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特集:八石山 八石山の伝説 | へんなか

八石山の伝説hennaka

へんなか 資料 「八石山の伝説」

八石山の伝説                   山崎 正治

  なたが池

 長く続く八石山の二〇〇メートル程下ったところにくぼみがあって水溜りができています。昔八王子の「あらやしき」という家のおじいさんが「ぼよ切り」に行って、いっしょうけん命なたをふるって木を切っていたら、どうしたはずみかなたが手からはずれて、みずたまりのあたりに「ボチャーン」とおちてしまいました。おじいさんはだいじななたなので一生けんめいさがしましたが、なかなかみつかりませんでした。さがしているうちになんだかそのみずたまりがだんだん大きくなるようでもあるし、深くなっていくようでもあるので、気味悪くなったおじいさんは家へ逃げて帰りました。そうして村の衆にその話をしたのでみんなは半信半疑で行って見ると、なるほど水溜りがだんだん大きくなるし、深くなっていきます。見ているうちにたまった水は青々と澄んで、とうとう池になってしまいました。それから誰ということもなく、あのなたが池に落ちて主になったのだ。あれは「なたが池」だといわれるようになりました。
 なたが池は今でもあります。長い間に土が流れこんで小さくなったけれども、まわりによしが生いしげり、清水が湧いています。
 今から百年〜百五十年くらい前には、その池の上五〜六〇メートルのところに「御岳(おんたけ)」というお宮がまつってあり、四〜五〇年前までは神主さんが来てお祭りもあったということです。またこのお宮はなたが池の水を「御手洗水(みたらせ)」にしていましたが、この水を飲むと病気が治ったということです。今はお宮は絶えてしまいましたがあのあたりには大木が茂っているということです。

  ますがた(桝形)

 八石山の頂上は平らになっていて、約一・五アールほどの広さがあります。その平地のふちが少し高くなっています。
このふちは昔大きな桝を作った名残りであるといわれています。昔この山に城があったとき、ここの城主が頂上に大きな桝を作り、家来を三十人〜四十人くらい入れてかん定(じょう)するのに使ったということです。人間を桝ではかるなんて乱暴な話ですが、それからこの場所を「ますがた」と言うようになったと言われます。
 今ではこの頂上に東北電力株式会社の無線の反射板が立っています。標高五一八メートルのこの頂上は眺めがよく、東は長岡・弥彦、西は高田・黒姫、天気のよい日は佐渡ケ島も見えます。

  八石山の婆石

 八石山の中腹(ちゅうふく)に大きな桜の木があって、その下に岩穴(いわあな)がありました。そこに昔鬼のような老婆(ろうば)が住んでいました。夜になると風に乗って麓の村々にやってきて子どもをさらっていき、食べてしまったということです。村の人達は「彌三郎婆(やまさぶろうば)さま」といって恐ろしがりました。「彌三郎婆さまが来るぞ」というといたずらをしていた子どもはぴたっとやめたし、泣いていた子もすぐ泣きやみました。この婆は昼は大きな石の扉(とびら)で穴の入り口をふさいで穴の中にとじこもっているので退治することもできませんでした。しかし世の中がだんだん開けてくるとこの鬼婆の神通力(じんつうりき)もだんだんきかなくなってきたのでとうとう彌彦の方に逃げていき、伊夜日子三太郎(いやひこさんたろう)の後妻(ごさい)になったということです。この鬼婆は中鯖石村久木太(今の柏崎市大字善根字久木太)の彌三郎の姑婆(しゅうとばば)だということです。
 ところが彌彦に行った鬼婆はまたまた本性をあらわして、夜になると近所の子どもをさらって来て食べ、その着ていた着物を一本の杉の木につるしておきました。村の人達は大へん困ってどうしたらよいかえらい坊さんに相談しました。えらい坊さんの考えで鬼婆を神様にお祭りすることになり、お宮を建ててやり、「妙多羅天女(みょうたらてんにょ)」という名前をおくりました。その後鬼婆は悪いことはぴたりとやめ、かえって子どもの守り神となり、近郷近在(きんごうきんざい)の人達からありがたがられるようになりました。彌彦の競輪場の裏手にこの妙多羅天女のお宮があり、その山手の方に大きな婆杉が今でもそびえ立っています。

  八石山の大豆

 昔、八石山にとても大きな大豆が生えていました。たくさん実がなったので村の人たちが総出(そうで)で収(しゅう)かくしました。あるわあるわ一本の豆の木に八石(約一四四〇リットル)もあったので、それから八石山というようになりました。ある日大風が吹いてこの大豆の枝が折れて南の方にとばされていきました。落ちたところの村の人たちが大喜びで実を収かくしたら桶に三ばいもありました。そこでこの村の名前を三桶というようになりました。今の上小国地区の三桶がそれです。その後切り倒された大豆の大木は北条村(今の柏崎市北条)の専称寺(せんしょうじ)というお寺の門の柱になりました。今でもその門は残っています。

  忠臣水の由来

 昔から「久之木峠」は小国と佐橋(鯖石)を結ぶ大切な街道でした。人々は背に重い荷物を担い、あえぎあえぎ此処を通りました。どちらも急な坂道です。人々は苦しみ、特に夏の暑い時はのどがかわき水が欲しくなりました。
 或る日ここを通りかかった一人の坊さんが持っていた錫杖(しゃくじょう)を道の脇に突き立てると、不思議にも其処からきれいな水がこんこんとわき出てきました。おかげで峠を行き交う人々はどんなに助かったことでしょう。誰言うことなくこの水を「坊さん水」と呼ぶようになりました。
 この坊さんは弘法大師だったといわれています。鯖石の清瀧寺(しょうらいじ)には今もその「錫杖」が宝物として大切に保存されているということです。
 この清水はやがて戦国の世になると八石城の「水の手」として重要な役割を果たすようになりました。八石山の桝形(ますがた)に毛利大万之助という豪族が要害堅固な城を構えていました。同じ頃北条に居た毛利丹後守は、何とかしてこの大万之助を滅ぼし、八石城を手に入れたいと思い、いろいろと画策しましたがその隙がありませんでした。
 一計を案じた丹後守は自分の娘を大万之助に嫁入らせ、聟、舅の間柄となって安心させ聟殿を響応するという名目で大万之助を北条へ招待しました。
 北条へ着いた大万之助はすすめられるままに木の香も新しい湯殿に導かれ、その大きな体をどっぷりと湯舟に沈めました。大万之助が湯舟に入ったのを確かめると丹後守は湯殿に固く錠をおろさせ、風呂釜にどんどん薪をくべさせました。
 大万之助が「謀られた!」と気付いた時は既に遅く、やがて煮えたぎる湯舟の中で素裸のまま無惨な最期を遂げてしまいました。
 ついて行った家来たちも一人残らず斬殺した丹後守は、時を移さず軍勢を差し向けて八石城に攻めかかりました。
 しかし、重臣上総介広俊は手勢をまとめ、要害に立てこもって激しく抵抗したので、さしもの北条勢も攻めあぐみ、どうしても城を落とすことができませんでした。
 あきらめた丹後守は城を遠まきにして兵糧攻めにしました。
 特に谷川には番兵を置いて城兵が水を汲みに来られないようにしました。ところが城には「坊さん水」があります。十日たっても城兵はへこたれませんでした。
 広俊は何とかして持ちこたえ主家を再興しようと木の皮、草の根を食べてがんばりましたが、兵達は日ましにやせ衰え、骨と皮ばかりになり、歩くことさえ困難な状態になってしまいました。
 ここにいたって広俊は遂に意を決し、丹後守に使いを出して家来達の命を助けるという条件で降伏し、広俊は切腹して果て、城は丹後守の手に渡りました。
 その後「坊さん水」は広俊の忠節心を称えて「忠臣水」と呼ぶようになったということです。

  マリヤ地蔵

 八王子集落のまん中頃に地蔵堂があります。その境内には道祖神、子育地蔵、火防(ぶせ)地蔵など十数体の石地蔵さんがまつってあります。この中に一体だけ手に持った錫杖(しゃくじょう)に十文字が刻んである地蔵さんがあります。この地蔵さんは「陰(かく)れキリシタン」のマリヤ地蔵だということです。  昔、鯖石の加納の清滝寺(しょうらいじ)というお寺の小使いをしていたお婆さんがこの地蔵さんを隠(かく)れて朝晩拝んでおりました。その頃はキリスト教が固く禁じられていたのです。或る時拝んでいるところを和尚さんに見つけられて大変叱られました。和尚さんはお婆さんにその地蔵さんをすぐに捨てるようにきつく言いつけました。お婆さんはどうしたらよいか本当に困ってしまいました。
 それを聞いた八王子の「ほりばた」のおじいさんが可愛そうに思って八王子に持ち帰り、このお堂に安置したのだということです。

(やまざきしょうじ・町内法坂在住       
柏崎・刈羽郷土史研究会員 大正14年生れ)

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