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「墓を建てる」 | 第二小説集『紙の匂い』

墓を建てるworks

墓を建てる 5

 トクの死後二十日した四月五日、嘉光はなくなった。享年四十四歳、母満より四歳若かった。死は人の願いや境遇にかかわりなくやってくる。せっかく校長となって、村の人達の言葉で教員として最高の地位についたのに、死は無情にその地位から引きずりおろした。長男の英樹は中学一年、長女の直子は小学五年であった。妻と二人の子供を嘉市に預けたまま、後に残った家族のものを気遣うどんな短いことばもなしに、嘉光は永遠の旅に出てしまった。嘉市は、心の中に築きあげてきた大きな建物が、ガラガラと音たてて崩れてゆくのを感じた。この七十七年の生涯を何のために生きて来たのであろう。あの大正年間、この地にはじめてバスの運転手としてやってきた時、嘉市はいつも校長先生より高い月給をもらっているという自負心があった。そして、村の人々に感謝され、毎日がはりがあった。しかし、今、その村を去り、次々と身うちを葬ってゆくたびに、嘉市は、自分の人生が、この世に人を葬るためにだけ存在しているようにさえ思えて来るのだった。
 嘉光を葬ったあと、嘉市は夜よく眠れなかった。うとうととするとすぐ目が覚めた。嫁の利子や、二人の孫たちの将来のことが心配だった。この年老いた自分を残して、みんなはどうしてこう死に急ぐのであろう。そんなとき、きまって、はじめて運転手として、やってきた村の風景が思い出された。渋海川に沿った道をバスは砂ぼこりをまいあげて走りぬけた。フロントガラスに、広々とした青田が見えた。その青田のかなたになだらかな山脈が横たわっている。そんな光景を眺めながら嘉市は、アクセルをふかして走ってゆくのだ。今、この地に住んでいても、嘉市はなんの感慨もない。いっそのこと、このまま嘉光や満の眠るあの村の墓にもどっていったら、どんなにいいであろう。夢の中にいつも、満や嘉光、千鶴が出て来た。満が死ぬ前にいつもいっていたきれいな花の咲き乱れるお花畑が出て来た。その花の中で、満や千鶴や嘉光、そこにはトクや三歳の輝男や舅の勝治さえもいた。みんなはしきりにうなずき、笑いころげているのだった。
 嘉市は、暗闇の中にむっくり起きあがった。ふとんが重かった。利子と孫たちはよく眠っているので、家の中は物音一つしない。茶の間の常夜灯の明りが、ここまでかすかにもれていた。その起きあがった嘉市の耳もとに、決して夢でない満の話しかける声が聞こえた。
「おじいちゃん、おまえさんばかり、そんな苦労して生きていなくてもよかろうに。早くこちらへ来て下さい」
「おれだって、好きでこんなことをしているわけでねえ、みんなお前たちのためでねえか」
 嘉市は、姿の見えぬ声に向かってきっと答えた。いつのまにか嘉市は、寝る前に脱いでいた袖なしを着物の上に着て、手を通した。妻は、どこで呼んでいるのであろう。
「満、お前のいるところはどこだ」
「おじいさん、こんにたくさん花が咲いているではありませんか。ここに嘉光も千鶴もいるんですよ」
 満の声は若々しかった。
「満、おれはまだ行くわけにはいかぬ。俺が行ったら、この家はどうなる。孫たちはまだ小さい。
この家でしなければならないことがいっぱいあるのだ」
 嘉市は、玄関の戸をそっと開けた。外は月の美しい夜で、月の光のもとで、春耕をまつ田が広がっていた。春の初めの冷気が刺すように鋭く、嘉市の衿元に迫って来た。遠くでかすかに犬の吠える声が聞こえた。どこの家もみんな灯を消して、しんと寝静まっている。どこにも満の姿はなかった。嘉市の空耳だったのだろうか。長いこと嘉市は、玄関に立ちつくして、外の景色を見ていた。
 突然、家の中から声が聞こえた。
「おじいちゃん、こんな時間になにをしているんです!」
 利子の声が聞こえた。
「いや、あんまり月が美しいもんで、しばらく眺めていたんだ」
「そうだったんですか。私はまた、おじいさんがへんな気をおこしたんでないかと思って。ああよかった。おじいさん、今は、この家では、おじいさんしか頼りになる人がいないんですからね。外の風は寒いでしょう。かぜを引きますよ。早く中にはいって下さい」
「はいわかりました。心配はいりませんよ。この私が、なんでそんなばかなまねをしますか」
 嘉市は、玄関の戸をしめた。いつのまにか満や子供たちの姿も消えていた。満の若々しい声は、あの時のままだったのだろうか。みんな嘉市の妄想だったのだ。死んではならぬ。
 昭和五十三年六月十七日、この日は、朝から気温がぐんぐんあがって、真夏のような暑い日だった。土曜日で、半日で学校から帰ってきた英樹が
「海へいって来るよ、友達が待っているので」
と嘉市にいった。バイクに乗って行くに違いない。
「スピードを出しすぎるなよ、気をつけてな」
と嘉市はいった。利子はまだ仕事から帰っていなかった。嘉光の死後、利子は、病院事務員として勤めるようになった。バイクのエンジンをふかす音が聞こえた。排気量の大きいエンジンの音は、地響きをたてるように腹の底にひびいて、その音は、たちまち遠ざかっていった。それが、英樹の最後のエンジンの音となった。そのまま、英樹は、帰ってこなかった。
 英樹は、オートバイに乗るのが好きだった。頭全体がすっぽりはいる赤いヘルメットをかぶり、皮ジャンパーを着て、ひざまでくるような靴をはいて、大きなバイクに乗っていた。いつも、バイクに乗った友だちが迎えに来た。しかし、世間でいう暴走族のような子では決してなかった。英樹がバイク事故で死んで、悪くいう人があったりすると、嘉市は涙が出た。
「あの子は、決して、そんな悪い子ではない」嘉市はいつもいっていた。父に似て心の優しいところがあった。嘉市の作った金箕の製品を運ぶときも、嘉市が重そうにしていると、だまっていても、さっと自分でとりあげて運んでくれた。旅行にいったときなど、嘉市のために、神札を買ってきてくれたり、利子へは小物入れを買ってきてくれるなど、女の子のように細かいところに気のつく子だった。学校を卒業しさえすれば、バイクなどおしげもなく人に譲ってしまったはずなのに、英樹は口癖のようにいっていた。 「来年になれば、このバイクを人に譲ってしまうから、ことしだけは黙って自分の好きなように乗せてほしい」
 そういわれると、嘉市も利子も何もいえなかった。ことし一年は目をつむってがまんしよう。あれがいけなかったのだろうか。
 利子から電話が来たのは、夕方五時すぎだった。
「英樹が海からの帰り、事故にあって救急車で病院へ運ばれた。出血がひどくて命があぶない」
 電話のむこうで利子は泣いているようだった。嘉市は一瞬信じられなかった。そんなばかなことがあるもんかと思った。あんなに元気にあいさつして出ていったのに。嘉市は、何も手につかなかった。仏壇の前で、手を合わした。満や、嘉光や、英樹の命を守ってくれ、あれは、決してお前たちには手渡さないぞ。嘉市が今できることといったら、ひたすら祈ることしかなかった。
 おそくなって、利子が一度英樹の着がえをとりに来た。
「おじいさん、英樹はもうだめです。あきらめて下さい」
といって、ボロボロ涙を流していた。
 海で泳いだあと、帰る途中知りあったばかりの車を追い越したところ、その追い越された車が追い越しをかけ、バイクの前の進路をふさいだ時、英樹のバイクは、その車に押しつぶされたという。救急車で病院に運ばれたが英樹のヘルメットが割れ、ほぼ即死状態だったという。それでいて、英樹の後に乗っていた女の子は、とばされてかすり傷をおっただけだったとか。一方的に相手の車が悪かった。
 夕方おそくなってから、英樹は無言で帰って来た。病院で傷にはきれいにほうたいを巻いてもらっていて、顔はやすらかに眠っているように見えた。嘉市はことばが出なかった。英樹の死を聞きつけた友人たちが次々とやって来た。英樹の柩の前で目を真赤にして泣きはらしている友人もいた。英樹のバイクをひいた相手の男が、父親に伴われてやって来た。まだ童顔の残る若い少年だった。無免許で父親の車を乗り回していたのだという。
「大へんなことになってしまって、なんともおわびのしようがありません」
と二人で頭を下げたままだった。嘉市は、いうべきことばも知らなかった。どういってみたところで、英樹が生き返って来るはずはない。父親が鉄工所をやっているが、生活は苦しいとの人の話だった。
 好きなオートバイに乗って死んだ英樹。英樹はそれで本望だったのだろうか。それとも父の霊がよびよせたとでもいうのだろうか。オートバイが好きな英樹に、地下で嘉光は説教しているのだろうか。
 しかし、嘉市は、思った。五十年前のあの善福寺踏切で、嘉市の運転していたバスが、あと数秒おそかったら、山のような機関車に巻きこまれて、嘉市と満員の乗客たちは、みんな死んでいたはずであった。あの事故をこの孫の英樹が償ってくれたのだ。英樹よ、ゆるしてくれ。お前は、この俺の過去の大きな罪をその一身に引き受けで死んでいった。
 英樹の葬儀の日には、大ぜいの高校生がやって来て英樹のために泣いてくれた。みんなは口々に英樹の生前のやさしさをほめていた。英樹は、家でも嘉市や利子のために、だまって仕事を引き受けてくれるやさしい子だった。だれからも好かれて、友だちも多かった。英樹は、父のもとへ帰っていった。妻と二人の子に先立たれ、今また孫にも先立たれた嘉市は告別式に参加した人達に押されるように、一段と小さく見えた。

 
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