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「薄暮の始業ベル」 | 第二小説集『紙の匂い』

薄暮の始業ベルworks

薄暮の始業ベル 6

 長い一年間が終わり、五十嵐の受け持ちクラスの十五名は、そろって、四年の卒業年度を迎えた。
「先生、わたし結婚しようと思うのですけど」
 その年の九月のある日、生徒の一人芳美から、こう話されたときにはびっくりした。生徒は、五十嵐にとって、びっくりするようなことを平気で、なにげなくいう。この時も、放課後の体育館の片隅で集会の始まるのを待っている時であった。
「まさか、ここまで来て学校をやめるんじゃないだろうね」
「あと半年だし、学校は続けるつもりです」
「結婚は、学校を卒業してからじゃだめなのかね」
「それがだめなんです。家は聟とりでしょう。家の人も急いでいるんです。それにカレがいつ転勤になるかわからないし……」
「相手の人って、どこに勤めているの」
「電力会社なんです。今のところが三年目でしょう。いつ転勤がくるのかわからないんです」
「それにしたって、そんなに急ぐこともないだろう」
 芳美は、近くの町立病院の准看護婦をしていた。月に数回准夜勤務があり、この時にはどうしても学校を休むため、普通の人より欠席が多くなりがちであった。この芳美が、在学中に結婚するなんて、どんな気持ちなのであろう。ますます卒業しにくくなるばかりだ。これは、なんとしでも芳美のためにも結婚式をあとに延ばさなければならない。
「でも、もう日どりも決まっているし、準備もすすんでいるんです。それに、結婚式には先生からもぜひ出てほしいんです」
「えっ、おれが出るの……それは困る。いったいなにをいったらいいのかな」
「先生、そんなに驚かないで下さい。学級担任の先生くらい呼ばないとと家の人もいうんです。先生からぜひ出てもらって、お祝いをいってほしいんです」
 そういって、芳美は、カバンをあけて白い封筒をとり出した。
「はい、これ招待状です」
 五十嵐は、だまってそれを受けとった。裏の封印には金箔でうき出させた寿の字が押してあった。もはや、五十嵐が口を出すところはなにもなかった。その招待状は、五十嵐の口出しを頑なに拒否した。
「いくらなんでも……在学中に子供が出来たなんてことはないだろうね」
「先生、それくらい心得ています。これでもわたし、看護婦のはしくれなんですから」
 芳美は堂々としたものである。これだけは釘をさしておかなければならないと思ったので口ごもりながらいったのに少しもものおじするようすもない。芳美はそのままそそくさと集会の列にもどった。五十嵐の手元に、四角い招待状だけが残った。

謹啓、初秋の候皆様には、益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、この度、長倉繁樹様御夫妻の御媒妁によりまして
   信一 長女 芳美
   春雄 三男 竜介
との婚約相整い、左記の通り結婚式を挙行いたすことに相成りました。つきましてはいく久しく御懇情を賜わりたく、右披露宴を兼ね粗宴を催したく存じます。御繁忙のところ甚だ恐縮に存じますが、何卒御臨席を賜わりたく御案内申し上げます。

 この文のあと式場と日時が書かれ、おわりに、「五十嵐浩吉様」と書かれてあった。ここには、五十嵐が踏みこむことをゆるさない威厳があった。家庭の私事に対して、単に学級担任という弱い立場で、何の発言ができよう。芳美の結婚式への出席をことわることもできなかった。一面から見れば、生徒と担任は、ほんの偶然の結びつきにすぎない。しかし、それでいて、生涯にわたって結びついているといってよい。正夫の退学の時もそうだった。今また芳美の結婚式に欠席すれば、「あの先生は、わたしの結婚式にとうとう来てくれなかった」と生涯恨まれるかも知れない。一枚の招待状にむりに引きずられるようにして五十嵐は、芳美の結婚式に出ることにした。
 十月にはいって芳美は、近くの公民館で結婚式をあげた。背が高いせいか、花嫁衣装がよく似合った。この花嫁姿を見ようと、近所の人達が集まっていた。高校生の花嫁であることなど、近所の人たちには知られていないようであった。その人たちにとって芳美は、れっきとした病院の看護婦であった。指名されて、型通りのお祝いの言葉を述べた。ぜひ、学校だけは卒業してもらうよう花聟にお願いするといってあいさつをおえた。いくらなんでも、こんな席で、芳美の結婚を非難することばなどいえるはずがない。坐っていても、上山分校の他の職員の批判が耳に響いてくるような気がした。
「いったい、高校の在学中に結婚するなんてどんな気持ちでいるんだろう」
「ままごとあそびでもしているんでないか」
 しかも、その批判は、その生徒の結婚式に出席している五十嵐への非難に思えた。
「よく、あんな生徒の結婚式に出る気になったね」
という声が聞こえてくるようで、じっとしていられなかった。芳美が、新婚旅行から帰ってきた翌日から、二学期の中間テストが予定されていた。いったい芳美にどれだけのその準備があるというのであろうか。なにもかも異例のことであったが、教師として耐えてゆかねばならぬことであった。これが、卒業したあとなら、高校時代の恩師として、胸を張って出席できたであろう。教師は、いつも生徒の不始末のあとを始末しなければならない。
 二月にはいって、学校では、四年生のための卒業試験が始まっていた。二日目の午後、五十嵐のところへ、芳美の勤務する産婦人科の医師から電話がはいった。芳美が、出血し流産のおそれが出ているので、しばらく安静が必要だという。なんというばかなことを。五十嵐は、一瞬声を失った。芳美は妊娠していたのだろうか。あれほど、子供だけは、今産むなと念をおしていたのに。そんな体で、他の生徒と一緒に体育の授業を受けていたのだから、無理もないことである。ここで試験を受けられないとなると、あとは追試を待つしかない。これは、卒業試験で単位を落とした生徒のために行う最後のチャンスなのである。しかも、その追試にもあと二週間しかない。それまで、芳美の体が回復するのだろうか。ともかくも、芳美の病院にいかねばならぬ。この日は、朝からこまかい雪がずっと降り続いて、車の前が全く見えなくなることもあった。車は坂道に来ると、苦しそうなエンジンの音をたてて、尻をふったりした。なんとかして病院にたどりついてほしい。五十嵐は、必死にハンドルをにぎっていた。
 芳美の病院の部屋のドアをあけると、芳美は、五十嵐の姿をすばやく見つけて
「先生、すみません」
とベッドの中でいった。こういわれると、五十嵐は、かえすことばがない。怒ろうとしていたことばもでてこない。
「だから、あの時、いっていただろう。ばかなやつだな」
 五十嵐は笑いながら、冗談めかしていった。
「どうして、こんなになったんだ」
「いつもより、生理が少しおくれているみたいだなと思ったけど、まさかこんなになるとは思ってみなかったんです」
「失敗したんだな」
「はい」
 そういって、芳美は、大きく舌を出した。
「こんなことなら、ちゃんといわないとだめじゃないか」
「だって、はずかしかったんだもん」
「もう、こうなれば、あとは追試をうけるしかないんだが、あと二週間、それまで退院できるだろうか」
「なんとか受けるようにします。あとで、病院の先生に聞いてみます」
 心配していたより顔色はよく、元気そうだった。ずっと母親がつきそっている。
「今は、試験のことより、安静第一に考えて、一日も早く退院するように心がけて下さい」
「いろいろと迷惑をかけてすみません」
 母親のことばをきいて、病院を出た。
 外は、ひどい雪降りであった。雪は人間の不幸や、気持ちを優しく待ってくれようとはしない。ひたすら、この世を埋めつくすかのように、けんめいに降るばかりだ。降ることが雪の意志なのであろう。五十嵐は、また一つ問題をかかえこんだ。

 
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