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「欠ける視像」 | 第二小説集『紙の匂い』

欠ける視像works

欠ける視像 6

 一週間後、川瀬は、脳波検査室の固いベッドの上に横になっていた。眼鏡も腕時計もはずされて、頭に網のようなものをかぶせられた。この網のところから、頭の表面に何ヵ所か、ピンのようなものを皮膚につきさすので、その度にチクリと痛みがある。耳たぶにもさされた。両手は、コードのつながったクリップではさまれて目をつむる。途中、何度か深呼吸をするような指示があり、機械を操作する音が聞こえ、頭上のライトが点滅し、その点滅の時間が早くなってゆく。こんな姿を外から見たら、テレビマンガの改造人間のシーンだなと川瀬は思う。科学者である父親の手によって、電波をあてられて、超能力をもったスーパーマンに作りかえられてゆく。そして地球を襲う悪と対決してゆく。その主人公に比べて、自分は冴えないと川瀬は思う。脳にあるかも知れないなにかの異常は、川瀬の生命を奪うことになるかも知れない。脳波の検査は、二十分くらいで終った。
 脳波の記録用紙のはいったハトロン封筒を持って、川瀬は脳外科へいった。薄い冊子本のような記録用紙に、幾重にも波線が記録されていた。川瀬の脳に異常があるならば、その波線のどこかが大きくゆれているところや規則正しい脳波の波が崩れるところがあるはずだと思った。
「頭の写真、脳波の検査、両方とも異常はありませんね」
 若い医師は、ていねいにレントゲン写真をながめ、脳波の記録用紙を見ていった。
「どういうのでしょうね。どうしたらわかるでしょうか」
「もっと本格的に調べてみますか」
「本格的といいますと……」
「脳の血管撮影というのがあるんですよ」
「どんなことをするんですか」
「首すじの血管に針をさしこんで、ここに造影剤を入れて写真をとるんです」
「それで、ほんとうにわかるんですね」
「ええわかりますとも。これまでしてわからなかったら、どこにも異常はないということですよ」
「そうですか。この際ですから徹底的にやって下さい」
 とにかく、ここまで来た以上、やれるところまでやって、はっきりしてもらいたいと思った。局部麻酔を使ってのかなりきつい検査であるらしかった。そのせいか、この検査には、家族の同意書が必要であり、そこに家族の署名捺印の欄があった。それだけ、この検査が、手術と同じような性質を持つものであることを感じさせた。
「心配いりませんよ。毎日、二、三人はやっているんですから。当日運転はできません。付添の人と一緒に来て下さい」
と医師はいう。妻に話したら心配するだろうなと川瀬は思った。今の川瀬は、検査してわかるものなら、どんなこともやってもらうつもりだった。なんとしても生きのびなければならなかった。
 その日、そのまま学校に行った。川瀬は、教室で自分の病気のことを話した。後の方でだれかが
「先生、それノウシュヨウじゃないですか。ユウ子さんみたいに」
といった。みんながつられて笑った。ちょうどテレビで、脳腫瘍で目が見えなくなった少女と医師をめぐるドラマをやっていたので、生徒は、そのことをいったらしい。ふともらした自分の病気を生徒に笑われるとそれきり話さなかった。自分の中の死の影を感じで、不安におびえているのに、その気持ちを知ってか知らずか、だれかが冗談をいい、クラスのものもつられて笑う。生徒には他意はなかったのであろう。しかし、川瀬は、自分の体のことを話したことを後悔した。
 その後、明日の検査のことを妻に話した。
「そんなことして大丈夫なのかしら」
「心配いらんよ。今は徹底的に調べてもらった方がいいのさ」
「もし、あなたが入院でもするようなことがあったら、どうしょう。今まであなた少し目を使いすぎたのよ。こんどもう少し自分の体のこと考えてもらわなくちゃ」
「他に悪いところはないのだし、きっと異常なしということになると思うよ。でも入院だといえば、それも仕方ない」
「とても、わたし自信がないわ。二人の子のめんどう見たり、両親のめんどうみたりするのなんか」
「それもしかたないさ。それが夫婦じゃないか」
 川瀬は、明日の検査のあといったいどうなるのか、とても見当がつかなかった。検査のあと、脳の異常が発見され、入院、手術ということになり、あるいはM氏のように手術不可能となったら、川瀬のゆきつくところは死しかない。今まで、自分の気持ちの整理だけを考えていたのに、彼の身体には、年老いた両親と、妻と二人の子供の五人の運命がかかっていたのである。妻のことだから、なんとかしで、両親のめんどうを見、二人の子供を育てあげてくれるに違いない。しかし、また一方では、夫の死のあと生きる自信をなくした妻が子供道連れにして心中をはかった新聞記事などもちらりと頭に浮かんだ。死に直面した人が、自分自身の気持ちの整理のみでなく、自分なきあとの家族の将来まで考えねばならぬということは、なんという酷なことであろう。今はただ、検査の結果を無心な気持ちで待つより仕方なかった。今、こうして元気でいるのに、脳の異常と死まで考えることが杞憂にすぎないのではなかろうかという気持もあった。
 川瀬の検査は、午後二時から実施されることになっていた。この日は、勤めを休んだため、午前中はひどく手持ちぶさたとなった。ひとり書斎にこもって、いつもより少していねいな日記をしたためた。そのあと、雑誌の中の小説を何編か読んだ。いつもよりも、すっきりと頭の中にしみこんでゆく。その間にも午後からの検査のことが頭に浮かんだ。入院手術ということになれば、この部屋ともしばらくお別れである。M氏は、入院の時、あの書斎の中でどう気持ちを整理していったのだろう。そんなことがふと思い出された。
 その日の昼食はとってはいけないということで、少し早めに、妻を助手席にのせて病院に向かった。十二時すぎに脳外科の診察室に入り、ここで注射を受けた。これから検査の時に使う注射液が体にあうかどうか調べるために少量、体に入れてみるのだという。これは異常がない。
 そのあと、レントゲン室にゆき、上半身裸にされ、体中消毒された。ベッドの上に寝かされるが、頭は、ガラス箱状の上にのせられ固定される。ベッドの後の方には、この検査に使用するらしい金属性の機械がセットされ、レントゲン技師や脳外科の医師、看護婦らが控えて異様な雰囲気である。川瀬は、まずこの複雑な機械や大勢の人たちのこの部屋のものものしさに驚かされた。局部麻酔の注射をされたあと、目かくしされる。
「この検査は子供でもやっているんですから心配はいらないんですよ」
 患者の不安を取り除こうとするのであろう、医師も看護婦もくりかえし川瀬に向かっていう。左あごの首すじに針をさしこまれる。目かくしされていて見えないが、重いものをのせられたような重圧感があった。何回も針をさしこんで、目的の場所にいかないのか、医師のいらいらした雰囲気が、目かくしされた川瀬にも伝わってきた。頭は、すっかり固定してあって動かせない。川瀬がのみこむつばもしばらくやめでくれという。血管の中に造影剤が流しこまれたのだろうか。針先のあたりからはじまって、シューという音がして、頭全体が灼けるように熱くなった。しかし、それも短い間であった。これが何回もくりかえされる。その間にも
「フィルムを入れるのを忘れるところだった」
という声が聞こえたり、医師と看護婦の軽口をたたきあう言葉も耳にはいった。
「それでも女だったっけ」
「まあ失礼しちゃうわ、ちゃんと胸には女の証拠がついていますよ」
 どこから始まったのかこんな会話のやりとりが聞こえた。緊張してベッドに寝かされている世界と異質な世界がそこにあると思った。検査は、四十分くらいでおわった。首にはきつくガーゼがあてられ、首を動かせなかった。目かくしがとられた時、医師がまっ先に
「心配されたことはありませんよ」
といった。廊下で妻が待っていた。妻に服を預けて、歩いで脳外科のベッドまでゆく。しばらく休んでから、妻といっしょに医師の説明を聞いた。
 自分の頭の写真が窓に張られていた。血管が葉脈のように白く浮き出ていた。
「一番心配していたことは、頭の中に悪いものができていないかということでしたが、どこにもできておらず、安心して下さい。しばらく脳の血管をひろげる薬をやりますから、続けて飲んでみて下さい」
 川瀬は、医師のことばをかみしめるように聞いた。これでまた生きのびることができるのだと思った。そして、彼の城である、あの書斎へもどれるのだと思った。霧が晴れてゆくように不安が消えて、明るい世界が見えた。医師が背にしている窓ガラスの外で、雲が激しく流れてゆくのが見えた。風が強いのだろう。雲が切れて、青空が川のように見えた。明るく透き通った渓流のような青空の川であった。

 
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