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「薄暮の始業ベル」 | 第二小説集『紙の匂い』

薄暮の始業ベルworks

薄暮の始業ベル 3

 そうしている間にも、五十嵐は、ひまを見ては、古い文集や新聞を捜しながら、定時制高校の歴史や、上山分校の草創のころを調べていた。上山分校が正式に遠野原高等学校上山分校として設置されたのは、昭和二十六年四月一日だった。以来この分校からは、二十二年間の歴史の中で、五百名近い卒業生がここから巣立っていった。歴史のもつ重みをひしひしと感じる。学校の形態をとどめないようなこの上山分校にも、ずっしりと重い歴史があった。五十嵐は、何よりこの確認から出発しなければならなかった。
 定時制高校の歴史は、昭和二十三年「働きながら学ぶ青少年の学習権の保障」を目的にした、学校教育法によりはじまった。その年、新潟県の定時制高校は、併設中心校三十八校、分校七十四校、合計百十二校が設置され、その入学生が七千七百七人あったという。その学校の完成年度である昭和二十六年には、生徒数実に二万八千人を数えたという。昭和三十年は、定時制教育のピークといわれ、学校数、中心校・分校あわせて百三十六校、生徒数二万五百七十九人であったという。しかし、それを頂点として、定時制高校への入学者は減少の一途をたどり、昭和五十年には生徒数九千人を割った。全日制高校の進学者が九十パーセントをこえているのを見れば、これは大きな時の流れなのかも知れなかった。
 上山分校の第一回卒業生となった村山義重さんは、五十嵐よりずっと年配であり、村の商工会に勤めていた。
「いったい初めのころの上山分校てどんなだったんですか」
「なんといっても、あの設置のころの苦労といったらありませんよ。私は、そのころ上山地区から上流の中塚分校へ通学していたんですが、昼間勤めて、夜八キロの道を往復するのは大へんな苦労で、家に帰れば十二時、一時ということも普通でした。それで、なんとかこの上山地区にも定時制高校をという猛運動をはじめたのです。あのころは、ちょうど六三制の教育制度が発足したばかりのころで、村の財政事情も極端に悪い時期でした。食糧の確保の問題があり、新制中学校の校舎建設という緊急な課題をかかえていました。分校設置に熱心だったのは、なんといっても若い向学心に燃えた青年達でした。その青年達が中心になって、公民館の暗い電灯のもとで、毎晩のように集まりがもたれました。とうとうそれが村議会を動かし、予算をつけてくれて、昭和二十五年七月一日に、上山分校でなく分室として開設されたわけです。六月におこなわれた入学試験には、百名を越す受験者がおしかけたのですから、今からみるとうそのような話です。年齢的にもいろいろな人がいました。軍隊あがりの人、旧制中学の卒業生、青年学校の卒業生、そしで新制中学の卒業生、実にいろいろな人が集まりました。三十すぎて結婚している人もいれば、まだ十六歳の新制中学卒業生もいました。電灯は、広い教室に百ワットの裸電球が四個だけ、しかもよく停電があり、そのたびに授業が中断したり、そのまま放課になったりしました。暖房用のまきを家から運んだり、終っても帰るバスのない先生の宿泊場所を捜したり、その苦労といったらありません。でも、先生をひっぱり出して、よく飲みにいったもんです。熱がはいってくると十二時、一時ということもざらにありました。みんなが共通していることは、燃えるような向学心でした。先生と議論して、負けまいとして必死でした。今から見ると、まるで夢のような話です」
 村山さんの話は、いつのまにか自分の話に酔ったようにしゃべりまくり、ついにはこの上山分校の衰退を嘆く。たしかに時代が変わってきた。しかし、上山分校こそこの人の青春の砦であり、心の中の原風景なのであった。
 そうした上山分校の評価は、現在必ずしも高いものではなかった。あの創設のころの燃えるような向学心をもった人たちがおしかける時代ではなかった。学力が低いために初めから全日制をあきらめた人や、受験に失敗した人の集まる場所にかわった。しかし、それでもなお、家庭の都合で全日制へ行けない人も多くいた。上山分校は、そういう人たちにとって不可欠のものであった。ここが定高とよばれ、それをテイノウとよぶ人がいてもなお、この分校の灯は消すことができなかった。
 五十嵐が学校を出ると、外は美しい星空であった。今まで、夜はじっと家にいて、外出することはめったになかった。定時制に勤めるようになって、星空の美しさが身近に感じられるようになった。車のおいてある学校の校門までゆっくりとグラウンドを横切ってゆく。闇につつまれたグラウンドの上に、たき火のあと赤くおきた襖を散りばめたような空が広がっていた。あたりの家の灯は大かた消えて、それは五十嵐だけにしか見えない光のショーであった。
 去年留年した正夫が、このところずっと教室に姿を見せなくなった。家に電話してみても、家にはいないという。友だちにきいてもわからない。正夫は授業をうけるときも、いつも教室の後ろにいて、授業がおわると同時に、教室から消えてしまい、なかなか会えなかった。
 放課後になって、橋田先生から
「正夫は、体育館でクラブをやっているよ」
といわれて体育館にいってみると、正夫はランニングと短パンにシューズをはいて、バスケットボールをやっていた。生き生きと動いて、ゴール下に巧みに相手の体をかわして突進する。授業時間のあの小さくなっている姿とは、まるで違っていた。正夫には、このクラブさえあれば、授業はいらなかった。額にも肩にも汗が光っていた。五十嵐はこの姿に圧倒されたように声をのんで練習のようすを見続けた。この練習がおわるまで待っていようと思った。十時すぎて、そろそろクラブの練習もやめるところが出て来て、どの部も整理体操や道具のあとかたづけにはいっていた。
 五十嵐は、正夫を体育館のすみに呼んだ。
「きょうは、どこにいっていたんだ」
 正夫は、横を向いたまま答えない。
「バスケットをやっているとたのしいか」
「そんなこと、…どうでもいいでしょう」
「バスケットもいいが、学校は、バスケットだけやるところでないんだぞ。みんながまじめに授業しているのに。お前は学校をどう思っているんだ」
正夫の顔がかわった。
「おら、こんな学校いつだってやめるつもりなんだ。先生に口出してもらわなくてもいいんです」
 五十嵐への正面切っての挑戦であった。
「ふん、そうか。お前がそういうんなら、いつでもやめてもらってよい。おれは知らんぞ」
 思わず、五十嵐も強い調子でいう。正夫は、いったいどんな気持ちなんだろう。正夫は、三月に留年がきまったとき、退学届の用紙をもっていったという。それなのに、退学届は出さず、一年下の生徒と机を並べてがんばるつもりであった。おそらく、それも、このクラブをやりたいからだろうと他の先生はいう。陸上大会でも、いい成績をあげ、上山分校の名をブロックの他校にひびかせていた。正夫は、そのためにこの上山分校にいるようなものだった。しかし、目の前にいる正夫は、五十嵐の前に固く心を閉ざしたままである。
「先生からいわれなくても、自分でそこはちゃんとわかっています」
「わかっていてどうしてやれないんだ」
「いいたくないんです。それだけです」
 正夫は、そういって、五十嵐の前から逃げていった。
 家に帰ってからも、五十嵐は、この正夫をどう扱ったらよいか、それを考えあぐねていた。いつでも学校をやめてよいといっているのだから、いっそのこと早く退学届を出させて、学校に関係ないものにしたら、どんなにさっぱりしていいだろう。職員の間では、これを「切る」という。何かあるたびに、口にのぼってくるのは、彼の中学教師だった経験の中にはないことであった。
「いっそのこと、切ってしまったらどうだ」
 橋田先生はいった。このことばが、五十嵐の意識の中に残り、ぬるい湯に浸りながら、いつのまにか考えこんでしまう。恥をしのんで、下級生の教室で授業をうけようとする正夫はやはり学校に未練があるのであろう。なんとかして、心を開かせて、学校にくるようにしむけなくてはならない。これが教師ではあるまいか。
 翌日、五十嵐は、朝六時すぎに正夫の家に出かけた。勤めに出る前に、本人と家の人に会うためであった。彼の家は、これからちょうど朝飯を食べるところであった。
「このごろ、正夫君があんまり授業へ顔を出してくれないもんですから」
「それはきいています。中学のころから、あれは、あまり勉強が好きでないらしかったんですが、今は、学校を出なければといってむりやりすすめたせいもあります。私どもも責任があるんです」
「ことしの三月に、退学届用紙をもらっていったと聞いているんですが」
「そうなんです。用紙をもらってきたんで、はじめ本人もやめるつもりでいたんですが、どうして気がかわったのか、四月にはいってどうしてもゆくといいだしたもんで、お前がその気になったら、いってみろといったんです」
 正夫の父は、こういった。正夫はどうして留年しても学校を続ける気になったのだろう。そこへ正夫が二階からおりてきた。
「先生も、朝早くからもの好きだね。用がすんだら、早く帰らっしゃい」
とまるで、人ごとのようにいう。なんのために朝早く五十嵐がこうして訪ねて来たのか、正夫も知っているはずだ。
「おまえがこのごろ学校へ出てこないもんで心配になってね。家でどうしているかと思って」
「そんなこと、先生から心配してもらわんでいいぜ、おらちゃんと仕事しているぜ」
「そうだな。その調子で学校の方もちゃんと出て来いや」
「よけいなこといわんで、帰らっしゃい。おら家は、きょうは田植えで、忙しいんだすけのう」
「そうか、そいつは悪かったな」
 五十嵐は、笑って外へ出た。正夫に追い出されるような気持ちであった。家の人は、それをたしなめるわけでもない。正夫は五十嵐の心配をどううけとめているのだろうか。彼独特のテレでとぼけているのだろうか。帰りぎわに、家の人に、正夫がまじめに学校へ出てくるようにすすめてほしいということがせいいっぱいだった。
 正夫は、近くの建設会社に勤め、話に聞けば、大きなトラックに資材を山のように積んで、毎日のように遠くの現場まで運転しているという。そんな話を聞いたり、クラブの練習の熱心さを見たりしていると、正夫がわからなかった。
 そんなある日、正夫が体育館に来ているというので、あわてていって見た。正夫は、学校に来ても、教務室はもちろん、教室にも顔を出さず、すぐ体育館にゆく。正夫にとっての学校とは、この体育館さえあれば、足りるという感じであった。
 この日は、さすがに、クラブはしていなかった。壁によりかかるようにして、ぽんやりと他の人の練習を見ている。そばにゆくと、ぷんと酒の匂いがした。
「酒飲んでいるな」
「どうでもいいでしょう。きょう退学届を出すんだから」
「そうか。お前、後悔しないんだな。お前の好きなクラブもやれなくなるんだぞ」
「いまさら、そんなこといってもどうしょうもないでしょう。こんな学校に未練はありませんよ」
「それで、これからどうする」
「そんなこと、先生から心配してもらわなくてもいいですよ」
 正夫は、そういって、もってきた退学届と印鑑をつき出すようにして五十嵐の前に差し出した。
「家の人は知っているのか」
「はい」
「ちょっと電話してみるから、教務室に来ないか」
「いかなくてもいいです」
 五十嵐は、教務室にもどって、家の人に電話した。
「そうですか。本人がそういっているんなら、もうあきらめます。いろいろ御心配かけて申し訳ありません」
 短い電話だった。五十嵐は、そのまま教務室を出た。廊下を歩きながら、とうとう正夫も退学するのか、とくりかえしてつぶやいた。五十嵐が受け持って最初の退学者であった。体育館にいって、家の人が同意したことをつげ印鑑を手渡した。
「それじゃ、これで、友達が待っているので」
 正夫の最後のことばがそれだった。お礼のことばもなかった。五十嵐は、それを期待などしていなかったが……。
 教務室にもどると、正夫の退学届の末尾にある「学級担任所見」をどう書こうかと迷っていた。

 昨年度の留年が重荷になったためか、次第に学校へ来なくなったため、本人にも度々出席を促し、家庭にも連絡したが、効果なく、本人から退学の申し出があった。学校へ残るよう勧めたが、退学の意志が固くやむなく同意した。

 たったこれだけの文章を何度も書き直した。正夫はなぜ学校へ出てこなくなったのだろう。留年が第一の理由ではあろうが、その後も二ヵ月はよく教室にも出ていた。酒を飲まなくては、退学届を書けなかったのは、やはりまだ学校へ未練があったという証拠であった。もっと彼の内面に踏みこんで、救ってやるべきではなかっただろうか。テレビドラマの主人公の教師なら、こんな生徒をどこまでも追って、本心を開かせたであろう。そして、それがまた生徒の間で人気があった。五十嵐には、そんな若さも行動力もなかった。卒業する生徒は、入学した時の七割にも達しないという過去の統計が頭に浮かんだ。上山分校の五百名の卒業生の他に、百五十名の生徒が短い期間でも在籍してそして退学していったことになる。この百五十名の生徒は、どのようにして退学していったのであろう。その時、学級担任は、どのような気持ちで退学届にサインしたのであろう。五十嵐は今しきりにそれを知りたいと思った。担任の心配の種がなくなって、ほっとしたという気持ちかも知れないが、だれもそれに悔いは残ったであろう。教師の無力を感じたに違いない。ほんとうにこれでよかったのだろうか。正夫の人生が、この時を境に大きく変わるかも知れない。大きくなって、正夫から「先生は、なぜあの時、おれの退学をもっと強くとめてくれなかったのですか」といわれたら、五十嵐はかえすことばがないと思った。教師は、常に人の生涯にかかわる役を演じている。成功したときは嬉しいが、失敗したときの責任の重さははかり知れぬものがある。そしで、教師としての十年間は、成功よりも失敗の方が大きかった。はたしで、自分は教師としてふさわしい人間なのであろうか。正夫の将来にとって、この日が大きな暗い影となってあらわれてゆくのではあるまいか。また一人人生の方向をかえてしまったと思った。
 その日、みんなが帰ってからも、いつまでも教務室に残った。

 
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