本文へスキップ

特集:八石山 八石山はわれらが庭 5 | へんなか

座談会 八石山はわれらが庭 5hennaka

へんなか 座談会 「八石山はわれらが庭 5」

八石山はわれらが庭 5


  鯖石から見た八石
中村(哲) 柏崎では、久之木と八石城趾間の一回分の草なぎ賃だけ出しているということです。石川できいたら、六月末から七月はじめになぐので、その後はきれいになっているということです。毎年、柏崎商業高校の行事で登山しています。
山崎 石川からあがってくる道は、いい道で、おりると不動瀧に出られます。
中村(哲) 中鯖石の公民館で「八石」というパンフレットが出ていますが、八石の裏側から見たものとして興味があります。むこうでは、こちらが裏側になるのでしょうが。その百号記念号を見ますと、八石城趾から小国の登山コースにつなげないかとか、久之木に鉱泉が出たので温泉にしたいという夢を描いているようです。実行にうつすのは、大へんでしょうが…
中村(哲) 石川のしみずばたの中村さんは、八石城趾から道をつけたいといっています。
中村(哲) 中鯖石で話していたら、年輩の人がやってきて、戦後父に連れられて、榎峠から御岳山へ行ったことがあると話していました。戦時中、中鯖石からの境界の道なぎを何年かやったんだそうです。その境界を通ってゆくと、八石城址へ行けるのではないでしょうか。

  八石城址
山崎 主峰の男八石は五一八m、女八石五一三mで、城より少し高いところに、ひのみという四九四mのところがあります。そこの手前から下りると水穴、乱穴(非常の場合隠れたり、物資を隠匿する穴)があるというのですが、私がいったときは、雪があって見つからなかった。
中村(哲) 八石城址の石碑のところから向う側へおりると清水の出ているところがあるそうですね。
山崎 むこうにも、こっち側にもあります。
中村(哲) 草薙ぎは水のあるところまで薙ぐときめてあるそうです。
飯田(秀) あの水で助かったと学校の先生がいっていました。
中村(哲) 山崎先生のいうひのみというのは、むこう側(鯖石側)では、中八石いうので、地図では、四九四.九mとなっています。
山崎 むこうの人は、ひのみといって三角点が打ってある。城址からおりると、八石小城というものがあり、これもいい城趾です。その下はけごんじというところがあり、人間の住んだ跡が見られます。そこまで小国の勢力がのびていて、北条毛利に対していたと思っているんですがね。
中村(由) 私の私有地と、中村さんの山が、ちょうど城址の反対側にあり、柏崎との境界になっており、うちの真向かいから回ってゆけたらいいなぁと思っていたのです。
飯田(秀) (写真を見つつ)鯖石からみた八石のようすだ。
女八石から下がったところは、武石、八王子、柏崎の三地域の境界になっています。今鉄塔が立っているところ、あそこから赤尾(柏崎市赤尾)へゆける、あの道は、赤尾の人が薙いだ。
山崎 むこうの人が八石というのは、女八石のことで、赤尾八石ともいっている。
飯田(秀) 赤尾からあがってくると、離山からあがってゆくのと同じ時間になる。赤尾の方が傾斜が急になる。

  放牧場
山崎 八石山の放牧は、いつごろからはじめたのですか。
中村(基) 初めのころ炭焼きしていて、牛を御堂平まであげました。だんだん村の人が転出して田んぼを手放す人が多くなり、そこを買って下の方へおりてきたわけです。
山崎 昭和四十五年こういったら、炭焼きと放牧両方やっていましたが…
中村(哲) 昭和四十年から五年間くらいが転出が激しく、二百軒の集落で、多い年には二十軒と一度に出た時もあり、残った人も動揺しました。
中村(基) 上は、夏でも涼しいのでしょう。春、牛を放牧すると、秋まで動かないのですよ。
中村(哲)たいていの牧場は、山の上へ作るでしょう。田をならして牧草を植え、沢地に牛を飼うのは珍しいと、いろいろの人から関心をもたれました。
山崎 今でも牛は、御堂平へあがっていくんですか。
中村(基) 今は、下が広いからあがる牛はいません。
中村(哲) 八石に登山した人が、牛が通っていて、こわがるので、道を変更したのです。
飯田(弘) 今百二十頭ほど放牧して、中に雄牛一頭いるのですが、十月山をおろすころ、八〇%が妊娠しているといいます。
中村(哲) 当時、歩きで、あわせわっぱ(弁当。曲げものを利用して、蓋と容器両方に飯をつめてあわせたもの)に、しょっぱい魚を入れて、二山もこえて山へ行ったものだから、暗くなって帰ってきた。牛の方が道をおぼえていて牛につれて帰ってもらったようなものです。
高橋 はじめて放牧しようといい出したのは、どなたですか。
中村(基) 安沢の年寄りが、子供を教育するため、田んぼを少なくして、養蚕と炭焼きを始めたのです。牛もはじめは一、二頭しか飼わず、一、二年出稼ぎにもいっていました。
安沢(欽) 当時の養蚕も、県下でも二、三番目くらいの大規模なものでした。
中村(哲) あのころ、家の中は、全部蚕の棚で、寝るところだけしかあいていませんでしたね。
中村(由) 養蚕は、光雄さんの親がやっていました。長野までいって桑を買ってきて、牧場をはじめたのは光夫さんの三十代のころだったと思います。
 あの牛は、人がゆくと、腹ばいになっていたのが立ちあがって、ぞろぞろ人についてくる。
飯田(秀) 牛は嬉しくてついてくるのだが、初めての人は、おっかなくなると思いますね。

 >  >  >  > 5 > 


→ 『へんなか 第八号 特集:八石山』目次のページへ

 

◆お読みになりたい方は、お近くの図書館でお読みになることができます。