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「欠ける視像」 | 第二小説集『紙の匂い』

欠ける視像works

欠ける視像 4

 二年後の四月、明日から新学期の打合せがはじまろうという日、川瀬は、こたつで四歳になる娘のチズを抱いていた。川瀬がこたつにはいっていると、チズはいつのまにか絵本を持ってするりと膝の上にあがりこんでくる。このチズの右側の頬が、川瀬の視野から消えていることに気づいた。手でふれてみると、そこには、桃の実のようなふっくらとしたチズの頬があり、つやつやとした柔らかい髪の毛があった。これが、書物の文字や、時計の文字盤が消えたのなら、ああいつもののがおこっているなとくらいしか思わず、たいして気にもとめなかったであろう。しかし、彼が目の中に入れてもいたくないほどのチズの顔の一部が見えないことを知って、川瀬の動揺は大きかった。手にもっていたお茶をこぼしそうになって、こたつ板の上に置いた。
「読んでちょうだい、読んでちょうだい」
としつこくチズは本をつき出すが
「夜になったら読んでやるよ」
といって、そこにごろりと横になった。妻も母もかたわらにいたが、川瀬は、目の異常を打ち明けなかった。静かにしていればまもなく平常にもどる。川瀬はそう思いつつ、ひとり苦しみに耐えていた。これを家族のものに話したところでどうなるものでもない。心配し、病院にゆくことをすすめるだけである。異常はいつものように三十分くらいでおわった。
 夜になって、川瀬は、妻に明日病院にいって目を見てもらうことを告げた。妻は心配そうな顔つきで川瀬を見た。
「またわるいの」
「いや、たいしたことはないよ。また学校がはじまるし、今のうちによく診てもらおうと思って」
「目を使いすぎるせいよ。もっと目を大事にしてくれるといいのだけど」
 妻はひとりごとのようにいった。妻との会話は短くおわった。
 翌日、川瀬は、N総合病院の眼科にいった。眼科は、眼帯をかけている人や、視力の検査をうけている人でごったがえしていた。この中に川瀬のような病状をもっている人が何人かいるのだろうか。ようやく川瀬の番がやってきた。川瀬が病状を話すと「発作が終った後、頭痛がしませんか」
医師が、この目の異常を発作とよぶのに驚いた。発作といえば、ひきつけをおこし、全身がけいれんするような症状をいうのだと思っていたのに。目の異常も、そうした全身症状と同じ発作であったのだ。
「はい、発作のあとにしばらく頭痛があるんです」
「あなたのような人を、二、三人診たことがあります。手や足のさきがしびれたり、震えたりすることはありませんか」
「いや、そんなことはありません」
 川瀬はこの質問にぎくりとし、強く否定した。手足のふるえやしびれは、あきらかに脳の異常と結びつくはずである。医師は、川瀬の目の異常を明らかに脳の異常と考えていた。同じような症状の患者は、その後どうなりましたか、川瀬は医師にそれを聞こうとしてやめた。その答えがおそろしかった。幸いなことに、川瀬は、目の発作以外の他の症状は全くなかった。それは、医師が前に見たという患者よりも軽い症状と見ていいのだろうか。川瀬は、診察室のそばの暗い部屋で、フリッカーテストを受けた。白い半球体の内側に頭を固定して、表面に現われた光の点を、どのあたりで確認できるか、あるいは、光の規則的なゆれを、どの程度確認できるのか検査するものであった。光は、下からのぼってきたり、左右から現われたりした。正面を見つめた川瀬の視野に光が入ってきたとき手元のブザーをおすようなしくみになっていた。緊張しているせいか、川瀬は、光のゆれが始まる前にブザーを押して、叱られた。
「これには、ひっかかってくると思ったのにこれもだめか」
 検査が終ってから医師は、ひとりつぶやいていった。「ひっかかる」ということばは、おかしなことばだなと思いながら、ともかく、川瀬の目は、発作が起きていない時には、どこも悪いところはないことがわかった。
「軽いてんかん発作のようなものかも知れませんね。眼球に通じている視神経の血管が一時的につまってしまうような。ともかく脳外科の方でもう一度診てもらって下さい」
 脳外科と聞いて、川瀬は、恐れていることがほんとうになるかも知れないぞと思った。視神経の血管を圧迫し、つまらせているものは脳にできている悪いできものではあるまいか。脳の中に、悪性腫瘍ができていて、少しずつこの細い血管を圧迫するのではあるまいか。川瀬は勝手にこう決めこんでいた。ひょっとするとこれはむずかしい病気になるのではないだろうか。
 脳外科の若い医師は、川瀬の手や指を動かしてみたり、頬にさわったりした。目以外の末梢神経の異常を調べたものであろう。どこも異常はなかった。
「この症状、これからどうなってゆくのでしょう」
と川瀬がきくと
「さあ、全くわかりませんねえ。あなたのいうように、これから年に一、二回の割で発作がおこるのか。あるいはもっと回数が増えてゆくのか。とにかく、もう少し脳を調べてみないとなんともいえませんね。きょうは、まず頭の写真をとってもらいましょう。この次脳波の検査をすることにしましょう」
という答が返ってきた。川瀬は医師が脳腫瘍の恐れを隠しているなと思った。こんどは、レントゲン室の椅子に腰かけて順番を待った。川瀬の脳の一部に腫瘍ができていて、少しずつ今も増殖し続けているのではあるまいか。レントゲン室のベッドで仰向けになったり、横になったり、いろいろな角度から何枚も写真をとられた。もし、脳の異常があるなら、このフィルムのどこかに白く点のように映っているはずであった。
「あと、一週間したら、病院に来て下さい。この次に脳波の検査をしますから」
といわれて病院を出た。午前中、病院の中をぐるぐる回されて、もう十二時をすぎていた。歩道の敷石の上を歩きながら、自分の足のような気がしなかった。黒いレントゲン写真に、脳の異常部分が白くなっているフィルムが、脳裏に浮かんだ。
 一昨年、眼科の門をくぐった川瀬は、失明の心配ばかりしていた。失明くらいならきっと乗り越えられる。点字の本もあり、点字でものを書くこともできる。しかし、脳腫瘍はどうだ。それはかなりの部分が死とつながっているのだ。

 
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