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「薄暮の始業ベル」 | 第二小説集『紙の匂い』

薄暮の始業ベルworks

薄暮の始業ベル 1

 校庭には、まだ山のような残雪が黒々と残っていた。いたるところに、雪解け水が川となって流れていた。校門のところまでのアスファルト道路は、ほこりをまいあげて車が走っているというのに、この校庭の春はまだ遠かった。上山分校には、長グツでないといかれないといった川田分校主任の言葉の意味が今ようやくのみこめた。
 五十嵐浩吉は、底の厚い長グツで勢いよく雪解け水の中に踏みこんだ。あちこちで中学生が、シャベルで雪消し作業をやっていた。正面玄関には、二つの標札が掲げられていた。右には「上山村立上山中学校」、そして左には「遠野原高等学校上山分校」と書かれていた。遠くから見たら、ここに二つの学校が併設されていることなど思いも及ばぬことであった。校庭にいる生徒はまぎれもなく中学生であり、玄関の上の校章は、明らかに中学校のものであった。しかし今、五十嵐には、その中学校に用はなかった。十年間勤めた中学校であったが、この四月から県立高校の教諭として、この上山分校が、彼の職場であった。玄関口からはいると、中学校の教務室と並んで、上山分校の小さな教務室があった。しかし、その標示には、上山分校の文字をどこにも見つけることが出来ず「定時制高校教務室」とある。ここは、上山分校よりも、なにより定時制高校であった。村の人たちにとっては、これが本音であり、玄関の標札は建前であった。建前より本音を重んじ、校舎よりもその生徒を重んじる、そこが五十嵐の職場であった。
 教務室は、普通教室を半分に仕切って作られていた。あとの半分は、中学校の印刷室と物置きに使われでいる。この校舎の中で、上山分校専用の部屋は、この教務室と、階段下の宿直室だけだった。この十坪ほどの教務室に六人の専任職員の机、二人の講師の机、書棚、ロッカー、実験器具、印刷機、炊事施設、運動用具、清掃用具といった、およそ学校生活の中で使われるあらゆる道具が納められていた。ここが、上山分校の教務室であり、図書室であり、実験準備室であり、印刷室であり応接室であった。
 川田分校主任以下五名の職員との対面は、本校ですでに終わっていた。五十代の川田主任のほかの四人は、この分校が、大学卒業後の初めての勤務校であり、あるいは二つ目の勤務校であった。五十嵐の年齢は、ここでは分校主任の次であった。中学校にいたとき、組合の青年部として、希少価値で見られていたのとは、大きな違いであった。ずっと中学校の教員を続けていた彼は、高校の定時制は全く未知の世界であった。夜に弱い五十嵐は夕飯を食べるとすぐ眠くなったが、これからは夕飯の後に授業が待っていた。はたして勤まるのだろうか。これが何より一番の不安であった。六人は、授業担当と時間表を話し合い、校務分掌を決めた。ひとりがいくつもの分掌を受けもつことはやむを得ないことである。まず、順調なスタートというべきであった。五時になると、近くに下宿している教師たちは、夕飯を食べに戻った。他の人たちは弁当をひらく。この弁当が夕飯であった。五十嵐は、妻のもたせでくれたインスタントの味噌汁の袋をきって、これにお湯を注いだ。普通なら、夕飯は、家族が顔を会わせて、いろいろな一日の話をするなごやかなだんらんの時間であった。しかし、これからの夕飯は職場の中であった。まもなく、本校から、校長と定時制主事がやってきて、始業式が始まるのである。
 つけ放しのテレビが、六時の時報を告げると、給食のおばさんが、教務室の入口のベルを押した。午後六時、このベルで上山分校の一日が始まるのだ。春の日は長いとはいえ、あたりは薄暗くなっていた。昼の勤めを終えた生徒達があわててかけ込んでくる。きょうは分校における始業式と離・新任式であった。案内されて体育館にゆく。広い中学の体育館に五十人ほどの分校生徒が小さくかたまっていた。照明が暗く、生徒ひとりひとりの顔はよく見えなかった。ステージだけが明るく、ちょうど、スポットライトをあびたような感じである。定時制教育のすべては、この夜間照明に頼りきりである。校長の紹介のあと、五十嵐はステージの上で短いあいさつをした。中学生と違って、背の大きい高校生は、五十嵐には、威圧されるような感じに見えた。
 教務室にもどると、二人の生徒が待っていた。この三月、単位がとれず、三年生に留年して、もう一度やり直すという。正夫と行平といった。二人は、五十嵐のクラスにはいる生徒だったのにびっくりした。この二人をいったいどうやってクラスの生徒たちに紹介してやったらいいものか。二人は、教室の前へ立つのをいやがった。むりもない、今まで上級生として保っていた威厳が失われてしまったのであるから。二人は、逃げるようにして、教室の後の席にすわった。十五人の生徒が、思い思いの机にむかって、パラパラに並んで、五十嵐の来るのを待っていた。外はもうとっぷりと日が暮れて、窓の外まで夕闇がせまっていた。その窓から、遠くの家々の団らんの灯が見えた。今ころ家では、もう夕飯がはじまっているであろう。窓の外の団らんの灯を横目で見やりながら、生徒の自己紹介をきいたり、自分の自己紹介をしたりした。この定時制の勤務が、これからどのくらいの間続くであろう。生徒の顔を見ていると、急に心細くなってくるのであった。

 
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