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「墓を建てる」 | 第二小説集『紙の匂い』

墓を建てるworks

墓を建てる 2

 嘉市は、明治二十九年五月、九州大分県速水郡山香町に生まれた。この嘉市が、新潟県の雪の深いさびしい村で、生涯の大半をすごした。嘉市自身が予想もしなかった人生ということになろう。人間いずくんぞあに墳墓の地ならずや。遠い海外に移民として死ぬ人もあれば、南の島の戦場でむくろとなる人生もある。嘉市が九州に生まれ、この新潟の雪の中に葬られようともなんの不思議があろう。嘉市自身が自らの意志で選択した道であった。嘉市の家は、山香町元河内というところにあって、村でも一、二番という旧家であった。しかし、父が物好きで、百姓でありながら、請負をやったり、石屋をやったり、相撲の巡業をよんだりして、すっかり財産を使いはたした。だから、嘉市は、尋常小学校六年を終えると、同じ速見郡大神村字照河というところに住んでいた叔父のところへ、大工見習にやらされた。嘉市が大工見習いをしているうちに、家が火災で丸焼けになった。弟は、まだ小学生だった。兄が小倉で旋盤工をしていたので、一家は故郷を捨てて、小倉に移り住んだ。姉は、筑前琵琶の師匠をしていたが、東京に嫁いだ。妹は、子供のなかった叔母のところへ養女にゆき、お産がもとでなくなった。小倉では、小さな借家暮しだった。父は、近くの針金工場へ通っていたが、生活は苦しかった。
 そのころ、ようやく町に自動車が走り出していた。嘉市は、その自動車が珍しかった。自動車の運転は、学歴がいらなかった。嘉市は、運転手になって上の学校へすすんだ友人を見かえしてやろうと思った。二十一歳になると父母の住む小倉に移り、自動車の助手になった。以来六十三歳でバス会社をやめるまで、嘉市はハンドルを握って生きてきた。嘉市の人生は、この自動車を軸に回転した。
 大正九年、二十四歳で車の免許を取った。自動車のエンジンをかけ、前進させ、ブレーキを踏んで停止させさえすればそれで免許がとれた。車をとめてはいけない場所は道路の端いっぱいの所と、橋の上であることを知っておりさえすればよかった。東京の自動車会社に勤め、全身油だらけになって、部品を分解し、組み立てる仕事であった。しかし、必ずこの仕事が自分の人生を切り開いてくれることを信じていた。一時、高級料亭の自家用運転手もした。酒に酔った役人や会社の役員を自宅までおくり届ける。運転手もフロックコートに白手袋という盛装であった。嘉市は、車の振動と排気ガスの匂いが好きであった。ブルルンブルルンとエンジンの音が、全身に心地よく響いて来た。時には、エンジンがとまって、道の途中でボンネットをあけることもあった。しかし、お客は、だれひとり文句をいわない。心配そうに嘉市の方を見守って、車が直るまで三十分も一時間も待っていた。嘉市のほか、その故障した車を直すことのできるものはいなかった。自動車の運転は、嘉市の選択した、もっとも華やかな、もっとも得意な仕事であった。

 大正十一年七月、かつて同じ自動車会社にいた新潟県の友人大淵から一通の電報を受け取った。その電報には

カリワグンカミオグニムラ ニテ ジドウシャカイシャ セツリツ ウンテンシュト シテ キミノ オウエンタノム

と書かれていた。新潟には行ったことがなかった。故郷の九州と違って、冬は雪がたくさん降ると聞いていた。そんなところで、自分の運転技術を生かすことができるのだろうか。不安がないではなかった。しかし、大淵は、この地に運転手はいないので、優遇されるだろうと重ねていってきた。この地のバス運行を円滑に実施するために、君の技術を貸して欲しいといってきた。嘉市は、二十六歳、九州の実家は焼け、故郷に未練はなかった。嘉市の住むところが故郷になるはずだった。嘉市は決心して、友人あてに承諾の電報を打った。
 信越線を回って、十二時間かかって、柏崎と長岡の真中にある山あいの塚山駅におりたった。駅には、友人と、バス会社の人が出迎えてくれた。話に聞けば、この塚山駅と、渋海川をさかのぼること十二キロの上小国村楢沢とを結ぶバス路線の運転手が嘉市の仕事であった。
 この年、渋海自動車株式会社が、地元の人たちによって設立されたが、この地に自動車の運転をする人がいなかった。大淵もたのまれて来ていたが、ここに嘉市がきて、助手を入れて三人であった。車は、フォードT型ホロつき、五人のりで両側にステップがついていた。この車で、一日四往復、川西をまわって四十分で塚山駅につくことができた。
 この車は、エンジンはマグネット点火といって、スターティングクランク棒を、車の前の方にさしこんでまわす。ギアはついてなく、ペダルを踏むとロウからトップになり、真中のペダルでバックにはいる。バッテリーはないので、ライトは、ホースをひいてカーバイトのライトであった。ブレーキは、ロットブレーキといって、外側からゴムをホイールにおしつけるものであった。だから雨の日など力を入れて踏んでも、なかなかとまらなかった。ライトは、その後まもなく、回転する車輪を利用して、発電機をまわすものにかわった。自動車が走っている間はライトがついた。
 バス代は片道三十銭だった。そのころ中華そばが一ぱい十銭だった。だからバスにのれる人は、村の旦那衆に限られていた。それでも歩けば三時間もかかる塚山駅まで、四十分でゆけるのだから、人々はよろこんだ。
 嘉市の月給は九十円であった。車掌は十五円、村から東京に出て食堂で働いても、二十円もらうのがやっとだった。同じ運転手でも隣りの鯖石自動車の人たちは七十円しかもらっていなかった。学校の校長や鉄道員よりよかった。嘉市は村一番の高級取りということであった。しかし、十一月になって、雪が降れば、バスは車庫に入れたまま翌年四月末まで動かなかった。運転手は失業となり、給料は出なかった。冬になるとやむなく群馬へ運転手として出稼ぎにいった。足尾銅山でお客を運んだりした。冬、失業保険をもらえるようになったのは、ずっと後のことであった。
 この嘉市を村の人たちが放っておくはずはなかった。あちこちで聟の話がもちこまれた。嘉市は、バス会社のすぐ近くの豊年屋という料理屋に泊っていたが、その隣の家が棚橋の家であった。棚橋の家では、豆腐屋をしたり、そばやをしたり、父親が人力車をひいたりしていた。ここの一人娘が満であった。面長の顔だちのととのった美人であった。満は、近くの小国製糸工場で糸ひきをしでいた。近くに住んでいるので顔もよく知っていたし、遊びにゆくこともあった。中にはいってくれる人がいて、嘉市は大正十二年四月、この棚橋の家の人となった。その時嘉市は二十七歳、満は十八歳であった。結婚式には東京に出ていた嘉市の母がやってきて祝ってくれた。
 運転をしていると恐ろしい経験も何度かしている。その中でも大正十一年九月、塚山駅手前の善福寺踏切の事故ほど恐ろしいことはなかった。この踏切は小国から出てゆくと、左手に大きくカーブして見通しが悪かった。それなのに、今のように遮断機もついていなかったし、踏切警手もいなかった。踏切手前で自動車をとめ、運転手の目で、安全を確認してから線路をわたるのである。遠くから見ていると、汽車は煙を吐いてのろのろと走っているようだが、近くの汽車は矢のような速さである。
 その日も、嘉市はお客を満載して、塚山駅からもどる途中だった。踏切で一度とまって左右を確認したつもりであった。自動車が線路を渡りはじめた時、右手に大きな汽車が見えた。
「汽車だ!」
 乗客は悲鳴に近い声をあげた。汽車は激しい速さで迫ってきた。嘉市は、この時バックにしてもどろうか、アクセルを踏みこんで線路を通りぬけようか、一瞬迷った。この迷いが危険なのである。汽車は見る見る近づいてきた。黒い山のように見えた。汽車の警笛が聞こえた。自動車の乗客たちはみんなたちあがった。
「あぶない! 床に伏せろ」
 だれかが叫んだ。嘉市は必死にアクセルを踏み込んだ。足先がふるえた。なんというのろい車だろう。汽車が自動車の窓ガラスいっぱいに弾丸のように迫ってきた。次の瞬間、汽車は轟音をたてて過ぎ去った。車内は一瞬声を失った。車の中にペッタリ坐りこむものもいた。自動車の後部と汽車との間は、二十センチしかあいていなかったという。
「ああ命拾いした」
 乗客たちは抱き合って喜んだ。
「みなさん、心配かけてすみません」
 嘉市はあやまった。だれも、嘉市をせめるものはいなかった。
「今夜は、酒をのんで、無事なことを喜びたい」
 客たちはこういった。
 この踏切では、大正十三年十一月、自動車の後部が汽車にふれて、ステップにのっていた乗客の一人が、汽車にひかれで死んだ。
 近年になっても、バスから降りて、誘導していた車掌が、バスと雪の壁にはさまれて死んだ。さらに貨物列車とバスが衝突し、多くの怪我人が出た。
 嘉市は、今でもあの時の黒山のような機関車が脳裏に焼きついて離れない。あの二十センチのすきまは、嘉市の意志を超えて、天が与えてくれたすきまであった。嘉市は、あのとき、車もろとも六人の乗客と汽車におしつぶされて死んでいるはずであった。そのあとの六十年は、自分で生きのびたのではない。天が生かしでくれた命であった。それを思うと、どんなことにも耐えてゆけると思った。
 大正十三年、長女の弘美が生まれ、十五年には次女の千鶴が生まれた。そして昭和三年長男の嘉光が生まれた。はじめの男の子ということで、家中がよろこんだ。ついで昭和五年、次男の輝男が生まれたが、輝男は、三歳で病院でなくなった。小児マヒであった。これが嘉市の出した初めての葬式であった。わずか三歳の幸薄い子どもであった。七年には三女美津江が生まれ、九年には四女の富美が生まれた。同じ年、九州小倉で、実家の父が死亡、十一年には、舅の勝治がなくなった。次々と人が生まれ、人が死んだ。昭和十八年には渋海自動車は、中越一帯にバス路線をもつ、中越バス株式会社に吸収合併された。
 昭和二十九年一月一日、嘉市はこの日を忘れることができない。子供たちにもこの日は生涯もっとも悲しい日になったはずだ。妻の満が、直腸ガンのため四十八歳でなくなった日である。
 満は、男まさりのところがあった。畜産会社のトラックに乗って、家をまわって豚を買っていた。前の年、ガンの手術で、直腸を摘出した。手術は思いのほか成功して、医師は一年以内に再発しなければもう心配ないだろうといった。満は、体が回復するとすぐに、また仕事をはじめた。じっとしていられない性質であった。
「満、まだ手術したばかりでねえか。再発でもしたらこんどは命とりだぞ」
 嘉市は、そういっても、満は聞こうとしなかった。
「なに、もうだいじょうぶ。おれは、どこも悪いところがない。心配いらんて」
 満は、そういって笑っていた。
 直腸を摘出しているので、排便には、わき腹にゴム管が通っていた。そんな体で、田んぼにも出たし、トラックにも乗った。満は、じっとしていることができない性格だった。  半年もたたないうちに、満の体に変調が来た。腹が異常にふくれ、痛がった。近所の医者に診てもらったが、ガンの再発はだれの目にも明らかだった。心配していたことがとうとうやって来た。
満の痛みを訴える声が、隣近所にまで響くほどであった。
「あれほどじっとしていれといったのに」
 今さらいってもどうしようもない。もう、満には、それに答えることはできなかった。日がたつにつれて、満の病気はすすむばかりだった。食物も食べなくなった。
 年もおしせまったころ、満は、突然ふとんの上にガバッとはねおきで、着物を脱ぎはじめた。これに驚いたのは、まわりにいた母のトクや姉娘の弘美だった。
「満、どうしたんだい」
 トクがきいた。
「豊年屋のばあちゃんが呼んでいる」
 満がいった。豊年屋は、棚橋の家の隣、料理屋をやっており、結婚前の嘉市の下宿していたところである。このおばあちゃんは満と仲がよかった。
「なにをばかなことを。豊年屋のばあちゃんなんか、もう死んだ人だねえか」
 トクが叱りつける。
「いや、豊年屋のばあちゃんが迎えに来た。きれいな花が咲いている所だ。おれも早く行かねけえならねえ。蝶々が舞っている。おれは、こんなとこに寝ていらんね」
 トクは、大声で叱った。満は、つきものが落ちたように、またふとんの中に身を横たえた。そこにいた人たちは、なにもいわなかったが、もう満の命が長くないことを悟った。満にあの世の迎えが来たのだと思った。
 死の前日、二十八年の大みそか、弘美が仏壇にロウソクをあげて手をあわせた。
「かあさん、年とりするかい。魚も焼けたし、何か食うかの。来年になればまた元気が出るかも知らねえぜ」
 話しかけながら、弘美は、仏壇のロウソクをそのまま神棚へ持っていってあげてしまった。
 仏壇の明しと神棚の明しを一緒にしてしまうのは忌むべきものとして嫌われていた。信仰心のあつい弘美は、いつも仏壇と神棚の両方をお詣りして、決して今までそんなへまをやったことがなかったのに、どうしてまたこの夜に限って、こんな不作法をやったのであろう。それは、自分でも思いがけないことであった。それに気づいた弘美が、叫び声をあげた。
「あっ、おら大へんだ。仏様の明しをそのまま神棚へあげてしもうた」
「ばか、なにしてる、早く明し消せ」
 トクがききつけて叱った。弘美は手がふるえて、うまく明しを消せなかった。
 その翌日、新しい年があけた昭和二十九年元日、午後二時に満は死んだ。死ぬ間際には、あれほど痛がった腹の痛みも訴えなかった。子供たちは、つめたくなってゆく母の手をにぎって、みんなおいおいと泣いていた。嘉市は、泣かなかった。外は、激しい雪であった。すぐ前の道を歩く人が、新年のあいさつをかわすのが聞こえた。
「あけましておめでとうございます」
 親類衆に告げがゆき、葬式の仕度がはじまった。家の前は、屋根からおろした雪が山のようになっていた。長男の嘉光は、結核のため、柏崎の療養所へ入所中だった。山のような家の前の雪を掘って棺を出せるようにし、棺を焼く火葬場までの道を踏み、塚山駅まで嘉光をそりで迎えにゆくことが手伝いの人達の仕事だった。雪道は馬の背のようになっている。そりはその道の高いところから低いところへすべり落ち、時にはひっくりかえりそうになる。前でひとりがひき、後で押す、もう一人は横で支える。三人とも汗だくである。そりにのっている嘉光も楽ではない。ひたすら、お礼をくり返しているだけである。どこの家でも、元旦のとそに酔っている時だというのに、棚橋の家の手伝いの人たちはみんな汗みずくになって体を動かしていた。
「よりによって、お満さんも、こんな元日の吹雪の日に死ななくてもよかろうに」
 手伝いに来た人たちはひそひそとそんな話をしていた。
 次女の千鶴は、このころすでに膝が悪かった。墓へゆく雪道を足をひきずりながら、葬列におくれまいとしてついていった。この日も朝からおやみなく、雪は降り続いた。
 昭和三十一年上小国村は、近隣の三つの村と合併して、小国町として町制を敷いた。嘉市は、昭和二十四年から、すぐ隣の小千谷営業所に勤務しており、家は、トクと子供たちだけが残っていた。嘉光は、師範学校を終え結核で一時休んでいたが、復職し、長岡近辺の小学校に勤務していた。
 昭和三十二年秋、嘉光が
「小国を離れて長岡へ引っ越そう」
といい出して、みんなをびっくりさせた。この突然の申し出に、なによりおどろいたのはトクであった。 「そんなこといっても、山もあるし、田や畑もある。それをどうするや」
「今だけば、買ってくれる人もいるさ。こんな不便な土地に住んでいたら、いつまでたっても伸びられない。やっと教員を続けてゆく決心もついたのだし、こんなところは不便でしょうがない。父さんだって、小千谷に泊っているのでは経費がかかって大へんだろう」
「田や畑は売るとしても、まさか墓まで動かすことはできまい」
 ここには、三歳で死んだ嘉光の弟輝男の骨があり、嘉市にとって忘れることのできない妻の骨が眠っていた。
「墓はここにおいたって、お盆にはここに来ることもできるねか。それに分家の人もいる。墓の世話くらいたのめるだろうし」
 そう嘉光にいわれてみれば仕方ないことだった。死んだ人の都合より、これから生きてゆくものの都合が優先されなければならないと思った。
 棚橋の家の引っ越しが決まると、それからは、その準備におわれた。長岡には、世話する人があって、土地つきの家を手に入れることができた。田畑も人の世話で高く売れた。
 冬の間にあわただしく準備を終え、翌年の春、大型トラックが来て、必要な荷物はすっかり運び出した。引っ越しの日は、長年親しんだ近所の人や親戚の人がやってきて別れを惜しんだ。新しい土地で、この家の新しい飛躍が約束されていた。嘉市は、大きなバス会社で高い位につき、嘉光は、ここで妻を迎え、優秀な成績で師範学校を卒業している以上、校長のポストも約束されていた。
 すっかり荷物を運び終えた後、古い茅葺きの家のとりこわしが行われた。屋根の煤けた茅が巻き取られ、縄でぐるぐる巻きにされた梁や桁が太陽の光にさらされた。どこにも煤がうずたかくつまれていた。手伝いの人たちは、顔中煤で真っ黒になり、目だけぎょろぎょろと動かしていた。
「ここの家がなくなると、この村もさびしくなるのう」
「なんといっても、ここは、小国のバス運転の草わけともいえる家だから」
「この屋敷は、どうするんだろう」
「どこそこの人が買ったというんだろも、ここは、バスの車庫のすぐ前だし、バス会社の人が買うんでねえか」
 手伝いに来た人は、こんなふうに話し合った。
 棚橋の家の屋敷を買った人は、ここに桐の苗を植えたが、何年もたたないうちにバス会社に買われ、ここは五十人のりという大型バスの駐車場になった。中越バス株式会社は、三十四年、栃尾電鉄と合併しさらに大きなバス会社に名を変えた。そして、今まで考えても見なかった、小国から長岡に直通バスが走るようになった。

 
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