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特集:八石山 八石山の麓に生まれて | へんなか

八石山の麓に生まれてhennaka

へんなか 随筆 「八石山の麓に生まれて」

八石山の麓に生まれて                 高橋 春子

 いくつかの峰々に連なる八石山、四季折々に仰ぐその姿は、時にやさしく穏やかに、あるときは頑固親父のきびしさを秘めて、、小国のすべての人々の心の中にどっかりと座り、小国の集落を見下ろす。その山容は、わが町を象徴する貫禄にふさわしい気品と、気高さを感じさせる不思議な山である。
 八石連峰の山ふところに抱かれて、少女時代のある時期まで過ごし、慣れ親んだ故郷。
ともすれば、記憶もやや、うすらぎかけてはいるけれど、与えられたこの機会に感謝しながら、なつかしく振り返ってみたい。

   昔話
 「八石山にはのー、鬼婆がいて悪い子は食われるがっだぞー」。
 その昔、久木太という集落に、大変孫を可愛がったお婆さんがいて、あまりの愛しさにペロリペロリと食ってしまったそうな。
 そして家を追われたお婆さんは、八石山に逃げこみ、大きな石のかげにかくれたそうな。
 いつしか、この岩穴に住みつくようになりこの大きな石が、大石のババ、婆石だと言う事である。崖にへばりつくように、くっついている奇妙な石で、みるからに気味が悪い。
 子供の頃それは何回となく聞かされた昔話。
 冬の夜、いろりのそばで祖父の話に、耳をかたむける。祖父の顔が、いろりの火に照らされて異様なほどに無気味で、ガタガタと戸のすきまから、鬼婆が入って来るようで背筋がゾッとした。だから八石山は、恐ろしいイメージも強かった。

   山に親しむ
 八王子校のすぐ後に八石の山裾が迫っていて、よく先生に連れられて歩いた。いろいろな野草をおそわり、鳥の鳴き声が、幾重にも聞こえた。今の登山道とは比較にならない杣道で、ジメジメした湿原地があったりで、運動靴の中まで濡れて気持ちが悪かった。それでもリュックを背負っての足どりは、意外に速く、頂上で食べるおにぎりの味、木々の緑、空気のおいしさは、たとえようもないほどであった。そして、眼下に広がる小国の風景は、爽快そのもの、帰りは八石山の向こう側におりて、地層や大木の年輪を調べたりした。
 まさに八石山の自然は、地域に密着した最適な教材だったのである。
 八石山には戦国の時代に毛利藩のある殿様が守護していたお城があったと言われ、敵の侵入をふせぐ、のろしをあげるために作られた城だと言う。
 北条(きたじょう)の殿様と大変に仲が悪かったが、何しろ高い所にある城だから、打ち落とす事が出来ず、ある日嫁話をもちかけられ、その宴の席で、北条の軍の騙し打ちにあい、滅ぼされたと言う事だった。その命日には、山鳴りがし、岩が崩れ落ちて山に入れなかったとも、馬を引いた道が何十年か後まで残っていたとも口伝されていた。

   石川峠の改修
 八王子から柏崎に通じる石川峠が開通したのは昭和三十二年のことである。石川峠の開道ほど八王子の人達に歓喜を与えたものはない。
 八石連峰を越す石川峠の改修は、村民の長い歳月にわたる願望であった。
 昭和三年県会議員有志の支援で国の認定が得られ、芝ノ又集落から改修工事が始まったと言われる。それが、日中戦争、日米開戦と続いた戦争のために一時中断したが、戦後、三区の高名な政治家の援助と村民あげての協力により、昭和二十六年工事の再開をみたのである。全村あげての協力態勢は、幾多の困難をのり越え、昭和三十二年十一月十一日全線開通に達したのである。
 その開通式は極めて盛大なものであった。高田の自衛隊の演奏によるパレードがあり、その後を八王子校の児童生徒が小旗を振って行進した。夜は八石の峰を七彩に染めて花火が舞い上った。真っ暗な山肌にくっきりと浮かび上がる「開通記念」と書かれた[圏点]しかけ]花火をみて人々は目頭を熱くした。
 喜びの声が八石の山々にいつまでもいつまでもひびき大きく観した。いま思い出しても胸の燃えるような感動であった。
 小さな谷間の集落に村民みづからの手で大きな灯をともしたのである。
 昭和三年最初の認定から数えあげれば、何んと二十九年もの長い歳月であり、総工費二千三百万円の大工事であった。
 「この開道は、地方住民にとって莫大な便益であり、永遠の幸福である」とこの地が生んだ将軍さん飯田貞固中将は書いている。
 将軍自身幼年の頃柏崎の藍沢塾に通う冬の八石の山越えの苦労を語っておられるので、身にしみる嬉しさだったのであろう。
 中将は昭和四十六年故郷八王子の地を訪れ、集落の人達のあたたかい歓迎をうけ、石川峠に万感の思いを遺して五十二年永遠の眠りにつかれたそうである。
 その後、石川峠のいただきに[圏点]開道の碑]が建てられて、すばらしい景勝の地となった。
 「心が洗われる」の表現がピッタリの場所である。
 春は桜並木に始まり、新緑が芽ぶき、萌える緑が雨にうたれてその色を一層濃くし、佐渡ケ島まで見える青い海原、思わず絶景と叫びたくなる衝動にかられるのである。
 学校の課外授業や、そして桜並木に見え隠れしながら下って行く転出の先生方を見送ったのもこの場所である。
 白髪まじりの品のいい校長先生がいた事を思い出す。八王子校が最後の学校だったのだろうか、ふりむき、ふりむき手をふる後姿が淋しそうであった。

   山裾を離れる時
 私が中学校を卒業した頃は、高度成長期による集団就職の最盛期であって、金の卵と呼ばれた。恥ずかしながら私も貴重なその一人だった。
 故里を離れる日、バスの窓から見える八石の峰々は、ところどころに残雪があり、うっすらと靄がかかり、とてもきれいであった。
 日頃は当り前で、しみじみ仰ぎみることがなかった八石山なのに今日で私の視界から消える……と思うと無性に感傷的になり、思わず涙が流れた。
 北は青森、南は九州、四国から金の卵が集まり、ききづらい方言に四苦八苦しながら、日本列島の広さを痛感したのだった。新潟県人のイメージをこわさないように、早く先輩に追いつきたい、そんな一念でありのごとくせっせと働いて、会社関係者、先輩に強く印象づけたのも事実である。
 母親から届く小包には家族の顔が、友達の顔が八石の向こうに見えた。
 十年余りの都会生活にわかれて故里に戻ったのも、八石山の牽引力のなせる業なのであろうか。

   そして今
 いつからか、この八石山の一角は牛の放牧場となって新潟県下にその名を広め、最近は山の中腹に出来た「ステーキハウス八石」が賑わいをみせ、遠く関東方面からのお客も増えていると言う。
 また、昨年秋から掘り出した温泉が成功の産声をあげたとも聞く。
 時代の移り変わりで何がよくて、何が悪いかは、にわかに判断出来ないが、私の胸の奥にある八石山の原風景は決して、失いたくないものである。
 どうか、いつまでも私達に愛される何かを問いかけてくれるそんな八石山であってほしいと願いながら終わりにしたい。

(たかはしはるこ・町内楢沢在住、昭和23年生)

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