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隠された死への意識 | 高橋実のひとりごと

高橋実のひとりごとmonologue

隠された死への意識

平成25年4月20日(土)

 病室の窓から雲が見える。時折風で流されてゆっくり流れてゆく。7階の病室の窓から下を眺めると。下の道路には多くの車が走り、赤信号で止まり、青に変わると一斉に動きだす。時には郵便車が手紙を配達している様子が見える。下界では入院しているわたしなんぞに全く無関係に社会活動が続いているのだ。その慌ただしい活動と無関係に私はベッドに横たわっている。それが許されて良いのだろうか。今日で入院8日目。ようやく入院生活にも慣れが出てきた。今回の入院はあまりのも突然だった。10日朝熱発して風邪かなと思って早寝した。一晩寝て夜中に汗をかくと、熱が下がるパターンが多かった。しかし発熱は翌朝にも続き、39度を越えた。小国診療所で診察を受けた後、救急車でこの病院に運ばれてきた。そこで聞いた病名は肝膿瘍と今まで聞いたことがない病名だった。ネットで引くと生命の危険にも關係するとある。3週間は入院の必要があるとのことだった。入院など全く考えていなかったので、その後のぎっしり詰まった予定を他の人の頼むのがたいへんだった。書類の場所を妻に教えることから始めた。道具の置き場所、ファイルの場所、一つ一つ妻に教えなければならなかった。その時ふとこれは死んだ時のリハーサルでは無いかと思った。基礎年金番号や共済組合証書の入ったファイル、住所録など死を知らせるに真っ先に必要なものである。病気も死も突然やって来る。人はそう思っていてもその時が明日などと考えない。明日も今日と同じ時間が待っていると思って居る。ふと次の言葉が浮んだ。
  明日あると思う心の仇ザクラ‥
後半が思い出せない。持ってきたipadで引くと
  よべに嵐が吹かぬものかわ
と出て居た。
親鸞9歳の歌という。明日しれぬ此の世のはかなさを詠んだ歌である。また明日があるだれでも思う。例え末期ガンであろうと明日死ぬとはおもわないであろう。しかし漫然と明日もあることだし、と過ごす人生と明日はもうないかもしれないという緊張感で過ごすのでは人生の質に違いが出るであろう。
鎌倉時代の兼好法師はいう。
  死は前より来らずかねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて待つこと、しかも急ならざるに覚えずして来たる。沖の干潟の遥かなれども磯より潮の満るがごとし
 人はただ無常の身に迫りぬることを心にひしとかけてつかのまも忘るまじきなり。
死が前から来るのではなく、後ろからも迫っている。人は後ろからくる死を意識せず、気づかない。突然後頭部を殴打されて始めて死を意識する。我が病気もまもなく回復してまたいままでどおりに活動を開始できるだろう。今回の急な病気は今まで意識しなかった身体の深奥にあるそうした死へ意識を呼び覚ます結果となった。そういう意味では貴重な体験だったと思う。