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すばらしい相撲風土小国 | 小国の名力士資料集

著書紹介book

すばらしい相撲風土小国(『小国の名力士資料集』より)

広井 忠男

 暑い盛りにご参集いただきましてありがとうございました。小国でお話させていただくのは、三回めで感謝しております。平素より相撲研究家の若井一正さんとおつき合い頂いております。
 今、長岡悠久山で五人で中越大震災の追善相撲をやっています。寺尾錣山親方、弟子が五人ほどと時津山部屋の若い力士でちゃんこなべを作っています。来年は新潟県相撲連盟六十周年にあたります。
 若井さんも編集委員になっています。新潟県出身力士を調査しています。横綱一人、大関五人、関脇八人、小結大豊以下六人、幕内は二十人、十両力士が十八人、江戸相撲に入門したのが、二一一人います。合計二六九人、若井さんの研究の成果です。若井さんの研究の内幕下以下の力士は主には、昭和初期以降です。力士になるには肉体的条件が揃わないと力士になれない。身長一七三センチ、七十五キロが基準です。力士になるには、十八万人に一人の割合です。割合でいうと、長岡市では一人いなければならない。新潟県は九人しか出ていない、さびしい限りです。
 その中でこの狭い小国の中で身長一五九センチ、体重八十二キロの身体で、関脇四場所、小結二場所を張った両国梶之助、柏戸(前頭筆頭)後、六代伊勢ノ海親方になって、今の日本相撲協会の理事長になった。この二人をこの小国の地で生んだことは大きな誇りにしていいことで、もつと顕彰する価値が十分あるのです。
六代両国梶之助  この前も国技館の相撲博物館で、お抱え力士の特集がありまして、特に肥後熊本藩、出雲の松平不昧公、弘前藩、南部藩、伊達藩等が、そうそうたる力士を抱えています。なぜ大名たちは力士を抱えたか、大名達の趣味でもあったが、外交、政治の場にも利用した。それだけの力士を抱えているというのは、その藩が実力があり、殿様の意気込みがわかります。越後のような地味な藩が多い中で、長岡藩がただ一人抱えたのは小国の両国でした。河井継之助の許しを得て、五間梯子の紋所をつけて華々しく出たが、戊辰北越戦争で長岡は敗れ、皮肉なことに両国は長岡と戦った土佐藩の山内容堂のお抱え力士になる。人気稼業、プロの力士の切なさと言いましょうか、しかも、薩長土肥は、勝ったお祝いに、東京の藩邸で高官達が勝利祝勝相撲をやる、そこに両国は出て小さくて強いというので、山内容堂の目に留まって、土佐のお抱え力士になる。人生の皮肉というか、切ない話ですが、力士は男芸者といわれ、生きてゆく上には避けることのできない宿命だった。小さい両国が年二場所時代に、六場所三役の地位にあったということは、考えられない、驚くべきことでした。出身地に小国が出てくると思ったら、両国は町村合併で長岡市になった。羽黒山も西蒲原郡中之口村出身が新潟市出身になってしまった。ぴんとこないですね。
 守門村出身の力士の墓が、今、村の文化財になっている。小千谷と小国は縁があって、柏戸は西脇家の若い衆になった。柏戸が強くなってから幔(まん)幕に小千谷縮を送った。江戸勧進相撲の四本柱用に幔幕を寄贈して地名が織り込まれている。相撲ファンの人は知っていますが、縮の産業史的にも貴重なことです。小千谷の住吉神社の相撲は四百年続いている。高柳あたりからも参集した。五里四方から集まってくる。三人抜き、五人抜きもやっている。伊勢ノ海は、アマチュア力士も鍛えている。墓が小千谷にある。墓の台座には、たくさんの地方力士の弟子の名が刻んである。片貝浅原神社の相撲も有名だった。
 実は大相撲と草相撲の間に地相撲というセミプロの力士がいるのです。草相撲というのは、年に一回くらい村の神社に村の若い者が奉納する相撲です。高柳や山古志でも、草相撲を盛んにやった。プロの力士達は、東京場所以外は、全部巡業です。きわめて大変でした。(中略)
 今でもアマチュア相撲力士が一日相撲を取って、日当がでるのは、相撲だけです。(持ってきた化粧回しを指差して)この化粧回しは祖父のものです。地相撲というのは、セミプロで日当をもらって相撲を取る。田植え稲刈りの時には田んぼに入る。その間に相撲を取り歩く。盆の月には外に出て毎日相撲を取っている。竣工式などに呼ばれて相撲を取って日当をもらう。大相撲は地相撲に稽古をつけてやる。長岡市妙見出身の、有名な地相撲力士朝錦は五尺五分しかなかった。朝錦は髷もつけていた。
六代両国梶之助  地相撲の手順ですが、朝十一時までに場所入りをしてお昼のちゃんこ鍋を食べて、十二時から土俵祭りがある。最初は初切り三番、東西の一番強いのが三人ずつ出てきて、これを見ると、大体その日の力量がわかる。それを見る意味もあった。次に初昇りというが全力士が顔見せで取ります。全力士による勝ち抜き戦、これはトーナメント戦ですね。五番勝負というのは、大五番、中五番、小五番とあるのですが、一番強い順に東西五人ずつ出ます。五人を抜くまで何十回でもやります。その次に相撲甚句があって、最後の本昇りというのは、ほんとに強い人だけで十組くらい取る。勝つとその日の神社の幣束をもらいます。それを小千谷や長岡の料理屋に持って行くと、今でも一万円から二万円の祝儀をくれます。そして弓取り式があって、だいたい三時間か四時間、一日興行をやる。見物人にとっては、生活のリズムであり、重要な憩いになったことはまちがいありません。それが県内には何十箇所かあったが、今は厳密には五ヵ所しかありません。五月二十七日の見附の大山神社、八月十五日の守門の大明神、九月一日の石打の五社神社、九月十日の片貝の浅原神社、九月十五日の五泉の八幡様。
 それから小国・刈羽郡が生んだ名力士達、これは、柏戸・両国については、若井さんからお話があると思いますが、藤の川、番神山については、本に書かせてもらいました。最後に羽黒山。羽黒山は双葉山の人気の陰に隠れてしまいましたが、好角家たちは、双葉より強かったといっています。双葉山と羽黒山は四歳年が違いますが、考えて見れば、高校三年と中学二年の力を比べてみてわかると思います。年齢差による実力の落差はありますが、羽黒山がピークの時には、双葉山より強かった。その頃は優勝決定戦はありません。番付上位のものが優勝です。羽黒山が序の口、序二段、三段目、幕下、十両、全階級優勝して全階級一場所突破は、その後の千代の富士、北の湖、大鵬、貴乃花、誰にもこの記録は破られません。各段優勝、各段一場所、それから横綱在位十二年三ヵ月、三十九歳まで現役、寺尾が三十六歳まで取ってがんばっているというが、羽黒山は横綱で三十九歳まで取った。あの頃の日本の平均寿命からしてもすごいことだったわけです。羽黒山は母子家庭、お母さんを助け、百姓仕事に働いた。双葉山は漁師の子ですから、櫓漕ぎで鍛えた粘り腰が身上で強かった。双葉山は早く母親がなくなって、父子家庭だった。早くから荒波の上で、父の仕事を手伝った。初代若乃花は土俵の鬼といわれた。家が倒産して八人の弟妹を食わせる。室蘭で鉄鉱石を天秤にかついで渡って艀に渡す。これが花田家の血です。栃若といわれた栃錦は、史上最小は両国も同じだった。朝錦もすごい力士だった。越後出身で姿三四郎のモデル西郷四郎の足は、相手から決して離れない異能さを有していた。両国もそれに近かった。ものすごい運動能力があった。大正期の関脇浦ノ浜は、片貝からでた。この人は引退後、お座敷てんぷらなどを始めた。実業家です。黒姫山は今は親方になっていますが、家が貧しかった。プロレスラーになりたかった。
 今の力士は甘やかされて強い力士は出ない。来年の横綱大関は、ほとんど上位番付は外国勢で占められるでしよう。
 日本人で相撲が嫌いだという人はいません。だれでも小さいとき、相撲をした経験があるでしょう。体に染み付いているのです。国技相撲は尽きない魅力であり、小国から柏戸・両国のようなこんな力士がでたということはすばらしい。小国は相撲の風土を多方面で活かしてほしい。

 

著者プロフィール

 広井 忠男(ひろい ただお)

 昭和18年 小千谷市生れ。早稲田大学、明治大学卒。新潟県議会副議長、青年会議所理事長、早稲田大学商議員などを経て、新潟県体育協会顧問。日本ペンクラブ会員。著書『越後柏崎郷花の相撲取り』(日本海企画 2002)、『越後の野づらに相撲甚句が流れる』(日本海企画)、『耐える鋼鉄、羽黒山物語』(新潟日報事業社1997)など。

『小国の名力士資料集』 より

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