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特集:八石山 八石山と共に生きる | へんなか

八石山と共に生きるhennaka

へんなか エッセイ 「八石山と共に生きる」

八石山と共に生きる                 中村 哲四郎


  地形

 八石山は古来、米山を盟主として、黒姫山とともに刈羽三山と呼ばれ、柏崎刈羽全域から親まれてきた。
 小国のシンボル、名山八石山は、「八石山と豆の木」「八石山の婆石」「弥三郎婆」「なたが池」等伝説の山、八谷城があったと言われる歴史的な山である。悠久の過去から仰ぎ見る町民に、無言の教訓を暗示してくれた八石山。自然景観の極めて単調なこの小国に、住民のよりどころとして君臨し、四季を通じ変化を与えているただ一つの山である。
明治十一年「山横澤村皇国地誌編輯」(四十二頁写真)の中で。
八石山
 本村子ノ方ニアリ掲示場ヨリ里程拾五町拾二間丑寅江行麓字松ノ木湯ヨリ絶頂ニ至ル登路八町廿三間瞼岨ニシテ近シ
 掲示場ヨリ子ノ方八町行字石川端ヨリ絶頂ニ迄登路廿壱町廿五間草山ニシテ本村ヨリ乾坎ノ方聳ヘテ嶺上ヨリ半面東南ノ方當村江属シ、西北半面ハ同郡善根村南条村及ヒ北条村江属シ、山脈ハ武石峠及剣ケ峯ニ接シ又国上弥彦角田山ニ相連ルト云フ、桝形山大八石合テ総名八石山ト称ス、以下略

又、大正元年の「山横澤村誌」には、

八石山
 西南二聳ユル八石山ハ幾多ノ高峯アリ。下八石、毛無八石、桝形八石、蝙蝠八石、桔梗ガ峯ト稱ス。最峻ナルハ桝形八石ニシテ海抜千八百四十二尺アリ、
山嶺ヨリ東南ハ本村ニ属シ山ニヨリ谷ニ依テ耕地トナス、以下略


 とあり、昭和三十年代迄は「耕して天に至る」と言われる程高い所まで耕地であった。
 近年過疎化や生産調整により、放棄された耕地の跡形が随所に見受けられる。かつては風雨豪雪や寒冷酷暑に耐えながら、急傾斜地を、鍬、鶴はし、モッコで開拓した先人の苦労がひしひしと胸に迫る。

  久之木峠と石川峠越え

 さてこの八石山を越して、鯖石、柏崎方面に通じる峠道は、久之木峠と石川峠の二ルートがある。
 久之木峠が何時頃開設改良されたか不明だが、離山から御堂平に向かって桝形山の中腹をだらだらと登る道で、この道は、戦後、物資の欠乏時代には、国鉄北条駅に近く、警察の取締りも比較的少ないことでヤミ米や、ヤミ物資の運搬ルートとして知られていた。
 御堂平より久之木までも山の中腹を通り、わけても屏風滝付近は険しく、冬の通行は出来ないと言ってよい。
 石川峠については、尾根づたいの大峠の道があり、冬は雪崩の危険もなく、カンジキを履いて一歩一歩踏みしめて峠越えをしたものである。(これを古道と言う。)
 近年昭和四十年代に冬季除雪体制が整備され、小千谷柿崎線の田島峠も自動車の通行が可能になった。それまでこの石川峠道は毎日誰かが通り、足跡が絶えなかった。
 雪道の峠越えは、村はづれの屋号峠の家の裏山の急坂をよじ登り、後は山なみの自然にまかせた尾根づたいの道を登る。
 石川峠の榎のところで、米山さんや柏崎方面の景色を見、天気はどうかと一服する。鯖石側にもう一つの山があり、それを登りきると今度は下る一方である。
 しかし、下る途中に「鳩が峰」と言う難所があり、両側から吹き上げる風で道は足の幅しかない。落ちないよう、転ばないよう神経を使いながら通り、下の杉林にたどりついてほっと一息を入れ、石川村の入り口の「多吉」の家にカンジキを預けて行ったものである。
 冬、雪崩の危険のない大峠を通るのは止むを得ないとしても、夏も同じ道はなかなか骨の折れることで、何時か改良工事の話がでて、山横澤側は仁天田の沢の中腹(今の車道の背面、北向き)を峠に向かって登り、鯖石側は山の南側(今の車道の上)を開削して道をつけた。 (これを旧道と言う) この道が鯖石や柏崎への物資輸送に、又、作神様として名高い米山薬師詣での講中の往来もあり、この改良工事については、近隣の村々に諮り応分のご支援を願って完成したもので、その記念すべき石碑が石川峠の旧道に建っている。
 ではこの工事は何時頃実施されたのかは明かでないが、明治二十二年以前である。

明治二十二年は市町村制が施行され、町村合併が行われた。
例えば、
増田村(山野田、三桶、苔野島、原)
結城野村(諏訪井、太郎丸、小国沢、上岩田、楢沢)
森山組合村(小栗山、森光)
中里村(新町、相野原、二本柳、上谷内新田、法坂、桐沢)千谷沢村(千谷沢、上新田、下新田)
前述の石碑には、下のように刻まれている。
大正元年の山横澤村誌には里程として、
 中鯖石村石川マデ一里七町
往時ハ八石山榎峠(鼻立テ、フッキリトモ云フ)ヲ越エ泥濘ト積雪トニ戦ヒテ鯖石及柏崎方面ヨリ貨物ノ輸出入ヲ圖り……

 とあり、当時如何に難渋したか想像に絶するものがある。私も二十二年山横澤村役場に奉職して冬は大峠の古道を何回となく通り、その険しさ厳しさ苦しさを体験した。
 村誌にある榎は今も健在である。まわりは三メートルを越え、厳しい自然の中を耐え抜いて夏の青空に大きく枝を拡げた逞しい姿は、名前の通り真夏の木と言った感じがする。
昔人々は境界に榎を植えて厄病や災難をくい止めるよう願ったと聞く。旅人も路傍の美しい草花を手折り、並ぶ石碑に旅の無事を祈ったものと思う。眼下の鯖石郷や柏崎の街なみ、遠く佐渡が島、眼前の米山、黒姫の霊峰を眺めたであろう。
榎の木陰で涼を求めて、憩のひとときをすごした。榎は数多くの人々をじっと見守りつゞけ、旅人にその健在を示し、安堵を与えたものと思う。

   山横沢と八王子
 現八王子集落は、かつて山横沢とよび、近隣の離山、芝ノ又をあわせて山横沢村を形成していた。昭和三十年小国村へ合併するにあたり、山横沢という地名から受ける印象がよくないと村の青年団の発議により、神社の名をとって八王子とよぶように地名を変えた。

 その榎の根元に四角な石に妙高山、施主中村作右ェ門、世話人中村勘右ェ門と刻まれてある。その作右ェ門は私の家であり、毎年登っては草なぎや木を切ってお詣りをしている。
 世話人勘右ェ門は前記新道記念碑にも、又、八王子神社の狛犬にも世話人として刻まれ、加納清瀧寺の大随求塔(ダイズイグトウ)には金二朱の浄財を奉納している。信仰心が深く、人の為に骨身を惜しまずとの気概が伺われる。
 榎のある場所には、妙高山、庚申塔、念佛供養塔(寛政十二庚申年三月五日)が土手の上に並び、道を隔てて前述の新道記念碑、妙高山、二十三夜塔があり、念佛供養塔は一九一年前の建立である。
 この峠越えについて当地出身の飯田貞固中将(昭和52年没、九十三歳)の次の一文がある。

   八石山と少年の頃
                        語る人 飯田貞固中将


 これは朝日新聞昭和十二年九月十二日の紙上、日曜談話室にのっていたものから、その一部をぬきだしたもので、飯田貞固さんのおゆるしを得て記念誌にのせることとしました。
 その全文は飯田智太郎さんがおもちです。
  八王子小学校百周年記念誌
       「百年の歩み」より


 わたしの生れは、刈羽郡山横澤村という雪深い寒村だ。ここの小学校は簡易三年制とて、ここを卒業後は伯父の藍沢敬一という漢学者が経営する、北条村の藍沢塾に通うことになった。
 日本外史、日本政記、孟子等の漢書に、子曰く………からうんと詰めこまれた。素読、暗誦には便所の中まで書物を持ちこみ全力を傾倒した事を覚えている。論語は今もなお、心の糧として、折にふれひもとく。(略)
 塾から更に小国高等小学校へ進んだ。ここを卒業して後、仙台の幼年学校へと志した。そんなわけで、教育制度の不完全から小学校教育だけで三回も転々として。(略)
 まことに平凡な、俗にいう点取り虫の生活をしてきたわけだが、今も懐かしく思うのは、一日に三里の山越えを敢行して、藍沢塾へ通学したことだ。
 八石山の麓を通るのだが、北国特有吹雪荒れ狂う冬の日の通学は、さすがにいやだったな………特別の防寒具とてもない田舎のことであり寒かったね、よく押しきったと思う。手足にはしもやけの絶え間がなかった。
 冬とあべこべに晴れた夏の日など、八石山の頂上にたてば一望千里、日本海の彼方にポカリと浮かぶ佐渡が島の容姿は、それこそすばらしい風景画そのままだ。この風光を見まもる少年の心はいつも爽快だった。漢書でいじめぬかれた時など、よくここに登ってうさばらしをやったものだった。(略)
 仙台幼年学校に進むようになったのも、別に深い理由があったわけでなく、ただ父(貞一氏)にすすめられたためだ。父はその頃村長を奉職し、種々の軍事講演会にも関係していた。
日清戦争後の軍人熱にあおられていたらしい父から、「軍人として、大いに君國のためにつくせ。」といわれてみれば、強くこばむ理由もないので、軍人として一生を捧げることに決心したのだった。
(略)

飯田貞固中将
 新潟県出身、陸軍大臣秘書官、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、騎兵第三旅国長、陸軍騎兵学校長、騎兵監、現在近衛師団長、五十四歳
現住所 東京都世田谷区北沢四−三七三


 この峻険な道路も昭和二十六年より改良工事を実施、三十二年十一月着工以来七年の歳月と総工費二千三百万円をかけて完成した。
 山横澤村の時代より幾多の銀難辛苦に耐えながら石川峠を越えたが、今、自動車道路が開通した。この時、北村県知事を招き、自衛隊音楽隊の行進を行い、村中挙げて竣工式を行った。夜は煙火三百発「祝道路開通」の仕掛煙火も上げてその完成を祝したものであった。(時昭和三十二年十一月十一日)
 この改良工事については、村の経常財源では賄われないので、村民に特別負担を願った。ただし、昭和二十八年は冷害で米の収穫が著しく減収したので、神社の神木二本を百万円で売却し、道路改良の財源とした。
 竣工の翌年五月、開道の碑を建て、その裏面には開道の由来を銘記、国県の援助と関係した先輩諸兄の名を刻み、永く宿願の達成を記念した。
 開道の由来の末尾に、
 「此の開通こそ地方住民にとって莫大な便益であり、永遠の幸福である。        飯田貞固
 撰書」とある。
 あの「八石山と少年の頃」の思い出と自動車道に改良された石川峠を見て、今昔一入の想いがあったことであろう。

  村のすがた

 八王子は八石山の山ふところに深く抱かれているので、八石山を仰ぎ見ることができない。しかし、この村の人々の生活は、八石山と深いかかわりの中で生きて来て、村の歴史も千年近くの重みがある。

村の創立については、大正元年の村誌第十一章沿革に、本村創立ニツキ口傅
(一) 長徳二年信州伊奈郡ヨリ飯田、内山の祖流人転セリト一条天皇、紀元千六百五十五年、九百十七年前(平成三年現在九九五年前)
(二) 建長七年中村の祖上州前橋地方ヨリ転居セリト、後深草天皇、紀元一千九百十五年。六百五十七年前、(平成三年現 在七三六年前)
(三) 中将の祖ハ八石城主毛利氏ノ臣ナリト云フ、
(四) 芝之又創立、萬治三年、紀元二千三百二十年、二百五十三年前(平成三年現在三三一年前)
(五) 離山創立、元禄三年、紀元二千三百五十年、(平成三年現在三〇一年前)
(六) 鈍三郎澤ニ住セシ部落ハ刈羽郡千谷澤村へ転居セリト年代不詳
 (注小国郷土誌によれば、千谷澤村千谷澤の茂野氏當主茂野マツ。何代目か不詳。同姓現在五戸)
(七) 十二平ニ住セシ部落ハ中魚郡孫四郎村へ転居セリト幾多の変遷を経ながら、山横澤村近年の状況は左の通りである。

旧山横沢村(含芝之又・離山)の戸数の変遷

数 戸 年 代
152戸 明11
172戸 大正
192戸 昭30
185戸 昭35
184戸 昭37
182戸 昭39
176戸 昭40
170戸 昭41
164戸 昭42
150戸 昭43
131戸 昭44
111戸 昭45
106戸 昭46
100戸 昭47
93戸 昭48
90戸 昭49
89戸 昭50
77戸 昭55
68戸 昭60
60戸 平2

 右の表が示すように、昭和三十年代の後半より過疎の波が静かに押し寄せて来た。
 特に四十二年より四十五年までは顕著で、十九戸二十戸とこの地を離れて行った。
 国は昭和45〜55過疎地域対策緊急措置法
   〃55〜65過疎地域振興特別措置法
   平成2〜6過疎地域活性化対策特別措置法
 とその時代に応じた対策を講じているけれど、真に過疎の地域に施策がなされたか、疑問視するところである。
 では転出した人達はどの方面を選んだのかを追ってみると、次の表のようになる。旧山横沢村転出者の転出先故郷を出て、他郷に人生開拓の道を求めるは幾多の困難苦労が伴う。

県 外
茨 城 162人
埼 玉 146人
東 京 129人
神奈川 72人
群 馬 47人
千 葉 42人
愛 知 30人
55人

 

県 内
柏崎市 172人
小国町 121人
長岡市 56人
72人
八王子 149人
  昭和62年4月現在

と思うが、それらについては後日の追跡調査が必要であり、大きな関心事である。
 又、在村の人達も神社、地蔵堂、公民館、道路等の施設の維持管理その他各種行事についても影響が大きかった。


  信  仰

  八王子神社
 八王子本村の中央に赤い屋根の八王子神社がある。建長七年(一二五五)中村の祖先が勧請したという。境内に大杉四本あり、目通り一丈七尺その昔をしのばせると小国町史に記されている。大杉については前述の通り、昭和二十八年に二本、昭和三十六年第二室戸台風の折倒木があり、危険のため伐採し現在は大杉はない。

町内の神社の勧請年の明らかなものは
 森光神社  (森 光)寛元三年(一二四五)
 八王子神社(八王子)建長七年(一二五五)
 小国神社  (小栗山)永仁四年(一二九六)
 新浮海神社(太郎丸)徳治二年(一三〇六)
 諏訪神社  (七日町)永享八年(一四三六)
 戸隠神社  (武 石)応仁元年(一四六六)
 諏訪神社  (上岩田)明応二年(一四九三)
 小国沢神社(小国沢)永正元年(一五〇四)
         (出典「小国郷土史」西暦になおす)
  以下略
 右の表を見ても八王子神社は古い格式をもっている。
 明治十三年に再建された社殿が大正八年八月二十五日焼失したので、大正九年、十年と二カ年の歳月と村民及他町村縁者の浄財寄附及び社殿諸道具の寄附により、近郷にまれな立派な拝殿、奥殿が完成した。


  地蔵堂

 神社の近くに地蔵堂があり、中鯖石清瀧寺の出張所となっている。
 古い建物だが何時頃のものか不詳。
 念佛講の人達が集まっては念佛を唱え、三月十五日お釈迦さんの日は、「百万遍」をまわし、団子をまいて一日を過ごす。
 春秋の彼岸、お盆など佛に関係する月によく集まる。
 地蔵堂の石段の左側に、火防地蔵尊と念佛供養塔の大きな石佛がある。上段の道祖神と共に、当村の石工藤原直隆(中村吉右ェ門)の作で、中鯖石清瀧(しょうらい)寺の大随求塔(だいずいぐとう)や浄廣寺の門前の六地蔵尊は、その台石に石工山横澤村藤原直隆、伜一知、作平と彫刻があり、その刻の深さと精巧さは近郷にまれな石佛として名高い。
 火防地蔵尊は、かつて三十数戸の大火があったと伝えられる、火災の恐ろしさから水の神である竜神を祀っている。さらに大地が生物を育ててくれるのと同じ偉大な力を感じさせるところの地蔵菩薩を調い、火防の地蔵尊、施主村中として願いを込めて祀っている。
 念佛供養塔は右に天下泰平、念佛庚申、廿三夜講中、左に日月清明、文化十五戊寅如月と彫られている。
 天下泰平は、天変地異の災害、悪疫の流行、戦乱や争いごとのない、平和な穏やかな村であることを願っている。日月清明は、太陽やお月様が何時も変りなく、風水害や雪害、旱魃や冷害がなく五穀豊穣であってほしいとの願いで庚申講、廿三夜講の講中で祀ったのである。
 火防地蔵尊と念佛供養塔の上方に道祖神が、衣冠束帯型・肩抱き型、字塔と三体並んでいる。耳の神・縁結びの神として、かつては毎日灯明の火が絶えなかった。
 文化二年石屋吉右ェ門(藤原直隆)施主飯田氏とあり、今より一八六年前の作である。
 境内には子安地蔵、マリア地蔵、法筐印塔を含めて十八体あり、赤坂の旧道には、馬頭観世音、念佛供養塔、百八十八番塔等、十一体、石川峠に六体、村はづれに阿弥陀如来、不動明王の二体などは、八石山に石が多くあったこと、八谷山が八石山になったのも石が多かったことを示すのかもしれない。
 当村に、石に関係する仕事、石工がいた。その人達が技を磨き、名工となり近郷近在に幾つかの石仏を残した。
 私達の祖先が、絶えず脅かされ続けてきていた、天変地異や悪疫・邪神の類、さらにはそれに追い打ちをかけるような呵責なく取り立てられる年貢や労役等、今日とは比べものにならない程、劣悪な環境条件の中を生きねばならなかった。その祖先たちであったればこそ人間として生き続ける限り、明日への希望、期待を求めていたことと思う。しかもその過程で、幾度か失敗や挫折感を体験し味わいながら、強く耐え抜いて来たことが感じられる。そのような厚い信仰心が多くの石仏をうんだものと思う。
 平成元年四月一日、小国町文化財「史蹟石仏群」として小国町教育委員会より指定を受けた。


  資源開発と観光

 八石山は小国町の東側から見ると実にすばらしい姿をしている。四季毎にふさわしい姿を、又見る人々に喜怒哀楽の様相も与えてくれている。
 八石山は「砿泉ノ涌出スル処多ク、昔ヨリ湯屋開業セシ、字仁天田(湯坂)字石川端(ブドー窪)字松ノ木湯等ナリ、現今ハ桝形山麓松ノ木澤ニ開業シツツアリ、眼病、切傷等ニ効アリト雖も分析明ナラズ、浴客年ト共ニ減ジタリ………」と『山横澤村誌』にあり、九十才を越した老人は行ったことがあり、その老人は、「大きい家であり、又農作業の田植や養蚕の仕事の終りには、仲間と連れだってお湯入りに行った」と語っている。
 今この源泉を引いて、安沢芳太郎さんが、松ノ木湯をやっている。
 昨年暮より本年三月まで、町で、温泉掘削をして、相当強い塩分を含む温泉成分のあるのが出たと聞く。
 温度と量にも関係するが、これの活用について今後を期待したい。
 地域バイタリティ育成事業として、ステーキハウスの建設、進入道路の開設、登山道の整備、展望台の建築等、年次計画で、八石山資源の開発と、関係する施設の整備を図っていることについて、多大な敬意を表したい。
 開発は緒についたばかりであり、これらの活用と事業の発展を期待するものである。
 さて八石山の表である小国の事は、多くの方々が既に承知されているところであるが、一方の裏にあたる、鯖石方面はどのようになっているか。
 伝説についても、「八石城主の墓参り」「八石山入山禁止の日」「雷休権現の由来」「殺された八石の殿様」「冬の八石に籠もったお坊さん」「吹き切り峠の石佛」「乳地蔵」「白米城の話」「八まん田の無銘碑」「八石山と豆の木」「弥三郎ババ」「八石山のババ石」など、最近では、「八石山の宝探し」など豊富な伝説が語り継がれている。
 また、八石神社、八石橋、と八石山に因んだ建造物があり、飛岡の浄広寺には、八石城主毛利大万之助浄広の墓、浄広の子周広の開墓による周広院が与板にあり、八石城が麓の善根の各村々と、深くかかわって来ていたことを語るものである。
 中鯖石コミュニティ振興協議会と、中鯖石公民館で発行している、広報「八石」は昭和四十八年六月より隔月発刊し、その数は百一号となった。
 その広報「八石」百号記念特集として、「提言近未来の中鯖石」として、八石山レクリエーション構想がイラストされている。
 公民館長の中村一三さん(元小国橋小学校長、法坂出身)は不在で、事務局の女の方が「夢ですよ」と云っていた。
 私は「夢で終らなく、夢は夢でも正夢で実現して欲しい。
特に八石城跡より小国の登山道迄は早急に実現するよう。」
と言った。

八石山レクリエーション構想

  町とのかかわり

 今まで八王子を主体にした八石山を書いたが、町全体ではどんなとらえ方をしているか。小国町は八石山脈、関田山脈に囲まれて、中央を渋海川が南北に貫流する典型的な盆地である。
 古来より、父なる山八石山、母なる川渋海川は住民生活に密接なかかわりをもっている。
 地域の住民の心のより処である学校が各地にあったが、児童数の減少で、統廃合を行い、今日を迎えたのは、ご承知の通りである。
 そこで各小学校の校歌はどうか。
 八石山と渋海川をともに歌っているところは増田小学校・上小国小学校・中里小学校・小国橋小学校・下小国小学校・小国中学校等々数多い。八王子小学校の歌詞に、「山紫に明け行けば、玉なす川のせゝらぎは…」八石山と渋海川の支柱として読んでいる。
 また、一般的には、小国音頭がある。八石山と渋海川と四季の風情をおり込み、軽快に歌っている
○八石山が晴れると、天気がよくなる。
○八石山に三回雪が降ると、根雪になる。
○八石山にかさ雪が降れば、その年は小雪。みの雪が降れば大雪。
など生活とのかかわりや、八石山のババ石にさわると、雨が降る。など俗信がある。

    その昔
    人は野に出て
    八石を仰ぎ
    くらしの営みをした
    優しく微笑める
    八石をみれば
    いそいそと働き
    堅い表情をしれば
    その怒りをおそれた

    そして幾年月
    人は八石の心を忘れている

 昭和五十一年十月発行された『小国町史』の扉の名文句であり、八石山の全景写真が掲載されている。紙面の都合があるかも知れぬが、町史の通り書くことにより、この句が名文句と言われる所以を味わってほしいと思う。
 この町、この地に生を受けた者は、八石と共に生き、その営みを続けなければならない。


  あとがき

 八石山の頂上は以前、山横澤村の所有地だった。昭和三十年の合併の折、点在する村有地は売却処分することとし、競売になり、私の父が落札した。二十年間、山横澤村役場に奉職し、勧業係・地籍係をやっていた父は村で一番高いところの村有地を誰にも渡したくなかった。そんな心情だったと思う。
 明治五年の人員調帳に中村作右ェ門は文化十一甲戊年十一月十一日出生で五十九才とある、私の曽祖父である。
 しかし、この人員調帳には、中村勘右ェ門の名は見つからない。よって、石川峠の新道改設は明治五年以前となる。
 書いている内に資料が見つかり、もっと村の様子など、記録に残す必要があると痛感した。時期が何時になるかは、わからない、なんとか、努力してみたい。それがこの稿を終るときの気持ちである。
 最近、八石山の名をつけて特産品として売り出しているものとして、小国産コシヒカリ「八石米」、黄金漬けや野菜としての「八石茄子」、ステーキハウス「八石」は八石牛の料理を、菓子にも「八石最中」などがある。小国町の象徴、八石山を使い、各分野において、実質的に業績が伸びること期待して止まない。
 尚、本文中にも調査不十分のところは、正してゆきたい。


   利用参考文献

 山横澤皇國誌編輯  (明治十一年調製)
 山横澤村誌    (大正元年調製)
 小国郷土誌   昭和十三年発行 小国郷教員協議会
 小国町史    昭和五十一年発行 小国町史編集委員会
 百年の歩み   昭和五十年発行  八王子小学校百周年編集委員会
 将軍のいる風景 昭和六十一年発行 富澤陵霧
 野の仏に視る  昭和五十八年発行 河部茂雄
 新潟県の道祖神 昭和五十二年発行 横山旭三郎
 小国町教育便覧 昭和五十六年発行 小国町教育委員会
 小国町統計書  昭和五十七年発行 小国町企画課
 刈羽部奮蹟誌  昭和四十一年発行 山田八十八郎
 八石      中鯖石コミニューテイ振興協議会
                  中鯖石公民館
 ふるさと    昭和六十二年発行 東京八王子会
                  二十五周年記念誌

           (なかむらてつろう・小国町八王子在住   
                 前小国町収入役・大正15年生れ)

新潟県管轄越後国刈羽郡山横沢村皇国地誌編輯
 

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