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特集:八石山 八石山はわれらが庭 2 | へんなか

座談会 八石山はわれらが庭 2hennaka

へんなか 座談会 「八石山はわれらが庭 2」

八石山はわれらが庭 2


  御岳山
飯田(秀) 八石山には、鉈が池、婆石など、いろいろと伝説があります。昔から鉈が池の水は、どんな日照りが続いても絶えないといわれております。地主は、中村基之さんの所有地でありました。その上に御岳山の社跡がありまして、昔は、学校の生徒が、そこでキャンプをしたものです。あの御岳山の三十坪ほどの土地は、国有地になっております。御岳山の周りに、ミネッパリの木がありまして、そこに名前やことばを刻んだのが、今も残っているようです。
 この池は、飯田の先祖の人が鉈をおとし、下にいってみたら、鉈の形の池ができていたというのですが、この池の掃除は、天然にまかせてみたらと思っています。池の上の木を切って、なだれがつくと、自然に池がきれいになると思います。この池の水でキャンプしたり、シャツをあらったりできたらと思っています。
中村(由) 鉈が池の話がでてきたので、話してみますが、御岳山の社のあとが、あの石垣を土台にしたのだといいます。あそこに、相当大きいくず家(茅葺屋根)が建っていて、中村広治氏が村長していた時、つれあいが具合が悪くなって、一夏あの社で暮らしたそうです。その時は、鉈が池の水を汲んで生活していたそうです。
 また大正九年ころだったか、九十歳の爺さんに聞いた話では、その年、大へんな日照りが続いて、畑作も稲作も、どうにもならんで、雨乞い祭をやったそうですが、その際に、この池の水を汲んで、お宮にお供えしたそうです。八十歳くらいの人で、それをおぼえている人もいるそうです。
中村(由) これが御岳講をやった頃の資料なんですが(本をとり出す)昔の字で書いてあるので、読めないのですが、さかんに講をやったことが記されております。戦時中は、講も途絶えており、戦後二十八年に飯田丈作さんが世話人の時、鉈が池の泥替えをして、御岳講を復活させたんです。でも、それも長続きせず、三年ぐらいでやめたのです。その頃は鉈が池にのぼるのに、石川端からいったんです。
飯田(弘) 戦後復活した御岳講は、昭和31年でなかったかと思います。そのあと、あのまわりに田んぼをしていた人がやめてしまったので、中止になったと思います。
山崎 その御岳山が下へ下りてきて、社がありますか。
飯田(秀) 神主の中村清一さんの脇にあります。当時の金で二百円ぐらいで払い下げしたといいます。
山崎 何という神様なんでしょう。作神と思いますが。
高橋 あそこの祠が三つありますが、「天照皇大神」「豊受毘売神」などと書いてありました。
飯田(秀) 中村清一さんのところは、法務局へ登録している宗教法人ですから、聞けば正しい名前はわかるはずです。
山崎 山岳信仰といいますか、八石山そのものを拝むということはないのですか。
飯田(秀) ありません。木曽の御岳さんのお札をもらってきたかと思ったら、そうでもないんですね。
中村(由) せいぜんどん(中村清一氏宅)の先代のおじいさんの話によれば、あの社は、一時、じんろくの大夫へうつし、ひこえんの銀蔵へうつし、またせいぜんへもどってきたといっていました。
飯田(秀) 八石城の城についたということは、まちがいないようですね。御岳のあったところと反対側は、左手の奥が平になっていて、昔は、あそこがよく若い衆の相撲とり場でしたね。涼しくていいというので。
高橋 相撲取る日は、一年中で何日かきまっているのですか。
中村(由) 昔は、娯楽がなかったので、祭とか、休みの日に、力くらべをやったのでないでしょうか。
飯田(弘) 御岳山のまつりは、八月七日ときいております。
山崎 お話をきいておりますと、八石山より御岳山といった方が身近になるんでしょうね。
中村(由) そうですね。この部落では、御岳山といえば、すぐわかりますね。

  弥三郎 婆さ
山崎 永見さんは、八石山をどんなふうに眺めていましたか。
永見 八石山というと、弥三郎婆さんですね。生まれおちると、弥三郎婆さんに育てられたようなものです。
山崎 地元では、弥三郎婆さんは、どういうのでしょうか。
飯田(秀) あの弥三郎婆さんは、最後弥彦へ行ったと言われていますがね。時々、山から降りて、部落へお茶飲みにきたといわれていますがね。婆石の下へ、大きな木があって、その木の下へ鬼婆がいたというのですがね、その木は、今はなくなりました。
山崎 それは、なんの木でしたか。
飯田(秀) あれは、みねっぱりの木といっていました。昔は、みねっぱりでなく、豆の木だというのです。その豆の木一本に、豆が八石なるというので、八石の名がついたというのです。
 あの弥三郎婆さんは、久木太の金助の家へ後妻に入ったが、孫をかわいがって、とうとうかじってしまった。家の人におこられて、裏口からとび出したという。今でも金助の家はあるが、裏口へ窓がないということです。
高橋 そのみねっぱりの木が豆の木だったんですね。山の峰にあるからみねっぱりというのですか。
中村(哲) 本当の学名は、なんていうのでしょうね。この部落では、境にある木を、みねっぱりの木といっていますが…。(口絵写真参照)
飯田(秀) 婆さんがかくれたという石のまわりの木を切るといったら、婆さんがあばれると困るから切るなといわれてね。
中村(由) 昔、石川畑から、婆石の下へ作場へゆく横道がありましてね。あの石の外側に十六、七人の畑がありましたね。
高橋 よく伝説でね、婆さんを石の唐櫃(からと)にとじこめたといっていますが、あの石は、穴になっているんでしょうか。
飯田(秀) いや、婆さんを穴へ入れてしっかり蓋をしていると子供のころ聞かされたけれど、穴はあいていませんね。
中村(哲) 入ると、婆さんが、自分で石の蓋をしたといわれていますね。弥彦の弥三郎婆さんの話は、こちらと違っていて、毎晩出歩いていたのを後悔して、いい人になり、妙多羅天女として祭られているという話のようです。今も大きな婆杉があって、まわりを囲ってある。
中村(由) 八石が狭いので、弥彦へ飛んでいったともいいますね。
山崎 こちらでも、吹雪に、婆さんがとんで歩くというのですか。
中村(由) 弥三郎婆さんは、風呂入りにあるくといい、頭へ虱(しらみ)をたけていると、それをとってくれるともいいます。
高橋 そうすると、弥三郎婆さんは、いい婆さんなんですね。
中村(由) このへんは、弥三郎婆さんより、大石の婆さんと呼んでいますね。あのへんの地名が大石というのでね。子供がじゃんごろおこす(暴れる)と大石の婆さんが連れてゆくぞというのです。
飯田(秀) 大石の下に住んでいるので、大石の婆さんとよぶようになり、地名にもなったんでしょうね。 永見 吹雪の荒れる日なんか、障子がヒュウヒュウと音をたて、雪が舞いこむこともあったのですが、そんな時、子供は、いい子になっていないと弥三郎婆さんに連れていかれるといわれましたね、弥三郎婆さんは、風にのってとんで歩くといわれました。子供ごころにおっかなくて、その教訓で育てられました。 中村(由) とにかく、おっかない婆さんということで、おどされましたね。
安沢(欽) 初雪が降っても、あの婆石のところは積もらず、いつも石が出ているという急なところですね、あれだけ急な傾斜に石がくっついていて、落ちないのですから不思議ですね。
中村(由) 参謀本部の地図では、「姥岩」と出ていますね。

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