本文へスキップ

柏戸・両国は小国の誇り | 小国の名力士資料集

著書紹介book

柏戸・両国は小国の誇り(『小国の名力士資料集』より)

若井 一正

 人口わずかに七千人の小国に幕末から明治初めに由緒ある四股名を受け継ぐ力士が二人も出ていることは、全国的にも珍しいことであって、小国の誇りであり、大いに自慢し、長く語り継いで行くべきだと思います。幕末から明治にかけて大津絵節という流行歌がはやりました。当時小国の三人男といわれたのが、柏戸宗五郎、両国梶之助、坊さんの滝谷琢宗禅師であり、これを大津絵節に読み込まれました。

   小国の谷では珍しや
   生まれ上岩田で今お江戸
   伊勢ノ海とて名も高き
   相撲の中では太鼓株
   これに続いて両国梶之助
   これが手取りじゃ日本一
   それはまだしも今ここに
   太郎丸真福寺琢宗禅師は、
   儒道や仏道はまだおろか
   諸国回れば日本一だと評判するわいな

 これは太郎丸集落の上坂という人が作詞したと伝えられております。柏戸宗五郎と両国は師弟関係にありますが、師匠の柏戸からお話しましょう。
柏戸宗五郎  柏戸は出身長岡市小国町上岩田で屋号坂口 本名渡辺寅治、明治初年から伊勢ノ海五太夫を本名としています。文化七年八月生まれで、文政十三年数え年十九歳で六代伊勢ノ海に入門、父の添え書き無くても先代未亡人(本所元町隠居)かのの一言で許可されました。初名鯱ノ海又八、次いで猫又虎右衛門、荒飛甚太夫狭布ノ里錦太夫で入幕しました。三十二歳でした。天保十四年一月場所の五日目から柏戸宗五郎を名乗り、弘化二年三月場所西前頭筆頭が最高位、盛岡藩お抱えとなります。四年十一月、三十八歳で引退しました。西前頭二枚目でした。引退後柏戸、伊勢ノ海村右衛門(嘉永二年)五太夫(安政五年)筆脇は、慶応三年十一月、その時の筆頭は八代玉垣額之助、筆頭には、明治十二年六月数え歳七十歳、辞任は、明治十八年一月限り。相談役となります。明治十九年一月場所元気に勧進元となり、二月二十日から病床につく。三月二日午後六時、永眠数え年七十七歳、戒名は、伊徳院亀齢道伯居士 深川万徳院。帰郷の際には、馬で小千谷峠を越え、菩提寺前で下り、参詣後、徒歩で生家に至り、裸足で親戚と世話になった人に挨拶回り、然る後に家に寄った。集落の神社に社殿 石鳥居、石の灯篭、杉の木を寄進した。石灯篭には、「東武両国式守七代目柏戸宗五郎謹言、弘化二巳年初秋祭日建之」明治十五年七月、先祖の墓を建てる。台石に伊勢ノ海。苗字も伊勢ノ海とし、八代・九代養子縁組、九代目で部屋経営を中止し、その息子は相撲界とは無関係ながら伊勢ノ海一良という歯科医、奥さんは伊勢ノ海良子という小児科医となっている。写真嫌いで(展示の写真をさして)この写真は、酒宴中に戸の隙間から撮影した。弟子に、関脇両国、小結に鯱ノ海梅吉、高千穂峰吉、その外、荒飛甚太夫、荒虎敬之介、春日山鹿右衛門などがいる。八百屋長兵衛さんが伊勢ノ海に取り入って、桟敷方の権利を得るためにわざと負けてやった。それがだんだんと相撲に伝わって今日は、相撲を八百長相撲という。伊勢ノ海も碁の会所にまねかれて八百長とわかった。八百長もますます繁盛した。給料は公平に一合升に入れてわたした。(中略)三代・七代の伊勢ノ海がもっとも繁栄した。代々柏戸が伊勢ノ海を名乗った。柏戸を名乗り、伊勢ノ海にならなかったのは柏戸重三と柏戸剛の二人だけだった。筆頭は現在の理事長に当たる。
 両国に入りますが、両国梶之助は、小国の小栗山、屋号は半四郎で、本名は玉吉、今は太郎丸野田の岩野工務店、天保元年(一八三〇)年十月十日生まれ。入門は嘉永元年(一八四八)で十九歳でした。七代伊勢ノ海に入門した。初名梅ヶ枝八十吉、序の口嘉永元年二月、出世は早く、五年後、安政四年一月、幕下二段目、文久二年十一月から連続五場所十両筆頭に留め置かれる。三段目から二段目、成績がよかったので、すぐ十両筆頭に上がるのは、早かったのですが、五場所勝ち越しながら、二年半、今では十五場所、頭に来た両国は、玉垣に談判に行ったら、十両筆頭は幕内にも当てられ、下からも突き上げられる。お前でなければ務まらぬ位置だからといわれた。居合わした大嶽が取り成し、今日は筆頭の言うことを聞け、悪いようにはせぬと言った。明治二年二月漸く入門、三十六歳になっていました。両国梶之助背の高さが一五九センチ、体重は八四キロ、一五九センチといいますから、私が一六四センチなのです。まだ両国のほうが低い。一説には、一五七センチとも言われています。私より七センチ低い。小兵だったが、奇手縦横に暴れまくり、人気があった。明治三年三月には、小結に、翌年明治四年三月には関脇になりました。関脇を四場所務め、明治五年十一月を最後に引退しました。四十三歳になっていました。引退すると伊勢が浜勘太夫を襲名し、伊勢ヶ浜部屋を興し、弟子を養成しました。引退後、直ちに中改め(審判委員)木戸頭、勝負検査役の要職につき、勧進元を二回務めました。部屋からは、幕内大則戸民吉、改め両国梶ノ助(明治二十七年五月)一場所で陥落して、元の大則戸に返り、まもなく引退、栃木に帰郷料理屋となりました。弟子の一人、松田外吉はアメリカに渡り、プロレス選手になり、日本人としてプロレス選手第一号となりました。明治三十七年一月二十八日死亡、夕方自宅風呂からあがった直後脳出血で七十五歳の生涯を閉じました。戒名は、景勝院隼譽(じゅんよ)越山居士といいます。菩提寺は、東京府中市紅葉ヶ丘誓願寺にあります。両国の十両昇進以来の成績は、勝一〇八、負け六六、引分け五、預かり一一、勝率六割○分五厘で、取ったり、小爪取りの離れ業を得意として、横綱の陣幕、鬼面山と互角、小野川、千年川、出釈迦山、象ヶ鼻、大纏を好敵手として当時屈指の好取組でした。小爪取りというのは、立会いの一瞬に相手の足の親指を取って相手を倒す技で横綱の不知火は、両国の小爪取りを恐れるあまり、足の親指にビン付け油を塗って両国の手が滑ってよろめくところを突き落として勝ちました。手取りよりも足取りといった方がいいかもしれません。慶応三年四月場所、六日目、横綱鬼面山との取り組みは、仕切り直し七十八回・約二時間におよび、そのまま預かりとなった有名な取り組みがあります。両国に対する批評は、「古今無双の相撲上手」「勝つためには手段を選ばぬいやな奴」との二つに分かれる。昭和九年に都新聞に鈴木彦次郎が「小説両国梶之助」を連載した。これが大評判となり、映画や浪曲にもなった。明治三年横浜に入港したフランスの艦隊にアフリカ系の七尺(約二一〇センチ)の大男、怪力を持つ相手と対決、栃木の大平神社、故郷太郎丸の真福寺の仁王像「勝ったら両国の額を上げる」と願掛け、山内容堂公の暗黙の許可を得て出場する。立ち上がるや、相手の急所を蹴り上げ、次いで、拳で脾腹を一撃、相手が手を伸ばして来るところを手繰って一本背負い、相手は異様な叫び声を上げて土俵に沈没、勝ち名乗りも受けず、広く開けた花道を一目散にかけて、支度部屋の浴衣を引っ被って裏木戸から通りの雑踏に紛れ込んだ。後、この黒人は死んだというが、詳しい消息は不明。日本橋の高札場に、「日本一の手取り両国梶之助黒人七尺の怪力士を見事に投げとばす」 と東京中の大評判となった。昭和九年七月三十一日から七回にわたり、新潟新聞に連載、小栗山の岩野本家の主人が直接聞いた話を新潟新聞記者小川霜葉氏がまとめて発表した。両国が亡くなって今年で一〇一年、東京深川富岡八幡宮に強豪関脇の碑に梅ケ枝改め、両国梶之助の名が見える。小兵なるが故に昇進を見送られ、七年間、現在の規定ならば、せめて三十歳で入幕できたならば、優に大関になった逸材、最後の場所も西関脇だった。
下へ下がっての引退ではない。平成の大合併で長岡市に編入されたが、小国郷出身であって、小国人の誇りを後世に語り継いでゆきたい。

 

著者プロフィール

 若井 一正(わかい かずまさ)

 大正15年2月 小国町法坂生れ。農業の傍ら、相撲研究に没頭。各誌にその成果を寄稿。消防団活動に尽力。平成11年勲五等端宝賞の叙勲を受賞。平成22年1月没。

『小国の名力士資料集』 より

『小国の名力士資料集』目次へ戻る

 
■相撲の本等のご紹介