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わが青年団活動回顧 | へんなか

わが青年団活動回顧hennaka

へんなか エッセイ 「わが青年団活動回顧」

わが青年団活動回顧                 竹内 武雄


   潜水艦乗員通信兵
 昭和18年5月10日、現役兵として舞鶴海兵団に入団した。入団後、1,800人の入団兵とともに直ちにテストが行われた。うち90人が5月15日付けで横須賀海軍久里浜通信学校へ海軍通信兵第71期生として入学を命ぜられ、交信普通科生として8カ月間厳しい教育を受けた。翌19年1月普通科を卒業、卒業と同時に戦地派遣を希望したが、許されず、30人の戦友同僚と共に即日高等科生兼教員助手として留校を命ぜられた。 高等科練習生は教育期間6カ月間であるが、普通科以上に厳しく、更に教員助手と言う難役を兼務して戦地勤務の同僚がうらやましく思えた。この教育助手勤務の期間中の4月、特殊練習生(無線電報暗号解読班)第49期生として旧横沢村の小林利夫君が入団してきた。全く兵舎も教育方法も異なったが、同郷人であるが故になつかしく、時折小林君を我が教務室に消灯後呼び、話し合いタバコを吸ったものである。6月30日高等科練習生を卒業、左腕の腕章が普通桜から八重桜に変わったものである。時を同じく卒業と同時に教員助手の職も解け、いよいよ憧れの洋上に出陣するのを待ちうけた。7月5日その時が来た。呉海軍鎮守府付を命ぜられた。同僚小林君とは2ヵ月余りの短い交わりで別れを告げ、呉海軍鎮守府へ着任した。
 このころは、まさに大東亜戦争もたけなわの時代であった。着任を待っていたかの如く潜水艦乗員通信室勤務を命ぜられ、3日後、出港命令が出て呉軍港をあとにした。出港後は連日連夜、受信する電報はすべて暗号電報であり、別室に勤務している暗号解読班に解読を命ずるが、その内容は交信班である我々ですら一切知るところでなかった。この間燃料補給、弾薬積載、食料積載等5回入出港を繰り返したが、一回として上陸を試みたことはなかった。どこの海底でどのような戦いが展開されているのか見当がつかない。頻繁に水雷の発射により艦体が揺れることで烈しい戦が展開されていることは想像できた。
 昭和20年8月15日終戦。この日は午前10時交替で私が当直、いつもと違い送電されてくる電報は、暗号電報が少なく、しきりと生電報の受信があった。午後2時軍令部命令、生電報で、しかも「ウナ電」作戦特別緊急電報が全船隊に流され、終戦の命令であった。受信は沖縄と鹿児島の中間点の沖合の海底であった。母港呉軍港に帰港したのが8月21日であった。軍籍を置く舞鶴本隊に帰還したのが8月30日、入団後2年4ヵ月振りで見た舞鶴。2ヵ月半舞鶴本隊に残務整理班として留まった。終戦処理のため通信員として、そのまま残留してほしい旨本省から強い要請を受けたので、この要請を受託したのである。明年5月1日赴任することを約し、ひとまず帰郷することとした。11月15日列車の客車が全く通らず、貨物列車の、無蓋車に便乗し、トンネルの多い北陸線で煙に巻かれ窒息しそうな状態で復員したものである。

   盲腸炎手術
 復員後、約5ヵ月間自宅で休養し、舞鶴再赴任を心待ちにしておった。
 この冬は近年稀に見る豪雪に見舞われ、連日屋根の雪降し、屋根下の除雪作業で休養どころでなかった。すぐにでも舞鶴へ再赴任したくなった。ようやく春を迎えた喜びも束の間、春祭りを目前にひかえた21年4月12日、夜突然激しい腹痛を起し、夜半であったが医師の往診を受けた。診察の結果、単なる食当たりだから温湿布を行い、静かに休むことと指導を受けた。知識不足で医師の言うがまま、一晩中熱いお湯をわかし、温湿布では物足りずと熱湿布を続けた。朝方になって益々腹痛は度を増すばかりで、早朝であったが、無理に再度医師の往診を依頼診察を受けたところ、医師は私の腹に手を当てるなり、最早この患者は私の手の及ぶところではない、すぐ長岡の神谷病院に運ぶようにと告げられた。親戚を動員、勿論当時は自動車等なくリヤカーに乗せられた。途中腹痛にたえかね、深沢の医師から道路上で腹痛止めの注射を打ってもらい、神谷病院に3時間半がかりで着いた。院長先生が直ちに診察するなり、開口一番これはあまりにもひどい盲腸破裂寸前、腹膜炎を併発しているとのこと。生命にかかわる麻酔をかけるわけにはゆかない、無麻酔手術を告げられ、盲腸の手術時間では驚異的にも一時間も要した。50日間の長期に亘る入院生活を余儀なくされて6月3日退院。このため勿論舞鶴再赴任は断念した。ここが人生生涯左右の場となった。

   千谷沢村農業会勤務
 自家農業従事を余儀なくされていた矢先、当時の千谷沢村農業会から勤務依頼があった。政府米保管倉庫の管理不良から政府米に黄変米が多量に出たことにより責任上担当職員の退職があり、その職員補充としてであった。これを受託することになり、昭和21年6月15日付けをもって千谷沢村農業会職員として就職することに踏み切った。当時終戦直後のこともあって、企業等の就職の道もなく、高小を卒業した男女、兄弟姉妹の若者、復員して帰郷した若者も含めすべての者が在村在宅であった。千谷沢、原小屋、鷺之島、小坂、菅沼の5集落で概ね130人を数えただろう。
 就職した当時農業会では、昭和21年度の事業計画として千谷沢村に酪農を進めさせようと言うことで乳牛の導入計画がたてられていた。北海道から登録済の「ホルスタイン」系の乳牛15頭を購入しようと言うものである。すでに飼育農家の希望もとりまとめ決定済であった。購入の出発は7月1日と言うことであるが、北海道まで購入に行くと言う元気のある職員が農業会にいなかった。結局就職の日が浅かったが、若い者と言うことで私に白羽の矢がたち、農業会長から出張命令がでた。盲腸手術で長期入院を余儀なくされ、退院直後早々の就職で体調にあまり自信もなかったが、若気のいたりで出張命令を引き受けた。千谷沢村で15頭、横沢村で8頭、北条村で5頭、計28頭の共同購入計画であった。
 新潟県畜産技師で、柏崎刈羽家畜衛生保健所笠原所長を筆頭に、保健所では野田村出身の高野技師、中里村上谷内出身で池島技師の3名、導入該当村では横沢村金沢の山口哲三郎君、北条村で高橋鉄夫老、千谷沢村では私の3名計6名で7月1日柏崎から出発した。重いリュックの中は白米一斗5升ずつである。当時の列車、連絡船をのりついで北海道まで2日がかりで着いたところは、北海道の最北端稚内市の手前、浜頓別駅であった。宿は駅前に富山県人が経営していた東家旅館と言う極めてみすぼらしい旅館であった。笠原所長から購入方法の説明があった。浜頓別村にも大牧場を経営しておる内地人の牧場が2ヵ所もあった。そのような大牧場から一挙に予定購入数28頭を購入し、貨車積み込みするのかと思ったら全く違った購入方法であった。7kmも8kmも離れた10頭程度の各飼育農家を毎日歩いて訪ね、登録済の一才牛を一頭ずつ交渉して畑買いするのだから、さあ大変なことである。
 翌日から早速畑買いに全員が出掛けた。農家で乳牛を見せてもらい登録証の提示を求め価格交渉を行う。価格がつり合わなければ又2、3kmも離れた飼育農家を訪ねる。一日一頭の購入しか出来ず、畑買いした乳牛は引張って来て旅館裏の飼育場所へつなぐ。飼料を与える。だんだんと購入頭数が増して来たので、飼育係りは一人から2人に、若い山口哲三郎君と私は何時も畑買いに引き出される。時には畑買いから2頭引張って来たこともあった。
 そのような繰り返しすること25日間に及んだものである。7月29日ようやく予定頭数購入完了、翌30日朝から稚内から回送されて来た貨車5両に一車両6頭宛積み込む。貨車の上部に白樺の木で枠を組み、乾燥草を飼料として多量に積み、一車両一人乗車、乾燥草の中に寝て乳牛の飼育をしながら塚山駅まで帰ると言う段取りで、東家旅館にわかれを告げ浜頓別を出発した。途中、岩見沢操作場で一晩、函館操作場で二晩、青森操作場では一晩、長岡操作場まで来て一晩各々外線待機させられると言うありさまで結局出発して塚山駅に着いたのが8月7日夕方となった。8日間乳牛と貨車の中での寝泊まりであった。38日振りの帰郷となった。
 1カ月余りの北海道滞在生活中前述した通り130人を数える若者が在村しているのだが、終戦というドサクサの中とは言え、各々に遠大な希望を与えてやる機会を作らないと村が変なことになるのではないか、北海道生活の1ヵ月余りは単純にそんな事ばかり考えることが多かった。気ばかりあせり、極めて滞在が短いような長いような1ヵ月であった帰村後直ちに乳牛を飼育農家に配分し、その任務は終わった。参考までにその配分した乳牛一頭の価格は出張旅費、宿泊費、雑費等すべて乳牛価格案分負加して最高価格が2才牛で3万7千円、一才半最低価格2万9千円ですべて精算が完了したことを記しておくが、今どきの価格はいかん。

   青年会組織作り
 我が同級生は小学校時代は男女併せて48人、高等科になって七日町小学校から進学して来た生徒11名を加えて59名となった。男子31名、女子28名在校生中最も数の多いクラスであった。男子31名のうち残念ながら大東亜戦争で戦死した同僚は実に13名である。ルソン島沖で戦傷し一足先に復員し在宅していた原小屋集落の同僚近藤長治君(近藤建設社長、昭和62年12月19日死去)とは小学校時代から言語に表せないほどの友人中の友人である。お盆を契機にこれを幸いと彼を訪ね、日頃考え続けて来た青年会組織の実現化をつぶさに訴えた。はからずして近藤君も私の考えと全く同感であり、話は進み、9月中に5集落の代表者を集め、各集落毎に組織作りを依頼した。2人で目星をつけた人を、根気強く一週間も毎晩折衝した結果、5集落とも組織化実現に努力する旨確約してくれた。
 9月中旬鷺之島青年倶楽部において第一回集落代表者会議を開催した。男女1名ずつ10名がはじめて一堂に会する機会を得た。集まってもらった趣旨を説明し、理解を得て全員協議を重ねた結果、千谷沢村青年連合会の創立を前提に、先ず各支部の結成を責任持って急ぐこととした。連合会結成の会則起草委員会を選出する一方、支部の結成並に会員名簿の確認提出を10月中旬までと申し合せ、私も支部結成を急いだ。10月下旬までに5集落とも支部結成の報告があった。勿論鷺之島支部結成も終り、支部長を受けることとなった。この間、連合会々則起草委員は、私も含め千谷沢村農業会二階会議室で数回の検討会をもって成案をとげた。12月1日の千谷沢村尋常高等小学校屋内運動場において初の千谷沢村青年連合会の結成創立総会を試みた。出席した数男女併せて実に120数名を受付けた。発起人の提案した会則を審議し、戦後初の千谷沢村青年連合会の誕生を満場一致承認し、原小屋支部、千谷沢支部、鷺之島支部、小坂支部、菅沼支部の5支部を名実共に発足させ承認した。翌22年4月からの連合会事業計画、収支予算計画を承認し、役員選出が行われ、連合会長に鷺之島支部長の竹内武雄、副会長に千谷沢支部長の宮川政吉、副会長に原小屋支部副会長の小熊チイの3名が選出され、意義ある第一回の総会を無事終了させ、感慨無量であった。
 このころ時代は終戦後極めて厳しい食糧難に遭遇しておった。政府はマッカーサー指令により農地改革を進めるため、全国市町村に農地委員会の設置を義務付けた。一方農林省は食糧難を打開するため全国市町村に食糧調整委員会なるものを法令で発足させたものである。22年4月からこの法令を適用することとなった。この法案の起草に当たったのが当時農林省に勤務在籍しておった役人で、長岡市出身の小林孝平氏であった。法案が国会を通過し、その起草が高く評価され、まもなく社会党から参議院議員に立候補し当選を果たしたものである。この食糧調整委員会の発足に伴って、不肖私は千谷沢村農業会職員から千谷沢村役場へ転出することとなり、発足した食糧調整委員会の書記に4月1日付をもって任命された。これが私の40年間の半生に及ぶ長きに亘る地方公務員として忘れることのできない第一歩をしるした記念すべき日となった。
 その後小林参議院議員は新潟県知事選に立候補したが、惜しくも敗れた。続いて小林氏は長岡市長選に当選した。かつて小国町諏訪井出身の皇学館大学理事で、愛知県文化財保護委員会委員をやっておられる長谷川正先生とは長岡中学時代の同期で、[圏点]長谷、小ば]と言う親友であったと言われている。かつて57年当時小国町史の編さんに当り監修をお願いしにいったその頃、よく私を同道して長岡市長室を訪ね、おい小林、やあ失礼市長さん、今日はお前さんのあの得意な肉屋の二階で一杯おれに飲ませてくれんかなあーと言われる間柄の中に同行させられたものである。その小林市長さんは晩年数多くの功を遂げ、突如として市長職を辞任、後継者日浦晴三郎氏にその市長職の座を譲ったことはあまりにも多くの人が知るところである。

   食糧調整委員会書記
 少し余談に走ったようだが、戦後の食糧問題に対応する機関委員会の発足時を紹介したものである。当時小国郷7カ村の食糧調整委員会の書記に任命された者は、上小国村で太郎丸出身の中沢佐一君(亡)、中里村で法坂出身の吉野清吾君(亡)、横沢村で下村出身の小林利夫君、かつて前述した久里浜通信学校の後輩生である。武石村で押切出身の品田清一郎君、七日村出身の佐藤数作君(亡)、山横沢村で芝之又出身の中村博澄君、千谷沢村出身で鷺之島出身の竹内武雄の7名であった。この7名が各委員会発足当時であったこともあり、週に一回は会場持ち廻りで研修会を開き、研修をしたものである。寄るとさわれば食糧問題の研修は言うに及ばず、「おい竹内、若者の対策は一体どうなっているんだ。もっと急速に対策を進めないとシャバがおかしくなるぞ」中沢佐一君は海軍の上級下士官で私の先輩でもある。軍隊調で「竹内きさま、手前は千谷沢の青年会長だそうじゃないか、もっと気合を入れろ、小国郷にすべて青年会を発足させろ。」と夜通し激論をとばし、助言を受け、朝しらじらとなって自転車で自宅に帰り寝る間もなく又出勤したものである。
 かくして先輩の助言もさることながら、各村各集落で青年会組織の機運が急速に高まり、発足の傾向にあることを情報で知るところとなり極めて心強く感じた。
 22年4月千谷沢村青年連合会鷺之島支部は年間事業計画とそれに伴う予算計画を樹立し総会を開いた。事業計画のうち最大の論点となったのは、お盆行事として行われる8月1日の連合会に送り出す卓球大会の選手選考、8月7日に行われる各支部野球選手権大会の選手選出とその練習方法であった。それもさることながら鷺之島支部単独で実施する計画を提案した8月15日夜の盆踊大会と8月16日興行計画の初の青年芝居であった。青年会発足当初の事業計画としては会員の意向を吸い上げての提案とは言え余りにも奇抜な事業計画であったとも思われた。このような事業計画に充当するに苦労した。会員から会費徴収するも酷である。事業受託の事業収入以外にない。種々集落内の事業を探した。幸い開田してほしいと言う依頼が1件、薪取りをやってほしいと言う依頼が6件、それに芝居をやって花代として収入を見込めばなんとかなるだろうと未経験のかなしさから計画は単純でもあり、大胆でもあったと思う。何んとかやれると自信を持ったものである。大胆な事業計画にもかかわらず総会において計画の説明に対し、出席した会員全員が異議なく満場一致賛成した。全く動揺一つなく特に初の青年芝居の興行計画であるにもかかわらず声高らげて賛成した。その所以は、戦後若者が能力体力の発散場所もなく日々のうのうとして自宅で過すに物足りず、その極がすべて吹き出たものと理解し、今後青年会活動の基礎造りに大きな期待を持つ導火線となった。

   青年芝居
 総会後翌日から直ちにその計画推進実行のため着手した。青年芝居について述べると、幸い当集落に老いたりと言え、大正の末期から昭和の戦前まで東京浅草の劇場で裏方さんを10数年問務めた経験のある小川清治さんが帰郷していた。老に相談しては無理かと思ったが、実施の参考になればと思って老宅を訪ね、計画をつぶさに打ち明け相談したところ、想像以上に若いところを見せ、開口一番「私はねえー、君達は私を年寄り扱いにしているが、まだ60を越えたばかりだよ、自分では青年だと思っているよ、」と言われて、ぎゃふんと来たと同時に、訪ねてよかったと思った。長い東京生活である。「僕あねー。この話は飯より好きなんだ」と語りだした。実に話すことが若い。「僕あねー」にも驚いた。「僕あー在京当時浅草で裏方ではあったがこの道が好きだった。今でも当時の脚本も持っている。参考にして新しい脚本も作って指導してやる。明日の晩からでも行くよ。早いほうがよい。演題によって配役の選考が最も重要となる。その人の素性を一目見れば適役がすぐわかる。それから公演する演題を何題にするのか決ればよい。話は全てわかったから協力する。心配するな。2、3日中に全員を早速招集してはどうかね。大体目星しい演題を20位持って行くから配役を決めようや。まあーその点僕にまかせて大舟に乗った気でおれ、」と言うことで全面的な承諾を得、千人力をえたものと胸を躍らせ帰宅したものであった。
 早速支部臨時総会を開催し、全員にこのことを告げ、了解を得た。数日後全員招集、小川老の持参した演題に基づいて男女いやおうなく一人2役以上の配役が決まった。小川老の脚本原稿完了までの日数が20日間を要すると言うことで、8月16日公演を目標に5月1日の夜から練習を開始することとした。本番まで3ヶ月半の期間である。会員の張り切り方はさることながら、指導に当たる小川老の意気込みはこれ又格別であって、胸をうたれるものがあった。いよいよ5月1日の練習開始となった。当初は本番までに3ヶ月半の期間があるという安堵感もあり、さらに男女の演技であるがゆえに照れ臭い一面もあって、軌道に乗せるになかなか苦労した。毎日夜8時集合、11時散会であった。本番を1ヵ月後に控えた7月中旬からは気合と熱が入り、練習やめ散会の号令をかけても聞かず、午前2時半ないし3時まで練習が続いた。数多い演出であるため倶楽部での練習が重なって出来ず、民家を数軒借りて練習もした。朝3時帰宅など、寝る時間もなく家族と朝食をすませて田の畦草取りにやらせられる。ねむくて畦草等取れるはずがない。畦辺で長々となって寝ている仕末。昼のサイレンに目をさまして帰宅するのが精一杯。午後は又その繰返し、夜になれば激しい練習と言う会員の実態であった。しかし、その厳しさに誰一人として脱落した者はない。当初は会員の家庭から激しい苦情も来た。これを説得に努めた。途中練習の実態を家族に公開し、理解を求めた。私にも配役の指名が2つもあって、しかもその相手役は卒業したばかりの16才の少女である。お互に照れ臭くて倶楽部では練習が出来なかった。人目をしのんでお墓で練習し、本番に臨み、成功させたものであった。
 このような連夜の厳しい練習のかたわら、財源確保のため班を編成し、開田請負作業や薪取り作業を実施したものである。当時を振り返りよく頑張り続けたと思う。
 いよいよ本番の8月を迎えた。5日、6日の両日で白山神社境内に倶楽部続きに大きな舞台を作った。本番が来たと言う実感がこの時はじめて沸いた。全員感慨無量であった。7、8、9、10日はこの舞台で本番さながらの練習を行った。指導に当たった小川老は浅草の舞台でも引けを取らない演技が出来上ったと絶賛した。老は苦労して指導した甲斐があったと言って涙ぐんだことが忘れられない。

   赤痢発生、芝居延期
 22年8月11日突如として鷺之島集落において大変なことが起きた。集落の一角に集団赤痢が発生したのである。2世帯11人が伝染病棟に隔離されたと言うのである。さあ大変、本番を目前にひかえ、作られた舞台で本番さながらのリハーサルまで行って全員張り切っている矢先である。柏崎警察へは2カ月前に興行計画、実施年月日、参観者動員見込み数等の申請はすでに行ってある。柏崎保健所職員が乗り込み、集落全域をくまなく消毒した。あにはからんや、柏崎警察署長名で駐在を通じ、千谷沢村青年連合会鷺之島支部で、8月16日行う予定の芝居興行計画は当集落内に集団赤痢発生のため当分の間、興行することを中止せよと言う指示が出た。何を言っているんだと、会員はいきり立ち無念のあまり泣く者まで出た仕末。会長、一体この仕末をどうしてくれるんだと迫る者、しかし、事態が事態であるが故にこれらを冷静に説得し、一切を執行中止ではなく延期することで警察当局と渡り合うと言う約束で会員を静め納得させた。
 翌日、柏崎警察に出向き協議した結果、10日間延期し、8月26日に実施することで話し合いを付けた。しかし、延期した25日の夕方になっても赤痢の解除通告が役場にもなく、警察からも何ら当支部へ音さたが無かったので、翌26日実施に踏み切った。午前9時開演、神社境内は参観者で超満員の盛況であった。支部長が開会のあいさつ、実施延期になっていささか皆様にご心配お掛けした等々申し上げている途中、駐在巡査が来て舞台めがけて大声を張り上げて私のあいさつを制したが、そのまま最後まで挨拶を続けた。倶楽部で駐在と私の、責任を持っての話し合いが続いた。かくして小国郷全域、下小国地域は言うに及ぼず上小国、山横沢、しいては塚山地域、南鯖石の若者までが、この演技を見なければと集まった。出演者の名演に会場の観衆はおしみなく拍手が送られている。一方駐在との話合は遅々として了解点に達しないまま、芝居はプログラムのまま責任をもって進行させた。
 かくして小国郷各集落で青年会組織の動向が急速に進み、結成の情報を知るところとなった。小国郷7力村の連合体を夢みていた私は勤務条件の有利さもあり、発足済の各支部長あるいは代表者に働きかけた。
 連合体組織作りのため第一回会合を、中心部の横沢村役場を借りて開催した。案内を出し集まった諸君は、上小国村三桶山岸徳義君、上岩田大塚誠君、小栗山片桐丑造君、中里村岡新一君、中里村中沢誠三郎君、横沢村小林利夫君、武石村佐藤二三雄君、七日町村長井哲夫君、山横沢村中村博澄君、千谷沢村近藤長治君、宮川政吉君、竹内武雄、女子は横沢村江村歌子さん、千谷沢村小熊チイさん、小川静子さんの十五名程度が記憶にある。各々集まった面々は初対面の人達ばかりであった。話しつつこの各位が各集落の青年会組織上の立役者であるとともに、連合体組織のために大きな役割を果たす事実上の諸兄であると認識を新たにしたところである。私が招集した所以もあり、座長として議事を進行し、大方の理解を深めた。その後夜数回にわたり、この会場で会議を重ねた。自転車とてなくほとんど徒歩で会議に臨んだ。仮称小国郷青年連合会と名付け、ようやく小国郷青年連合体の組織作りにこぎつけた。会則起草委員の草案を了承し、23年5月1日をもって創立総会を開催することとし、初代連合会長に中沢誠三郎君を推挙内定した。これでようやく青年会活動も軌動に乗りつつ、しかも各支部活動が活発化して来たと認識した。

   成人式に知事をよぶ
 千谷沢村青年連合会は、事業計画の目玉としてこの年初めて青年会主催で成人式を試みた。鷺之島支部は昨年の大事業を深く経験し、本年度は明治末期の時代に造られたと言う若い衆の青年倶楽部を取壊し、新築すると言うことが最大の事業計画となった。この建物は老朽化し、作業場同様に土足で出入りするような姿になっていた。勿論青年会だけでは実行に難しく、集落全体の承認事項となる重大な計画となった。
 この年から私は藁半紙裏表の一枚ではあったが、ガリ版印刷で月一回千谷沢村公民館々報として初めて発行を試み、その片隅に青年会活動の一端をのせた。これを村内全戸に配布し親しまれて3年間続けた経過がある。今、捜したが一枚も見当たらない。
 連合会主催の成人式は6月15日、千谷沢村立尋常高等小学校屋内運動場で挙行し、一方鷺之島支部で計画の青年倶楽部新築事業と、この二つは生涯忘れることのできない勇断実行の足跡である。
 私は連合会主催の成人式に民選初代新潟県知事岡田正平殿を来賓としてお招きし、初の成人式に花を添え、成人該当者にその意義を深めさせたいと、当時の上司小熊村長に提案した。村長は、「その奇抜な提案の趣旨は竹内君よくわかるし、理解出来るが、知事さんは日夜多忙の身で千谷沢村の成人式等来ていただけるはずがないから、所詮無理な話だよ君」と言うことで笑いごまかされたものであった。しかし、私は、「知事さんに無理であるかどうかは別として、お願いの一回もしないで日夜多忙だから千谷沢へ等無理であろうと言うことは納得できない。私がお願いに出県してご都合を伺って来ますから、出張命令を出して下さい」と言ったものの、県庁等出向することは初めてである。ましてや、知事室等我々ごときが入れるなどとは思いもよらないことであるが、村長に言ってしまったからひきさがれない。小熊村長は獣医技師であり、戦前は県庁の畜産課長経歴者でもある。私の下らない要請に、しぶしぶ秘書課長に電話を入れ、知事の在庁を確めた。事情を話したところ、明後日在庁で午前十一時から十分を限度に会ってやると言うから行って来てくれとのことで、指示通りの時間に秘書課へ、課長の案内でおそるおそる出向き、知事室で岡田知事さんにお会いすることができた。全く当時名刺一枚も持たず、一介の役場職員の若造に民選知事は快く会話をして下さった。今思い起こしても感慨無量なものがある。「よし、君の話はよくわかった。僕も成年式等に出席するのは初めてだ。千谷沢へ行くよ課長。」「知事さん行かれるにしても、6月15日は日程がふさがっておりますので、それは無理であります。」「そうかそれなら駄目だなあー」「翌16日でしたら午後3時から長岡市商工会議所の予定ですので、午前でしたら千谷沢へ行けるんではないでしょうか。」「そうか、そうしてくれ」と知事の一言で決った。「では、そのような日程を編成いたします」と秘書課長の返事で知事の成人式来村が決った。7分たらずの知事室でのお願いであったが、こんなに話のわかりがよいものであろうかと喜びのあまりごあいさつも丁寧にできないまゝ知事室を引き下がった。秘書課で日程時間等細部打合せに後日出県するようにと指示を受け帰宅した。翌日からは大変、成人式の日程は知事の都合で一日変更になったことだけで、立村以来現職知事が来村する等は全く例のない事である。お迎えするにしても一人として経験を持つ者がいない。青年連合会は連日のように役員会を開き対策を練る。村長は議会を臨時招集し、その対応を協議したものである。今でも当時の成人式該当者は「我々は岡田知事さんから来てもらって成人式をやってもらったがのう」と思い出を話す。気さくな民選岡田知事を迎えて滞りなく成人式を挙行したものである。

   青年倶楽部新築
 もう一つは鷺之島支部の総会で事業計画として提案した青年倶楽部の新築事業である。勿論集落の審議委員会の討議となり、その青年会提案事件が直ちに集落常会の議となったことは言うまでもない。会長である私から提案理由の説明を申し上げ、お願いをいたしたところである。説明の内容においてかなりの議論はあったものの、最終結論として審議委員会の支援もあって、満場一致で新築することが承諾された。会員の喜びはこれまた一入であった。私は提案した理由のなかで集落民の負担経減を最大限図るために、新築に要する請負費は業者を伴うものであるから負担願わざるを得ないとしても、建築材料はすべて立木所有者からご寄附を願うと言うお願いをした。90世帯のうち60世帯は多少にかかわらず、山林を所有している。上屋材料、柱材料、板材料すべての材料となる山林立木を一戸当り2本宛無条件でご寄附提供してもらうこと、その山林立木は審議委員と大工から山巡りをしてもらい、目星を着けた立木に印を付けて所有者の了解を求めること。伐採は木材業者にお願いすることとし、山出し運搬はすべて青年会員が行い、神社境内において業者から移動製材(発動機による製材)を行ってもらうと言う提案であった。議論百出であったその中で、60世帯は山林所有者で立木提供を義務付けたとしても、残る30世帯の立木寄附不可能の世帯に対する負担はどうするのか、不公平の均衡をどう図るつもりか、激しい追及があった。当然の追及である。そのことに対応するお願いとして、その世帯については建築期間において建築手伝手間として一世帯当り2人宛提供して頂くことを提示した。種々問題は多くあったが、色々取り持ちの発言もあり、この事業を承認し、今後の取り扱い及び進め方については総代と青年会幹部に一任すると言うことで決着し、事業を推進することとなった。このような経過をふまえ日時の過ぎるは早く、年間を通し春承認された事業計画も、苦しい中にも晩秋までには概して順調に実施され終わったものと解する。
 一方この頃は日毎に食糧事情が厳しく、一層深刻となって、そのつけが農家に押し寄せ、毎日が供出米業務におわれた。農家は供出米の割当てを強いられ、その見返りとして北海道産の馬鈴薯、鹿児島産の甘藷、俵の中のイモの配給を受ける仕末であった。そのほとんど腐っているものが多かった。食糧調整委員会は供米の各戸割当て、見返り物資の委員が連日で、疲労のため会議室で会議中倒れ、そのまま亡くなられたと言う事件が千谷沢村で起きたのもこの時である。当時の新潟県食糧調整委員会の委員に、刈羽郡代表委員は、郡内27カ村から田尻村出身の植木盤氏、中里村二本柳出身の竹部源一氏の両氏であった。両氏とも立板に水を流すごとく弁舌さわやかで実に感銘した。24年の春、中沢誠三郎会長は通勤不可能な学校に転勤が決まり、連合会長の職を辞したい旨の届け出があった。協議の結果、会長二代目として後任に副会長の竹内が就いた。この頃、刈羽郡連合青年団結成の機運が高まり、柏崎にあった刈羽地方事務所の会議室に数回招集があった。時も時小国郷の中心部、中里村、横沢村、武石村、七日町村の4カ村が合併し、小国村の誕生を見たのもこの年である。かつて小国郷7カ村の時代から4カ村へと変わった。郡連合青年団が発足し、事業計画としては青少年指導者講習会及び柏崎グラウンドにおいて陸上競技大会が実施された。郷青年連合会選抜選手は各種目において入賞の栄誉に輝き、小国郷青年会こゝにありを示した。

   珍相寺の指導者講習会
 翌25年各支部の事業計画もさることながら、郷青年連合会は8月下旬、3泊4日の予定で青少年指導者講習会を柱に球技大会、弁論大会並びに会員全員による集いとして臨時総会を開き、その道の権威者を招へいして、講演会を開催する事業計画をたて役員会で承認された。
 3泊と言う宿泊場所の選定については、役員も随分と苦労した。幸いお願いした新町珍相寺の松木女史先生のご厚意にあまえ、本堂並びに庫裡の炊事場を全面的に開放して下さると言うこととなった。  詳細の計画のもとにいよいよその実行の日が来た。3泊4日中の宿泊はすべて青少年指導者講習会に参加する各支部の選抜幹部120名を対象としたものであって、4日間の食糧の米、寝具用の毛布は参加者に持参してもらった。第一日目は珍相寺本堂において開会宣言に併せ、会長のあいさつ、日程説明を行い、県社会教育課長の基調講演を受け、青少年指導者講習会の火ぶたを切った。4分科会に分かれ「戦後の社会に貢献できる青少年の育成とそのあり方」をテーマに研究討議がなされた。夕方、教育課長の指導で分科会討議を集約し、女子会員の作った夕食会に臨む。夕食後珍相寺裏の新町グラウンドにおいて社交ダンス、午後10時消灯、全員本堂に毛布一枚で寝込んだものだ。会長はじめ事務局を担当した5名は第一日目の記録を整理し、夜通しでガリ版印刷を行い、翌朝全員にその記録を配布すると言う、激務振りであった。当時の事務局長を務めた佐藤二三雄君の健闘振りが実に光った。これに臨んだ指導者幹部は、一連の行事を終わり、夕方珍相寺にもどり、結果の討論を行い、宿泊させる。そして、翌日の行事に参加させる事を4日問にわたって義務付けた計画であった。その都度事務局は夜通し記録に挑戦し、全員に配布したのであるから、大変の苦労だったと思う。
 第二日目は各支部選抜による球技大会で、野球大会の部と卓球大会の部に分かれる。野球大会は新町グラウンドを会場に、卓球大会は中里小学校体育館を舞台に、団体戦、個人戦ともに花々しく展開され、盛会のうちに幕を閉じた。幹部は終了後夕方珍相寺に集合し、行事結果の討論をし、次年度からの事業計画策定の基にしたいと言うねらいがあった。
 続いて第三日目は中里小学校体育館を会場に、各支部選抜による弁論大会を開催した。30名からなる弁士が各熱弁を振るった。聴衆も各支部会員を動員したので、体育館は超満員、収容しきれず外に拡声器を設置した位である。審査長を努められた県社会教育課長は、最後の講評で、「本日出場された30余名の弁士諸君の熱弁は実に立派であり、審査長の私を含め、審査に当たられた8人の審査員の皆さんもとても順位等つけがたいものであった」と評している。さらに「しかも、弁士諸君の選択した演題はほとんどの皆さんが、今日社会に青年の進む方向、農業の行き方、食糧問題2、3男の就職対策等々戦後の農村青年として極めて積極的に切実な訴えをされたことは誠に意義深く感銘いたしました」と絶賛したものであった。終了後アトラクションとして5支部女子会員の代表による踊りが披露され、大成功裡のうちに第三日目の幕を閉じた。
 いよいよ計画の最終日、四日目を迎えた。午前9時開会、定刻までに各支部男女4百名有余名が集結、珍相寺本堂において会員による臨時総会にあわせ、青少年指導者講習会の4日間の行事最終日である。本堂のすみずみまで身動きの出来ない程の集まり、しかも天もこれら行事の最終を祝ってか雲一つなく日本晴となった。来賓として上小国、小国、千谷沢、山横沢各村長を初め、郡連合青年団長並びに4日間会場を提供下さった珍相寺住職と松木女史先生をお迎えし、9時開会、会長のあいさつに続き事務局から3日間の行事成果を報告し、満場拍手で報告事項を了承した。続いて執行部の提案した諸案件をすべて満場一致で採択し、来賓各位の祝辞を賜り最後に、3泊4日間の会場を惜しみなく快くお貸しいただいた松木女史先生に会長から深々と謹んで満腔の敬意を表するとともに謝意を捧げた。併せて各村当局から寄せられた後援、会員の惜しみない積極的な協力に対し、心からなる感謝を申し上げた。不肖にして永遠に忘れることのできない記念すべき行事がすべて滞りなく成功裡に終結し、幕を閉じた。午後は茶話会が計画され、なごやかなうちに思い出に花が咲いた。何時までとなく続き、惜しみつつ再会を約し散会となった。青年会活動5年間のうち最も特筆すべき思い出となったことは言うまでもない。

   刈羽地方事務所勤務
 こうしてこの頃から徐々にとはいえ、食糧事情もやや好転のきざしを見せて来ていた。私はこの頃食糧調整委員会の書記及役場の勧業係を兼務していた。これから先の食糧問題の解決は旧体依然として行われている農業経営の抜本的改革以外に道はない。湿田未整理地帯の農耕稲作ではこれからの若人も農業後継者とはならないであろう。最早その解決は農業基盤整備を実施しその条件を整えることしかないと深く認識していた。村長にも議会にもその必要性をいつも訴え続けた。当局もようやく理解を示すところとなったが、先ずそれに先き立ち、技術者養成が急務であると言う認識に立って自ら技術収得の為その機関に出向させてほしい旨村長に願い出た。役場職員身分のまま他機関に出向させる等例のないことで、村長も議会にその旨諮ったところ、よしとして議会も理解を示した。そのような経過を経て4月1日付け身分は千谷沢村職員のまま27年3月31日まで一力年間刈羽地方事務所耕地課へ技術養成のため出向を認められた。  このような経過をふまえ、これを機会に思い出多い創立以来の千谷沢村青年連合会長並びに小国郷青年連合会長の職を共に辞し、後継者にすべてをゆだねた。

(たけうちたけお・小国町鷺之島在住・前小国町助役・大正12年生れ)

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