上がっている時期でした。小国町でも農民組合などが活発に動いていました。その年、原水爆禁止刈羽柏崎協議会小国支部が結成され、小国町から2名の代表を広島の世界大会に送ることがきまりました。青年団から私が参加し、日農青年部から元小国村青年団長で、青年団の統合について話し合った中村進さんが参加しました。その大会で、核兵器の脅威と、平和と民主主義がいかに大切であるかを聞かされました。また大会は、青年達のエネルギーによって引っぱられていました。大会に参加して感じたことは、青年運動とは、根底に反戦平和の思想がなければ成り立たないということでした。暑い広島の平和公園のうた声が、強烈に私の印象に残り、その後の小国町のうた声運動に大きな影響を与えました。

   ―安保問題―
 またこの年の最大の問題は、60年安保といわれる日米安保条約改定の動きと、それに反対する空前絶後の国民の闘いでした。反安保の動きの中で、小国町でも平和と民主々義を守る共闘会議の結成があり、青年団にも参加よびかけがありました。青年団もよびかけに応じて、主要メンバーとして参加しました。
 しかし、このことがその後の青年団活動の崩壊の時期を早めることになったと思います。
 今、ここで安保条約の是非については、脇に置くとしまして、当時、日本政府が、米国軍事基地を強化するため、日本民族の生命を無担保で提供しようとする条約改定に、国民の反対の声は日ましに高まっていました。戦前の青年団が戦争に加坦した悲劇を再びくり返してはならない。戦争に連なる危険の大きい条約の改定に反対しようと、34年、第5回代議員会に教育宣伝局が中心になって、反対決議を提案しました。しかし、政治問題に深く立ち入ると、組織の分裂が心配されるとして、この提案は却下されました。  この辺にとどめておけば、組織に及ぼす影響はなかったと思いますが、すぐ後の機関紙で、「安保改定阻止は青年の努め」と題して「お祭り青年団に明け暮れるならば、組織の分裂は避けられないかもしれないが、その反面意識ある者達は団を遠ざかって行くであろう、そして団崩壊の日を早めよう、安保の問題をもう一回勇気を出して真正面から取り組むことを切望してやまない」とよびかけました。くらしを正面に据えた団活動を主張する指導部にとって、今この問題を取り組まないで団の前進はないし、取り組めば分裂しかねないという二者択一を迫られる苦しい状況にありました。
 翌35年、安保の闘いは風雲急をつげ、まさに日本全土が革命前夜の様相を呈してきました。この年、私が団長の責にありました。その代議員会に再度反対決議が提案され、その時は、圧倒的な数で採決され、早速県連や日青協をつきあげました。その時の活動振りは、日青協の新聞に紹介されましたが、この決議を採択したのは、県下で小国だけだったようです。6月22日、岸内閣の命と引きかえに、安保は成立し、反安保の闘いに加わった当時の若者達に、強烈な挫折感を与えました。

   ―団崩壊への道―
 新しい青年団を求めてときには手探りで、ときにはがむしゃらに進めてきましたが、安保問題で挫折し、青年団活動への意気込みもすっかりしぼんでしまいました。一九六〇年6月22日、安保条約が成立したこの日が、小国町連合青年団が崩壊の方向に向かって歩め始めた日と私は見ております。その後の行事は、何事もなかったように滞りなく過ぎていきました。当時副団長の笠井荘二さんに、翌年バトンを渡しました。私達が一緒に活動した何人かが残りましたが、笠井さんは、私が作ったきしみの修復にかなり骨折ったようです。次の年は、私達が活動をともにした仲間達は、ひとりとして執行部に残りませんでした。この年から青年団は、坂道をすべり落ちるように崩壊に向かって走りました。
 私達が青年団でなにをなしたのか、結果的にみますと、官制体質をもつ青年団の変革のよびかけのみが残り、多くの団員が背を向けることになってしまいました。新しい青年団に変えようとした試みは失敗に終わりました。
 その後青年団崩壊のたよりには、耳をおおって、聞かないようにしてきました。私がたどった青年団は、暗い歴史であり、二度と振りかえりたくない思い出でした。

   ―おわりに―
 今日この席で、はからずもとりとめのないお話をする結果になりましたが、これも忘れたはずの過去を忘れられずにいたものと思います。私の青年団活動は挫折で終わりましたが、青年期に、ひとつのものに命を燃やすことがあったということは、人間形成に決して少なくないプラス面があったと思っています。自己の利害でなく、野心でもなく、人間を愛し、地域を愛し、社会の発展のために、一途に燃えた青年期があったという、このことは、自分の子供達に自信をもって語れる部分です。

(たかはしたもつ・町内楢沢在住・昭和10年生れ)

→ 『へんなか 第七号 特集:戦後の青年団活動』目次のページへ

 

◆お読みになりたい方は、お近くの図書館でお読みになることができます。