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「薄暮の始業ベル」 | 第二小説集『紙の匂い』

薄暮の始業ベルworks

薄暮の始業ベル 2

 四時すぎて、車で学校に向かうころ、ちょうど西日がフロントガラスの真正面からさしこんでくる。もう入学式から一ヵ月がすぎて、五月にはいっていた。

 立夏の陽西へ追いやり始業ベル

 この句は、同じ定時制教師の句であるが、まさに定時制教師の実感であった。西日に向かって、五十嵐は、出勤の車を走らせる。小学校へ通う息子もまだ帰らない。保育所勤めの妻も、五時過ぎないと帰ってこない。だれもいない部屋で一人で仕度をし、家を出る習慣もようやく身についたところだ。田圃で働く人たちも、夕暮れ前の時間をあわただしく動いている。勤めの人たちは、あと一時間で拘束時間が終わる。この時間が五十嵐の一日の始まりであった。
 学校へつくと、もう中学生は、六限の授業を終えて、クラブ活動の時間にはいっていた。廊下をあわただしく通りすぎてゆく中学生をかきわけるようにしで、五十嵐は、教務室のカギをあける。ガス台の上に水のはいったヤカンをのせて、火をつける。四時半が打合せの時間である。まもなく、他の職員も出勤して、お茶をすすり、授業の下調べをすると、たちまち夕飯の時間になる。五時といっても夏の日は長く、食欲も湧かない。家にいるときの、仕事あとのあの夕飯の味はここにはない。むりに胃袋の中に卵焼きや野菜サラダを落としこむという感じであった。六時が近づくにつれて、職員のだれもが、心が重くなってゆく。テレビがつけ放しになっていて、相撲のある時など、中継がおわり、こどもニュースがはじまると同時に、ベルが押される。午後六時の始業ベル。上山分校が創設されたころは、六時半の始業だったとか。このベルは、こうして二十二年間、鳴り続けてきた。教師にとっても、生徒にとっても、体のしんまでひびくような音であった。
 ベルが鳴っても、まだ廊下には、かけこんでくる生徒の足音が聞こえた。無理もない。五時に仕事を終えて、夕飯をたべ、制服に着替えて、六時の始業に間に合わせるためには、この一時間のあわただしさが目に見えるようである。それでもなお、彼等は学ばねばならず、彼等の熱意があってこそ、教師は教室にでかけてゆかねばならなかった。
 教室には、三三五五とかたまって話していたが、五十嵐がゆくと、みんな席についた。中学の教室を使っているので、掲示物もそっくり中学のままである。服につけているバッジと広げてある教科書さえなかったら、高校生らしいところを見つけるのに苦労した。その使っている教科書も、三冊の教科書を四年間に延ばして使うから、三年になってもまだ二年の教科書を使っている。どこを見ても、定時制高校にあったように作られているものはない。一校時は四十分。これを四校時やるのが日課である。前半と後半の間にミルクとパンが出る。夕飯を食べて来ない生徒のための配慮である。これにもまた歴史があって、昭和三十七年から実施されたものという。四限の終了は九時十分、ほとんどの生徒が帰ってゆくが、クラブをやる生徒も多い。
 グラウンドには、校庭のポプラの木に一個だけ水銀灯がぶらさげてあったが、あとは照明らしい照明もなかった。陸上クラブの生徒は、そのうす暗いグラウンドを走る。遠くをまわるときは、もう暗い闇の中にその姿を完全に消した。分校だけでクラブが成立しないバスケットクラブなどは、十キロ離れた本校まで出かけていって合同練習をする。クラブの生徒が全員帰り、最後に残った職員が、校内の照明を消して、玄関のシャッターをしめるのはたいてい十一時を回っていた。生徒たちが、それから風呂にはいって、床につくのは、十二時すぎることであろう。教師は、朝何時まで寝ていてもよかった。定時制の教師で、家庭を持たない若い独身教師は、朝十時すぎまで寝ていることが多い。しかし、生徒は翌朝八時までには、職場にはいらなければならなかった。しかも、その生活を四年間、黙って続けてゆく。

 
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