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特集:八石山 八石城について | へんなか

八石城についてhennaka

へんなか エッセイ 「八石城について」

八石城について                   山崎 正治

 一、八石城のすがた

 八石山は古来から米山を盟主として黒姫山とともに刈羽三山と呼ばれ、柏崎・刈羽の人々から親しまれてきた。
 この山の名前は昔「高見山」と呼ばれたがその後大きな谷が八ヵ所もあるというところから「八谷山」、次に一本の豆の木から八石もの豆が実ったという伝説か[ら]「八石山」と書かれるようになったという。
 この山を主峰とする八石山脈は地形的に見ると頚城山地から分岐して長岡市関原町まで一連の見事な山脈を形成しつつ続いている。主峰の八石山は標高五一八メートル、小国ではこの山を「男八石」「とがり八石」などと呼ぶ。この山の山頂付近は古来より「枡形(ますがた)」と呼ばれており今でも八王子集落の字名になっている。
 伝説によれば、かつてこの地に居住した殿様が多勢の家来を数えるに、この枡形に押しこんで一枡(ひとます)何人として数えたと言う。これはあくまで伝説であるが此の地がかつての城趾であることを物語っている。枡形とは、城郭の用語で、寄せ手を射撃し易くするために塁線上にコの字形に設けた塁壕の称であるという。
 現在の八石山の頂上は東北電力の無線用反射板が建てられ、その工事のため原形は大きく損じられているが、その北側に土塁の形跡が認められる。また久ノ木峠から頂上への道を辿ると頂上近く急坂付近に直径三メートル程のたて穴がある。おそらく雪を貯蔵して夏場の水のたしにしたものであろう。
 そのほか男八石女八石の谷間に位置する「御(み)堂平」付近に土塁や住居跡と見られる人工の形跡が点々と認められる。
 この城ははじめ小国氏の伝えの城を兼ね、小国―鯖石をつなぐ要路のおさえとして築かれ、後年は北条城の勢力下に入り、『八石城』の出城として逆に小国に対する番城の役目を果たしたものであろう。  さて、八石城はこの枡形とは別に存在する。主峰の南方約七〇〇メートルの地点鯖石側の主尾根に標高四九四・九メートルの三角点がある。小国側からはあまり目立たないが鯖石ではこの山を「ひのみ」と呼ぶ。「ひのみ」は「火の見」でおそらく昔「のろし台」を置いた処であろう。
 ここからの眺望は頗る雄大である。まず眼前には米山の雄姿が両翼を拡げて語りかけ、眼を左に転ずれば残雪を身にまとう霊山黒姫山が静かに迫り、眼下には曲がりくねって北上する鯖石川が春の日差しを白く反射しつつ、刈羽平野の彼方―日本海へと消えて行く。ただ東方は尾根伝え[ママ]に主峰の山頂とそこに建つ東北電力の無線中継塔が指呼の間にのぞまれるが、小国方面は平行する八石のもう一つの尾根にさえぎられて全く見えない。
 ここから鯖石方面へ下る。三〇〇メートル程で小道が二つに分かれる。右手の道を五〇メートル程下ると、崩れかけた横穴がある。これは水穴でこの城の水の手である。小道を左へ辿ると空堀がある。この城の背後を固める要害である。ここから上りとなり、約二〇メートルで頂上に達するが此処が名にし負う「八石城趾」である。
 標高四四一メートル、広大な削平地になっている。東西の長径一四五メートル、南北三五メートル、湾曲した楕円状をしている。老松が十数本立ち並び、爽やかな松籟を奏でている。城趾の北側の縁に立って俯瞰すれば善根七村は言うに及ばず、南条、北条、安田方面、そして柏崎・刈羽平野日本海まで一望に収めることができる。誠に王者の風格を備え、かつ要衝の地に築いたものと感心する。削平地のひのみよりの地点に「八石城趾」の石碑が建ててある。新潟県に数少ない陸軍大将、鈴木荘六の筆になるものである。
 では次にこの城の要害について見てみよう。
 まずひのみよりの東端にL状の土塁が築いてある。これは搦手より侵入する敵から城内を遮弊し、かつ防御するためのものと見られる。このほか東側にはこれと言った要害はない。要するに仮想敵は東側になかったと見るべきである。
 中央付近は広々とした削平地(さくへいち)で要害は見当らない。ほとんどの要害は西側に構築してある。まず西の端に大きな曲輪(くるわ)(山頂や山腹を削り取り平らにして敵攻撃の足場とした処)がしつらえてありその脇に土塁が築いてある。この城の虎口(こぐち)と見られる施設で、大手口から敵が攻め上がって来ても城内へ一挙に崩れ込むことの出来ない施設である。その奥は一段高い曲輪になっている。ここが本陣の位置であろう。
 その北側は一段下がった削平地で、その下に三段の曲輪が設けられている。南側も一段下って削平されているが、此処が通路になっている。この道の南にも曲輪が二つ程設けられている。
 頂上本丸の要害はざっと以上のようなもので大したものではない。この城の要害の最たるものは西側斜面に施されている。この城へ登る大手道が西側斜面である。今でも石川集落から登る道と不動瀧から登る道とが途中で合して一つとなり、この斜面を登って頂上本丸へ達している。道は斜面の南側を通っているが、要害は斜面全体に施されている。では次にこの斜面の要害を詳しく見てみよう。
八石城址図  本丸削平地西端から小道を一七メートル程下ったところに長さ三〇メートルの空堀が斜面をくるりと取り巻いている。この堀は土を盛り上げ縁(へり)が土塁状になっているところもある。堀の下は曲輪で幅十メートル、長さ三〇メートルであるが途中で東西に三段の段差を設けてある。その下は大きな切崖(きりがけ)(斜面に人工を加えて急にし、敵が攻め上がりにくくした施設)となり、その下は幅三メートル、長さ九メートルの小曲輪、続いて二メートル下に幅五メートル、長さ七メートルの小曲輪があって斜面を取り巻くように配されている。その下に更に二メートルの段差でまた帯状の曲輪である。幅六・五メートル長さ三九メートルこの曲輪の南側には山道をはさんで幅七メートル、長さ一六メートルの小曲輪がある。
八石城址鳥瞰図 また一段下って五メートルの切崖の下には幅四メートル長さ一五メートルの曲輪となり、ここからは急斜面の地山となる。この地山を一五メートル程下りると、また曲輪で幅四メートル長さ一七メートル、北の端に直径二メートル程の穴がある。落葉などで埋まっているが、これを取り除けば深さ二〜三メートルはあろう。この曲輪の下に切崖を介してまた曲輪がある。
 その曲輪の下方に変わった施設がしてある。それは東西の長さ二四メートル、南北の幅四・五メートルの凹地で、西寄りの中央付近が相当深い穴となり水が溜まっている。この凹地を長さ二〇メートルの土塁が取り巻いている。これは何の施設か?雪を蓄えた氷室(ひむろ)か?それとも物資を集積した処か?それとも馬つなぎ場か?はっきりしない。
 ここを通り抜けて三〇メートル程下ると、空堀がある。これは通路を遮るものである。以下いくつかの小曲輪を経て一五〇メートルも下ると石川集落と不動瀧の分かれ道へ出る。
 以上が西側斜面の要害の概要であるが、実に複雑かつ堅固に塁々として築いてあり、ちょっとやそっとで攻め上ることなど到底できない。詳細は平面の見取図と鳥瞰図を参照されたい。(図1・2参照)
 この城の下方には「八石小城」と呼ばれる出城が構えてあり、これも中々の要害である。また八石小城の下方には「けごんじ」とよばれる地域があり、ここは人工を加えた形跡が歴然としており、往時の住居趾と見られる。
 これらについては長くなるので割愛する。

 二、城歴の考察

 次に八石城の城歴について考えて見ることにする。
『中鯖石村誌』第十三節に左の一文がある。
 前の方略………本城ハ皇紀一千九百年代ノ頃大江毛利ノ一族来リテ拠リシトコロニシテ爾来数百年間相襲グ、城主姓ヲ佐橋トモ称セリ、坪野広済寺記録ニ佐橋庄地頭代毛利朝広公云々トアルヲ以テ見レバ鎌倉時代ノ当初ヨリ戦国ノ際ニ至ル迄地頭代トシテ居城セルモノナランカ、天正年中同族北条主毛利丹後守ノ為ニ滅スルトコロトナル………後略。
とあり、その前八節には、善根冬城址として
 大字善言ノ部落大之田飛岡ノ東方ニアリ今尚地名ヲ御屋敷ト称ス、即チ桝形大平ト呼ブ箇所及其付近一帯ナリ、

 城形塹濠今ニ至リテ尚歴然ナリ………中略………八石在城当時ノ冬城ト称スレトモ其麓二城下アリシ由ナレバ愚按スルニ八石城ハ一朝有時ノ際ニ備へ常時ハ殆ド此処ニ居城セルモノナラン

と述べている。
 また『刈羽郡旧蹟志』では、中鯖石村古城祉の部に「八石城趾又善根城」として、

 八石山は数峯に分る其最高峯を大八石、次を桝形、又次を大石と称す、桝形即ち城址なり、善根の石川より絶頂に達する大約一里、半腹迄は耕地若しくは林■[木偏に越]の間に崎■[山偏に区]たる一条の細径あり、躋攀するに甚だ難からざるも半腹以上は只菅茅の茫々として風に戦くあるのみ、其絶顛の平坦なる処、南北大約百間、東東十四五間乃至二十間、小土手二箇所あり、三面は都て断崖にして人馬を通せず、谷を隔て弧峯の峙つあり、里人之を火の見と称す乃ち往時峰燧―を置たる処―其他記すべきことなし。  城将は毛利大萬之助と里人は伝れども其正確なる名字並に系統年代共詳ならず。暫く各寺の由緒其他に載する所を左に抄録し、付するに本志の意見を以てす。

と述べ、以下浄広寺、周廣院、清瀧寺の由緒書、旧城拾粋録、藍沢南城撰鯖石君略伝、更には加納、宮平城址等について例証を挙げ結論として八石城主は毛利大萬之助浄広、その子毛利大萬允周廣であろうとし、周廣が北条丹後守に謀殺された事件は暫く置くとして、

 八石山の城堤については疑点なき能わず山の高さ大約一里、加るに険峻にして人馬の登降極て便ならず、果して一旦塁を構しことあるも、後移転の挙に出ること里人の説く所の如くならん、況や与板城址につき、地名鑿々証すべきものあるをや。

と述べている。即ち八石城は険し過ぎて実用に供し難いので、周廣院の裏山にあたる、与板城址に移したのであろう。というのである。

 次に『温古の栞』第拾二篇には

 刈羽郡佐橋荘八石山の頂上に古城跡あり、此れは大江広元の孫経光以来毛利家の居城にして、その歴世は詳かならざれども、旧記によれば大炊介浄広、民部亟周広、上総介広俊等住し、一族大万之助清久、毛利壱岐守秀之等各接近の地に居城を構え……後略。

とある。県下の名著『越後名寄』には、

 善言、北条村東、八石山の山足也、毛利大万之助居城。 と簡潔に述べているし、越後野志には八石城の記載はない。

また『刈羽郡案内』では、

 曹洞宗端龍山浄広寺は、文明十七年八月八石山の城主鯖石殿(浄広)建立す……後略。 善根城又八石城、鯖石殿と称す、系譜詳ならず……後略。
 禅殺周広院、後山十二平あり、八石城主冬城を構えし所なり……後略。

等々と述べている。
 これ等の諸書をつきあわせてみるとまず城は三つ出でくる。
 即ち一つは八石城であり、一つは善根城であり、もう一つは与板城である。また人物としては大江毛利氏が登場し、その中に伝説雷休権現と浄広寺、周広院縁起等が錯綜していることがわかる。
 これ等の事柄は一先ず措くとして今度は別な面から八石城を見ることにする。
 小国盛光系図(小国郷土史所載)に左の一文がある。

 頼盛(小国頼連の子)文治三年(一一八七)越後上田合戦の時高名ありて是より魚沼三島頚城三郡郡司となり八ヶ谷城に住す。
 盛光(頼盛の孫)小国源太郎左衛門、盛光村号、寛元二年(一二四四)鎌倉北条の勢二万騎八ヶ谷城に攻来り合戦、小国殿敗北して中村(昔の森光村)に来り切腹す。時に四十四才、国利(盛光の弟)長七郎、延命の原に戦死、光信(同)、源八郎、八ヶ谷城討死。

とあり、此処に八ヶ谷城即ち八石城が出て来る。また『越後野志』巻十二旧跡の大塔宮潜居地の項に、

 足利左馬頭直義、相模次郎時行ニ襲ハレ鎌倉ヲ遁ル時、淵辺伊賀守ニ命ジテ兵部卿ノ宮ヲ弑セシム、伊賀守山ノ内ヨリ従者六人ト引返シ、薬師堂ノ谷ノ土牢二至レバ、宮ハ闇夜ノ如キ土中ニ在シテ、昼モ知給ハズ、燈を挑テ御読経アソバスヲ見奉リ、イト惜ク哀ニ思ケレバ、従臣六人ノ中ニ、小国七郎ハ越後刈羽小国保ノ者ナレバ、宮ヲ守護シ奉リ、潜ニ宮ノ侍臣尾形備中守ガ居城、小国保八石城ニ遁来テ此処ニ置奉ル……中略……小国保ニ八谷山アリ、一ニ八石山トモ書ス、八谷城ハ蓋此山中ニ在シカ……後略。

とある。相模次郎時行の乱は中先代の乱とも称し建武二年(一三三五)であるからこれらの記述を信ずるとすれば、文治年間より南北朝時代の始期までおよそ一五〇年間位、八谷城は小国保=小国氏の城、後に尾形氏の城ということになる。
 前にも述べたとおり、八石城の防備態勢はすべて鯖石側に向けて施工してある。ということは、小国勢力が八石山脈を越えて鯖石側即ち佐橋荘に進出するための橋頭保として構築したのが八石城であり、八石小城なのではなかろうか。筆者も調査を始めたころは、大之田にある御屋敷が八石城の本城で、山頂にあるこの城は本城が陥落しても最後の拠点として死守するためのいわゆる「詰の丸」であろうと考えた。しかし、大之田の城から尾根伝いにいくら調査しても八石城との脈絡は探しあてることができなかった。それらのことから八石城と大之田の城は関係ないものと断定せざるを得なかった。そのためのもう一つの根拠は城の構築法が全然違うのである。八石城のそれは鎌倉時代末期から南北朝期にかけてのもので、時代がかけ離れているのである。従って『中鯖石村誌』の大之田の城を八石城の冬城とする説にも賛同しかねるし、『刈羽郡旧蹟志』の八石城移転説にも賛成できない。
 かくて筆者は次のように考える。
 八石城は小国勢力が佐橋荘へ侵攻するための足がかりとして構築されたものである。一時期は小国勢力が頗る強大であった。それを物語るのが「けごんじ」の住居址である。
 そして佐橋氏を名乗る毛利一族が居城したのが大之田の城、即ち御屋敷で、越後名寄の言うとおり「善言(根)北条村東、八石山の山足也。毛利大万之助居城。」と、この簡潔な記述こそ真実を物語るものと解したい。八石城があまりにも景勝の地にあるために、それを即毛利氏に結びつけ、大之田の城と混同したり、冬城としたり、また峻険過ぎて実用に堪えず移転した等無理な推測をしてたきらいが今まであったようだ。
 大之田の城も規模が頗る広大で、独立した一つの小山を全山これ要塞と化し、あらゆる手法を用いて大変堅固に構築してあり、構築法から言うならば八石城よりはるかに強大な城である。八石城とは全然別でこの城こそ「善根城」と言うべきである。そしてこの城にまつわる物語が雷休権現の由来であり、越後名寄の言う毛利大万助こそ佐橋荘を代表する勢力として、同族北条毛利丹後守も一目置かざるを得ない強大な力を有していたものと見られる。

 三、雷休権現物語

 それは、戦国時代も末頃のことだったということでございます。此処刈羽郡佐橋荘一帯は妖しい「鬼火」の話でもちきりでございました。
 此の頃、夜な夜な妖しい火の玉が八石城から出て物凄い唸り声を発しながら北条城を目指して飛来し、暫く城の上空を旋回した後一転して、加納は周広院の上空に到り、やがては消え去るというのでございます。しかもその消え去る時、周広院の上空では千人もの僧侶が発するかと思われるような読経の声が響き渡り、人々をして奈落の底へ引きずりこむような不気味さだったということでございます。
 その火の玉の数はおよそ四、五十ばかり、先頭の火の玉は一きわ大きく、光は青味を帯びて尾を引き、凄まじい勢いで飛行し、発する声は万雷の如く、通り筋にあたる村々の家は、家鳴り震動物凄く、人々は生きた心地も無く、入り口を固く閉ざし、布団をかぶって只管無事に時の過ぎ去るのを神仏に祈りつつ震え戦いていたのでございます。
 これは「鯖石殿の崇り」に違いないと噂は噂を呼び、近隣の村々は勿論、特に北条城の城内は穏やかならず、城主以下生きた心地もなくて物情騒然として、中には恐怖に堪えられず、荷物をまとめて他領へ逃げ出す者も出る始末だったとのことでございます。
 ではいったい「鯖石殿の崇り」というのはどんなことだったのでございましょうか。それには次のような話があったのでございます。
 その頃、佐橋荘に毛利大満之助浄広という武将がおられましたそうな。この人は、南条毛利経光の子孫で武勇に勝れ、詩文にも通じ、立派な武将でありましたので、人々は「鯖石殿(佐橋殿ともいう)」と呼び、それはそれは尊敬していたということでございます。
 同じ頃、北条城には同族の毛利丹後守が居城しておりましたが、何とかして善根城を謀略して我が物にしようといろいろ画策しておりましたが、なかなかそんな隙がなかったのでございます。
 たまたま春日山城に有力な後盾を得た丹後守は、善根城との領分のことについて言いがかりをつけ、大満之助を陥れようと謀ったのでございますが、この争論は衆目の一致するところで大満之助には一点の非も無く春日山の判決は大満之助の勝訴となり、丹後守には却って惨めな結果に終わったのでございます。  心穏やかならざる丹後守も、日頃大満之助の人望と武勇の程は十分過ぎる程思い知らされているので、面と向かって到底勝負にならないと悟った彼は、何とかしてたばかり殺してくれようと恐ろしい計画を立てたのでございます。
 まず仲直りのしるしとして我が娘を大満之助に嫁入らせ、聟、舅の間柄となって大満之助を北条城へ招待したのでございます。
 丹後守に下心ありとは露知らず、快く招待に応じた大満之助は、軽装のまま、これも平服姿の家来四、五十人ばかりを引き連れて北条城へとやってきたのでございます。
 さて、城内では大事な聟殿の到来とあって、城主以下それはそれは丁重なもてなしぶりで、山海の珍味と美酒をふんだんに用意し、上方(かみがた)から呼び寄せた芸人共に鳴り物入りで唄や踊りを披露させなどして、それはそれは大変賑やかだったとのことでございます。やがて宴も終わり、入浴をすすめられた大満之助は上機嫌で湯殿に到り、何の気なしに衣服を脱ぎ捨て、木の香も新しい湯舟の中にどっぷりとその大きな体を沈めたのでございます。
 一方、丹後守は大満之助が湯殿に入り、湯舟の湯が溢れ出たのを確かめると湯殿に固く錠を鎖(おろ)させ、風呂にはどんどん薪をくべさせたのでございます。たまらないのは湯舟の中の大満之助で、「謀られた!」と気付いた時は既に遅く、呼べど叫べど応ずる者とて無く、頑丈な板壁を素手で破れるものでもなく、煮えたぎる湯舟の中で恨みの形相物凄く、素裸のまま見るも無惨な最期を遂げたのでございます。  それと時を同じくして、大満之助の家来達も酒に酔いしれていい気持ちでいる処を城中の侍共の襲撃を受け、これも一人残らず惨殺されてしまったのでございます。
 城内の異変は、外に待たされていた小者の注進によって大満之助浄広の子、大万允周広にもたらされたのでございます。周広は周広院の裏山にある与板城に居りましたが、この知らせに大いに驚き、近習の家来達を引き連れ、おっ取り刀で北条城へ駈けつけたのでございますが、予め仕組まれたことでございますので、一早く戦備を整えた丹後守は善根城目指して、まさに進撃の直前だったのでございます。この様子を見て、もはや敵すべからずと悟った周広は無念の涙を流しながら引き返し、周広院の大杉の根元で割腹し、あたら若き命を自らの手でたったのでございます。一族郎党、女子供まで皆これに殉じたと申しますから誠に哀れな話でございます。今も北条駅の近くにある駒返橋は、駈けつけた周広が止むなく駒を返した処と伝えられ、周広院近くにある稚児塚は、女子供が目害した場所と伝えられているのでございます。
 すでにお気付きのことと存じますが、この毛利浄広の亡霊が雷となって荒れ狂い、「鬼火」「鯖石殿の崇り」として恐れられたというわけでございます。
 その頃北条に「神興山普広寺」という禅宗のお寺がございまして、時の住職は四代目「文経」和尚でございましたが、何とかして亡霊の崇りを鎮め、人々の危難を救わんものと固く心に期し、食を断ち、一心不乱に加持祈祷に努めましたところ、遂にその功徳によって悪霊は鎮まり、民情も平静を取りもどすことができたのでございます。普広寺はさらに大満之助の霊を雷休権現と崇め、神興山鎮護の神として祀ったのでございます。
 雷休権現は、今でも北条普広寺の地続きに鎮座ましますが、社名は八柱神社と称されているのでございます。
 長くなりましたので、私の話はこの辺で終わりといたしますが、この物語は『白川風土記』『刈羽郡旧跡志』『北条町史』などを参考にして私が構成したものでございます。尚、この物語の史実的裏付けにつきましては、私の『柏崎刈羽の古城址第二集』に述べてございます。下手な話を長々と誠に失礼いたしました。感謝して終わりとする次第でございます。

 四、結び

 この雷休権現の話から派生したのが伝説「忠臣水」であることは既にお気付きのことと思う。
 なお、八石城をもっと詳細に述べるにはこの城と最近まで混同されていた「善根城」について詳説し、その後両者をつけ合わせて論求する必要がある。しかし、それでは冗長となり本誌の趣旨でもないので省略する。興味のあられる方は私の『柏崎刈羽の古城址第二集』をお読みいただきたい。
 今、八石山は登山道が整備され、急峻な処もあるが、女子供でも容易に登れる。最後に「展望台」から「ひのみ」へ向けての遊歩道を是が非でも開き「八石城」を探訪できるようにしてもらいたいことを熱望して筆を措く次第である。


 

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