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越後の風土 | 高橋実のひとりごと

高橋実のひとりごとmonologue

越後の風土―養父母の胸の如くに

高橋 実
平成23年4月

平成二十二年、柏崎市の市制施行七〇周年を記念した講演会で早稲田大学名誉教授の鳥越文蔵氏は浄瑠璃本「弘知法印御伝記」発見について話をされた。

この本は幻の御伝記と呼ばれ、長い間その存在すら忘れられていたが、昭和四十三年イギリスの大英博物館に保管されていた本が鳥越氏によって発見され、平成二十一年六月、越後猿八座によって柏崎で上演されたという。残念ながらこの公演を見る機会を逸したが、弘智法印の話を聞き、私は、木喰五行上人の生き方と重ね合わされた。二人は同じ真言宗僧侶として木喰戒を受けて諸国を廻国した遊行僧であった。前者は越後で即身成仏して命を終えた。
後者は越後の寺や堂に篭もってひたすら彫仏に専念した。この二人に加えて、さらにもう一人、新潟県が越後のミケランジェロとよんで、観光の目玉として、二十二年に光が当てられた幕末の彫刻家石川雲蝶の事に考えが及んだ。そこに九州島原藩士釧雲泉に考えが飛んだ。さらに近代にはいって、俳人種田山頭火にも及んだ。

弘智法印

長岡市寺泊野積西生寺の弘智法印即身仏は、全国の即身仏の中で最古の、鎌倉時代のものといわれている。ネットに紹介された弘智法印は「弘智法印即身仏御伝記」によると、鎌倉時代千葉県八日市場市(現匝瑳市)大浦の鈴木五郎左衛門の二男音松として生まれた。

幼時に大浦村の蓮花寺で僧となり、後に蓮花寺の住職となるが、地元の檀徒と対立し、五〇代初めに蓮花寺を去る。五〇代後半から全国仏教伝道の旅に出る。弘智法印は、弥彦山の麓「岩坂」にたどり着き、ここで三千日にわたる木喰行を積んで、貞治元年(1366)座禅の姿のままで入定した。七〇余歳だったといわれている。江戸時代後期日本橋の人形浄瑠璃一座が弘智法印をモデルにして人形浄瑠璃『越後柏崎―弘智法印御伝記』を上演した。しかし、その後一度も上演された記録はなく、本も存在せず、『幻の御伝記』と呼ばれていた。それが今回の公演のきっかけとなった。

木喰五行上人

木喰五行は享保三年(1718)現在の山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑に生まれ、十四歳で出奔、二十二歳で相模国大山不動で出家、四十五歳で水戸の真言宗羅漢寺で木喰戒を受けて、五十六歳で回国修行に出立、蝦夷から九州日向国まで足を延ばし、文化七年(1810)九十三歳で没す。広辞苑には「江戸後期の遊行僧。甲斐の人。晩年日本回国と千体仏造像を発願して各地を遍歴、日本全土に特異な木彫仏を残す」とある。その木喰五行がもっとも多く造佛したのは、新潟県中越の各地だった。ここには、全国で例を見ない三十三観音像など群像が彫られて今に伝えられている。千体佛祈願のうち現在六百体ほど残っているが、その内二百六十体が新潟県に残っている。越後に残る木喰佛の群像は、長岡の白鳥宝正寺、上前島金毘羅堂、小千谷小栗山観音堂柏崎市石曾根安住寺の秩父三十四観音などが残されている。この木喰仏は、長く人に知られずにいたが大正終りに民芸家柳宗悦によって再発見された。木喰五行は、よほど越後の地が心地よかった言うべきであろう。

この木喰に「南無阿弥陀佛国々御宿帳」と名付けた記録が残っている。これは木喰が回国の際に宿泊地・宿賃・喜捨を受けた金品など克明に記した日記とも言うべき記録である。木喰は天明元年(1781)五月、六四歳で佐渡に渡り、四年後の天明五年六月去っている。その記録の天明五年六月十三日に「カウチホウイン ノジク」と記録されている。弘智法印の枯骸を訪ねているのである。自らと同じ木食戒を受け、即身成仏した弘智の枯骸を見た。そしてこの日は泊る宿がなかったせいか野宿せざるをえなかった。自らの境涯と弘智の境涯を重ね合わせて木喰はどのような一夜を過ごしたのであろうか。

釧雲泉

江戸後期の南画家で旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画家釧雲泉は、宝暦九年(1759)九州島原藩士の子として生まれ、全国を放浪した。雲泉が大窪詩仏とともに越後に入ったのは、文化三年(1806)四十六歳頃だった。江戸で雲泉が交わった人々は、亀田鵬斎、大窪詩佛、柏木如亭らがいる。柏崎・三条・燕・十日町・出雲崎と旅を続けた。越後でも弟子石川侃斎、倉石乾山、行田八海など多くの文人・画家がいる。佐藤耐雪、吉太郎著「出雲崎編年史」中巻によれば多くの文人と交流を重ね、出雲崎浄那寺で住職管泰蛾と意気投合し、ここに逗留して近くの蕎麦屋で酒を飲むうち、文化八年(1811)五十三歳で急死、浄那寺に埋葬された。木喰が前年文化七年に没している雲泉はその翌年であった。木喰の仏像は出雲崎にもあり、お互いに相手の存在を意識していたであろうか。耐雪氏らの尽力で、雲泉の碑が出雲崎二子山に建てられたのは、大正十年六月の事であった。またこの碑の建立を記念して、新潟で雲泉遺墨展覧会が開かれたという。

石川雲蝶

幕末の彫刻師石川雲蝶は、文化十一年(1814)江戸の雑司ヶ谷に生まれ、本名は安兵衛、若くして江戸彫石川流の彫物師として名をあげ、二十代で幕府御用勤めに、三十二歳の時越後に入り、永林寺(現魚沼市)二十二世住職円応弁成和尚の招きで越後に入る。「良い酒と鑿を生涯与える」という言葉で承諾、金物の町三条に婿養子に入り、酒井と名乗った。永林寺の欄間や西福寺開山堂(現魚沼市)秋葉神社(現栃尾市)など各地に彫刻を残した。明治 十六年(1883)七十歳で没した。

種田山頭火

山口県生まれの放浪自由律俳人種田山頭火は昭和十一年、長岡に立ちより、同じ自由律俳人小林銀汀と交流した。

柿川ほとりに山頭火の句碑が立っている。ネットによれば次のような説明がある。

種田山頭火の句碑は、柿川に架かる追廻橋の脇(下流側)にあります。平成三年八月に山頭火句碑建立会の有志一同が建立しました。種田山頭火は、明治十五年(1882)に山口県防府市に生まれました(昭和十五年没)。「行乞流転」とも呼ばれる酒と旅の日々を送りながら、五七五の定型や季語にとらわれない自由律俳句を確立し、漂泊の俳人といわれています。号の「山頭火」は、師の萩原井泉水にならって、生まれ年の干支を使い、その人の運勢を判断する納音の一つを付けたものです。代表作には「分け入つても分け入つても青い山」、「おちついて死ねそうな草萌ゆる」、「夕焼うつくしく今日一日つつましく」などの句があります。句碑には「図書館はいつもひっそりと松の秀」と刻まれています。また、裏面には「長岡の俳友小林銀汀氏宅の二階より若葉ふりそそぐ隣接の互尊文庫を眺めてつくる  昭和十一年五月三十一日作  山頭火短冊による」と覚書が記されています(当時の互尊文庫は現在の長岡グランドホテルの場所にありました)。小林銀汀(長岡の写真館主)と山頭火はともに自由律俳句を提唱した荻原井泉水の門下生だったことから、親交がありました。山頭火は昭和十一年に近畿・関東・北陸などを旅しており、その途中で長岡に立ち寄って、この句を詠みました。

この山頭火に「おちついて死ねそうな草萌える」「死んでしまえば雑草雨降る」の句がある。木喰の歌に「木喰もいずくのはての行きだおれいぬかからすのゑじきなりけり」というのがある。

 

この五人弘智法印も木喰も雲泉も雲蝶も山頭火も越後の生まれではない。それなのに、弘智も雲泉も石川雲蝶も越後で最後を迎えた。木喰五行はその最期の地は分かっていない。山頭火は松山の「一草庵」で五七歳の生涯を閉じた。五人ともその生涯を深く越後と関わって生きた。この五人がなぜこの越後の地に関わる事になったのか、その理由を語っていない。

越後は東西に広く、南北に長い。その風土は一年の半分を深い雪の中で過ごす。そうした中で様々なものを温かく包含して優しく育てる。深い雪の中を踏み分けてやってきた旅人がたとえどのようなひとであろうと、温かく迎える。それは血のつながりのない養父母が我が子と同じように子どもを育て、社会に送り出す実父母の胸に似ている。越後の風土はこうして縁もゆかりもない人物を己の腕に温かく包み込み、そうした人達をわが子と同じように育て上げた。その事実は重い。この人情は長い年月かかって越後の風土が醸成した珠玉といえるであろう。